65、夏期講習
私は左腕につけられているブレスレットを見て、ニヤニヤ笑いが止まらなかった。
このブレスレットは光の反射の加減で蒼くなったり翠色っぽくなったりと、沖縄の海を表現しているように綺麗だ。
私はもらった日から嬉しくて、毎日お風呂のとき以外は身に着けるようにしていて、厳しい先生に見つかったときには「お祓いの数珠です!」と嘘をついて逃げるようにしていた。
修学旅行は井坂君の色んな面が見られて、私は彼のことをよく考えるきっかけになった。
彼に我慢をさせてしまったから、すれ違いが生じてあんな事になってしまったんだ。
それなら我慢させなければいい!!と思ったのだけど…
私はあの日以上の事をする勇気と覚悟がまだできなくて、日々悶々としていた。
井坂君も井坂君でアレから触れてくる回数が減った。
一番大きいのは毎日してたはずのキスが修学旅行以降、途絶えた。
手を繋いだりとか、たまーにギュッて抱きしめたりはするけど、そこまででそれ以上はナシ。
良い雰囲気になろうものなら、井坂君が全力で逃げ出すという事の繰り返しだ。
原因が私なだけに、文句も言えない。
私はキスもできない現状にフラストレーションを感じていて、その度にブレスレットを見つめてはあのときの事を思い返す。
「はぁ…。」
どう見たってこれは欲求不満だ。
まさか自分がこんな事を思う日がくるなんて、夢にも思わなかった。
私は蝉の音の響く教室の中で机に突っ伏すと、だらんと手を前に伸ばした。
「しーおりん。なんかお疲れ~?明日から夏休みだっていうのに。」
「あ…篠ちゃん…。夏休みかー…今年は夏休みないだろうなぁ…。」
私は横から話しかけてきた篠ちゃんの方へ顔をゴロンと向けると、ぼやいた。
篠ちゃんは頬杖をついて、不思議そうな顔で首をすくめた。
「どうしたの?夏休みがないだなんてさ。」
「うん。お母さんから今年は夏期講習に行かせるって言われて…。もう申し込まれちゃったんだよね…。」
「夏期講習!?学校であんだけ宿題出されんのに!?うっわ…最悪だね…それ…。」
「そうなんだよ~。もう、すっごいブルーでさぁ…。せっかくの夏休みなのに、休みはお盆の一週間だけだよ!?あり得ないよね!?」
私は彼氏のいる初めての夏休みにあんまりだと涙目になった。
篠ちゃんもフォローする言葉がないのか、苦笑しながら「お気の毒に~。」なんて他人事のようだし、私はますます悲しくなった。
夏期講習を申し込んだというお母さんの言葉を聞いて、私は全力で歯向かった。
それこそ今までにないぐらいに。
でも、最終的にケータイまで没収されそうになって、しぶしぶ諦めた。
ケータイがなかったら夏休みに井坂君の声も聞けなくなる。
「っていうかさ、それじゃあ、しおりんは文化祭の練習も来れないって事だよね?」
「うん…。ホントに申し訳ないんだけど…夏休みのダンスの練習は無理だと思う。」
今年の文化祭は中庭でのライブパフォーマンスなので、ウチのクラスは今年こそ全ての優勝を狙って、夏休みから練習するらしい。ダンスと音楽をミックスさせたステージにすると、赤井君が意気込んでいた。
「そっか~…じゃあ、二学期に入ってから練習が大変だよ?なんなら、やった事だけ教えに行くけど。」
「大丈夫。篠ちゃん、部活もあるし大変でしょ?私は二学期に入ってから死にもの狂いで頑張るから。」
「そっか。」
私は自分のことは自分でなんとかしないとと思った。
夏期講習も文化祭のダンスも…井坂君の事も…。
私は彼の誕生日がもうすぐだな…と思って、その日までには覚悟を決めようと心に決めたのだった。
***
夏休み初日――――
私は夏期講習のため、駅前の予備校の前に立っていた。
今日から地獄の毎日が始まる…
私は重たい鞄を持ち直すと、ため息をついて中に足を踏み入れたのだった。
そして受付で言われた部屋に行くと、今日の時間割が黒板に書かれていて、見事にお昼しか休憩がないな…と思った。
そうしてクラスのメンバーを見ているうちに見覚えのある顔があって、私はそこへ駆け寄った。
「長澤君。おはよう。」
「え…あれ!?谷地さんっ!?」
メガネをかけてひょろっとした体格の長澤君は、私を見て驚くと慌てて立ち上がった。
私は驚きすぎじゃないだろうか…と思ったけど、気にしないようにして隣に腰を下ろした。
「長澤君もここの夏期講習に申し込んでたんだね~。」
「あ、俺はずっとここに通ってるから…。夏期講習もその一貫で…。」
「そうなんだ。すごいね。毎日勉強続けてるなんて。」
長澤君はやっと落ち着いたのか隣に座って、メガネを指で押し上げている。
私は長澤君がお医者さんを目指してる事を知っていたので、医学部に入るためにこうして頑張っているんだと分かった。
「谷地さんはどうして夏期講習に?」
「私はお母さんが勝手に申し込んじゃって…。イヤイヤ?みたいな。」
私は自ら進んで来たわけではなかったので、彼とのモチベーションの違いに情けなくて笑って誤魔化した。
「真面目だよな…。谷地さんって。」
「そうかな?イヤイヤ講習に来てるのに?」
「いや、そういう事じゃなくて…お母さんが申し込んでも、ちゃんと来るところだよ。普通嫌だったらサボったりするでしょ?」
私はサボったのがバレたときの事を考えて身震いがした。
私は真面目なんじゃなくて、お母さんに怯えてるだけだと思った。
「そんな事したら、その後が怖いよ。」
「はは。でも、俺はやったことあるよ。」
「うそ。真面目そーな長澤君でもあるんだ!?」
「誰でも嫌になることはあるって事だよ。」
私は照れたように笑う長澤君を見て、みんな色々思ってるんだなぁ…と新鮮だった。
やっぱり人って見た目によらないなぁ…
話してみなきゃ分からないや…
私は長澤君の新しい一面を見られて、少し嬉しかった。
そのときケータイが震えて、メールの受信を知らせて、私は手にとって中を確認した。
送ってくれたのは井坂君で、私は名前を見ただけで頬が緩んだ。
『今日から夏期講習だろ?終わったら連絡して。迎えに行く。』
乱暴な言い方だけど、会いたいって思ってるのが伝わってきて、私は『了解。』と返事を打った。
「井坂から?」
「よく分かったね。」
長澤君が横から言い当ててきて、私は驚いた。
長澤君は当然のような顔で微笑むと、机に頬杖をついた。
「顔が違うから、分かるよ。」
顔と言われて、私は自分の顔を触って確認した。
そこまでさっきと変えたわけじゃないはずなんだけどな…
そこまで顔に出るんだろうか…と少し不安になった。
「幸せそうでなにより。」
長澤君が参考書を開きながらフッと笑っていて、私は恥ずかしくなって軽く会釈で返すに留めたのだった。
***
そして、長い夏期講習が終わり、私は急いで荷物をまとめると、ケータイで『終わった』というメールを井坂君に送った。
隣の長澤君に「また明日。」とだけ告げて、出口に向かって足を速める。
会えると分かるとどうしても気が急いてしまう。
私は暑い空気の立ちこめる外に出ると、さっきメールを送ったばかりなのに井坂君が立っていて驚いた。
「井坂君っ!何で!?」
「このぐらいに終わるんじゃないかと思ってさ、待ってたんだ。」
井坂君が笑顔でそう言って、私は彼の髪が汗で濡れてる事に気づいた。
いったい何時からここで待ってたの…?
井坂君は平気そうな顔をしてるけど、相当暑かったんじゃないだろうかと思って胸が痛くなった。
彼の優しさが胸に沁みる。
私はこんなに私の事を想ってくれる井坂君の気持ちを考えて、自分はなんて小さいんだろうかと思った。
私一人、勇気と覚悟が足りなくて、井坂君には我慢ばかりさせてる…。
私はそれが心苦しくなって、井坂君の汗に濡れたシャツを掴むと顔を上げて言った。
「井坂君。8月8日…お家に行ってもいい?」
「え…?」
私は心臓がバクバクいっていたけど、勇気を振り絞って言った。
「……井坂君の誕生日…、二人っきりで祝いたい…。井坂君の部屋で…。」
私はどう思われたかが怖くて、ギュッとシャツを握りしめて目を瞑った。
井坂君はしばらく黙っていたけど、優しく私の手に触れてきて言った。
「…うん。楽しみにしてる。」
目を開けて井坂君を見ると、井坂君の顔が暑さのせいなのか…それとも私と同じ理由なのか、赤く染まっていた。
私はその顔にドキドキしていて、自分から壁を壊すときがきたと感じたのだった。
長澤君は今まで目立ちませんでしたが、最初の方から登場しています。
一年生の文化祭では詩織とゾンビコンビでした。