64、我慢の意味
私がバスの中で薬をもらったり、体温を測ったりしている間、井坂君はずっと反対側の椅子に座ってこっちを見ていて、気が気じゃなかった。
「熱はなかったから大丈夫だと思うけど、念の為薬が効いて楽になるまで、ここで横になっててね。」
先生に指示されて、私は椅子に頭をあずけると横になった。
先生はそれを見て微笑むと、井坂君に振り返って言った。
「ちょっとの間、向こうにいるから見ててあげてくれる?何かあったら呼びに来てくれたらいいし。」
「はい。分かりました。」
私は先生の言葉に二人っきりにさせられると思って、目を見開いた。
先生は私たちの気まずさを知らないので、「それじゃ、ゆっくり寝てるのよ。」と言い残してバスを降りていってしまった。
私は井坂君が見れなくて、顔を背けるとじっとバスの壁を見つめた。
すると背後で動く気配がして、私は体を強張らせた。
振動から隣に座ってきたと分かって、緊張で変な汗をかき始める。
「……ごめん。」
背後から急な謝罪が聞こえてきて、私はちらっと視線を後ろに向けた。
井坂君はこっちを見てなくて、足の上で手を組んで項垂れていた。
「…もう、昨日みたいな事はしない…。約束する。」
昨日みたいな事?って…どれのこと?
私は井坂君がどのときの事を言ってるのか分からなくて、体勢を変えて彼を見た。
「……詩織は……俺の事嫌いになったかもしれないけど…。俺は別れないから。絶対…別れてやらねーから…。」
「な…何、言ってるの?」
私は井坂君が何かを勘違いしてると分かって、思わず声を出した。
「嫌いになったのは、そっちだよね?私の事は避けておいて、見せつけるように一組の子としゃべってさ。私には触ってほしくもないんでしょ?」
私が今までの不安を口にすると、井坂君の顔がゆっくりこっちを向いて視線が交わった。
「俺が…?」
「そうだよ。私が触ったら、振り払ってきたでしょ?一組の女子にはベタベタ触らせてるクセに。」
「いや…触らせてなんかないよ。俺、面倒クセーから適当に相槌打って話聞いてただけで…。っていうか…それ見てたのか…?」
井坂君が信じられないという顔で私を見つめてきて、私は自分が一方的に嫉妬しただけだと分かって罰が悪くなった。
「当たり前でしょ。私の目は勝手に井坂に向いちゃうんだよ。見たくないものまで入ってくるの。」
何でこんなことを言わなきゃならないんだと腹が立ってくる。
井坂君は顔を前に戻すと、頭をガシガシと掻きむしったあとに、言った。
「俺だって…そうだ。詩織が西門君と楽しそうに話してるの見て、イライラして…。島田が平気で詩織に触ってるの見てムカついて…。俺は意識し過ぎて触れもしないのに、何でだって悔しかった。」
ここで井坂君が私の手を振り払ったり、突き放した理由が分かって、気持ち悪さがなくなっていく。
「な…何で…触れないとか…。昨日まであんなに…。」
「アレがあったからだよ。詩織の水着姿、見たとき…。今までセーブしてきたのに、全部吹っ飛んだ。」
私は真っ赤になっていた井坂君を思い出して、胸がギュッと苦しくなった。
井坂君は両手で顔を覆うと、表情がまったく見えなくなった。
「詩織…嫌がってるの…分かってたのに…。自分の気持ち優先した…。外であんな事するつもりじゃなかったのに…。」
井坂君のあのときの謝罪はこれだと理解した。
彼はそれをずっと気にしていたのだろうか…?
私は自分が嫌がった事が事の発端だと分かって、自分も悪かったと感じた。
「アレがあってから…、詩織見るたび思い出して…あのときの感覚に戻りそうになって…。触るのが怖くなった。また、自分の気持ち優先させてしまいそうで…触れなくなった…。」
振り払ったのはそういう理由だったんだ…
私は拒絶じゃないと分かっただけで、心底安心した。
私はいつの間にか頭痛もなくなっていて、ゆっくり体を起こした。
「こんなカッコわりー俺…詩織には知られたくなかった…。でも、誤解させて嫌われる方がもっとイヤだ…。」
「嫌うわけない。」
私は気分の悪さから解放されて、清々しい気持ちでキッパリと言い切った。
井坂君が少しだけ顔を上げるのが見える。
「昨日のことはビックリしたけど…嫌だったわけじゃない。私だって『もっと』井坂君が欲しいって思ったから…。」
私は昨日の感覚を思い出して恥ずかしかったけど、本心は伝えておかないとダメだと思った。
「私は井坂君が私に触ってくれなかったり、一組の女子とベタベタしてる方が嫌だった。彼女だって自信が揺らいで、嫌いになってしまったのかもって思った。だから、カッコ悪くてもいい。全部思った事は言って欲しい。私は井坂君の全部が知りたい。」
井坂君が驚いて顔を上げて、私を見つめた。
私はそんな井坂君の頬に手を伸ばすと、触れてから笑顔で告げた。
「私は井坂君が大好き。嫌いになる日なんて、一生来ない。それは約束できるよ。」
私の大胆告白を聞いて、井坂君の顔が泣きそうに歪むのが見えた。
彼の組んだ手が開いたり閉じたりしているのに目を落として、彼がまだ怖がってるのが伝わってきた。
だから、私は彼から手を引っ込めて、彼のペースに合わせることにした。
我慢してくれてるなら、私も我慢する。
だってここはバスの中だし、先生も戻ってくるだろうから…
「俺も…詩織を嫌いになんかならないよ。一生好きでいられる自信あるぐらいだ。だから、俺の事も一生好きでいてくれよ。」
『一生』なんて先の長い話をする井坂君が可愛く見えて、私は出そうになる笑い声を堪えて微笑んだ。
「うん。私もきっと一生好きでいられるよ。井坂君以外、考えられないから…。」
私が笑いかけたことで、井坂君がやっと笑顔を見せてくれた。
クシャっとした子供みたいな笑顔に胸が熱くなる。
私はその笑顔が宝物に見えて、もう二度とこの笑顔を失わないようにしようと、心に刻み込んだのだった。
***
それから、いつの間にか頭痛のなくなった私は水族館に戻ろうと、井坂君とバスから下りた。
少し奥の方がズキズキしてる感覚はあるけど、ずっと休んでなきゃいけないほどではない。
せっかくの修学旅行なんだから、平気なら楽しまなくちゃ。
私は水族館に戻るとあゆちゃんたちとお土産屋さんの前で合流した。
「詩織!もう大丈夫なの!?」
「うん。なんだかいつの間にか痛みが楽になっちゃって…。ごめんね。心配かけて…。」
私はあゆちゃんたちを見回して頭を下げた。
すると横からタカさんが肩をポンと叩いて、優しい笑顔を浮かべた。
「仲直りしたみたいだね。頭痛も精神的なものだったんじゃない?」
「精神的…?」
「きっとそうだよ。昨日の夜から変だったし。朝の顔ひどかったから。」
ひどい…と言われて、私は少し落ち込んだ。
昨日の朝は可愛くなったと言われ、今日の朝はひどいだなんて…
気持ちが表情に出過ぎな自分に情けなくなる。
「ま、あっちもやっと普通の顔してるし。安心したよ。」
あゆちゃんが私の後ろを見て言ったので、私は振り返って視線の先を見た。
そこには井坂君が赤井君とお土産を見て笑っていて、自然と頬が緩んだ。
そのとき同じようにお土産を見てる島田君が目に入って、私はお礼を言わなければと思い立った。
「ちょっと、ごめん。」
私はあゆちゃんたちから離れて、島田君に駆け寄ると声をかけた。
「島田君。」
「あ、谷地さん。もう大丈夫?」
島田君は見ていた変なボールペンのお土産を棚に戻すと、私の方へ体を向けた。
「うん。ごめんね、長い距離…その運んでくれて…。重かったよね…?」
「あははっ!そんなん平気だって!女子の一人も担げなかったら、男じゃないでしょ?」
島田君はいつものように明るく笑い飛ばしていて、私はその笑い声に救われるようだった。
「あと…その…八つ当たりみたいに…泣いちゃった事も…。その…ごめんなさい。」
私はきちんと頭を下げて謝ると、その上から楽しげな笑い声が降ってきた。
「いいよ。井坂とちゃんと話せたんだろ?なら、あれは必要なことだったんだよ。」
島田君はこっちの気持ちが軽くなるようにあっけからんと言ってくれて、私が彼に打ち明けたのは彼のこの雰囲気からだと感じた。
島田君って…私たちのことよく見てくれてて、それでいて一定の距離から見守ってくれるからすごく安心する…。
私は幼馴染の西門君とは違った話しやすさを島田君に感じていて、胸がほんのりと温かくなった。
「うん…。本当にありがとう…。島田君がいてくれて、本当に良かった…。」
私が少しでも感謝が伝わるように笑顔を向けて言うと、島田君が照れ臭そうに顔を赤らめながら後ろ頭をガシガシと掻き始めた。
そこで私はふと彼の肩で泣いてしまった事を思い出して、ポケットからハンドタオルを取り出した。
「ごめん。私、担がれてるとき、泣いちゃって…シャツ濡れてるよね?これ、良かったら使って?」
「へ?あー、そんなん気にしないでいいって!外暑いだろうし、すぐ乾くって!」
「でも…。」
私は受け取ろうとしてくれない島田君を見て、勝手だと思ったけど拭かせてもらう事にした。
島田君の肩を触って濡れてるところを確かめてから、タオルで何度も押さえつける。
彼は背が高いので、私は少し背伸びしながら濡れてる所に目を向ける。
もう一回指で触ってみて、少しはマシになったかな…と思っていたら、島田君を挟んで反対側に井坂君がやって来た。
「何やってんの?」
「え…?…えっと、シャツ濡らしちゃったから、拭いてるんだけど…?」
「貸して。」
井坂君が不機嫌そうに私からタオルを奪い取ると、島田君の肩を引っ張って向きを変えさせたあと、乱暴に叩くように拭きはじめた。
「あだだっ!!痛いっつーの!それ、どう見ても殴ってねぇ!?」
「お前が弱っちーからだろ。俺の親切を殴るとかひでー奴だなぁ?」
「その顔で親切とかよく言えたな!!どう見ても悪い顔しやがって!!」
「俺は常にこの顔だよ。悪かったな、悪い顔で。」
私は二人の言い争いを聞いて、自然と笑みが漏れた。
私の笑い声を聞いて二人は言い争いをやめると、井坂君が私にタオルを返してきた。
「もう、いいだろ。そんなに濡れてねーし、すぐ乾くだろ。」
「あ、うん。島田君、冷たかったりしない?」
「平気だって。女子の涙で濡れたなんて、男の勲章みたいなもんだし。」
島田君がヘラッと笑って言ってくれて、私は勲章ってどういうことか分からなかったので、とりあえず笑っておいた。
すると今のやり取りに井坂君が食いついてきた。
「何?今の話。濡れたのって詩織の涙だってこと?お前ら何やってたわけ?」
「やけに食いつくなぁ~。原因お前のクセに。」
島田君は食いつく井坂君を手でヒラヒラと遮ると、どこかへ歩いていってしまう。
井坂君はそれを追いかけると、ちらと私を気にしながらも追及していた。
私は内容が内容なだけに、本当の事は言えないな…と思って渇いた笑いを向けたのだった。
***
そして長くて色々あった修学旅行も終わりになり、私たちは飛行機へ乗り込んでいた。
帰りも席を変わってもらったのか、井坂君が隣にやってきて、私はそんな何気ない行動が嬉しかった。
「あのさ…ちょっと渡したいものがあって…。」
「うん?何?」
井坂君は席に座ると、制服のポケットから水族館のお土産の袋を取り出した。
私は何を買ったんだろうかとその袋を見つめる。
すると、井坂君が袋を開けて中から小さなガラス玉のついたブレスレットを出した。
それは二つあって、私は井坂君の顔に目を移した。
井坂君は頬を赤く染めていて、照れ臭そうに咳払いした。
「コレ…お揃いでつけない?」
「え…。」
井坂君の言葉に私はドクンと心臓が跳ねた。
井坂君は私の左手をとると、手首にブレスレットをはめてきた。
そして自分は右手につけると、ギュッと手を握ってくる。
私はお揃いでついているブレスレットを見て、胸が痛くなるぐらい嬉しかった。
「詩織…?」
黙り込んでいる私を見兼ねて、井坂君が私の顔を覗き込んできた。
私は胸がいっぱいで涙が出そうになるのを堪えると、繋いでない方の手で目尻を拭って笑顔を向けた。
「ありがとう。すごく…すっごく嬉しい。大事にするね。」
すると井坂君が椅子から身を乗り出すように私を抱きしめてきて、驚いた。
あんなに触れないとか言ってたのに…
私は私は繋いだ手をギュッと握り返して、片方の手を井坂君の背に回して目を閉じた。
あたっかくて、安心する…
私は朝までの不安が嘘のように吹き飛んでいて、すごく幸せだった。
「好き…。」
井坂君が耳元で呟くように言ってきて、私は頬が緩んだ。
「私も好き。」
そう返すと、力が強くなってお互いに笑い声が漏れた。
そうして私はふっと目を開けると、通路の向こうの席のあゆちゃんと新木さんが、こっちを見てニヤついてるのが見えて、私は我に返った。
ここ!飛行機の中!!
私は慌てて井坂君を押し返すと、窓側にへばりついた。
井坂君はどうして引き離されたのか分かってないようだったけど、後ろからあゆちゃんたちに声をかけられて驚いた声が聞こえた。
「見ましたよ~?お二人さん?人の目も気にしないなんてやる~!」
「はぁ!?そっ…そういうお前だって遊園地で赤井とイチャついてただろ!?人の事言えんのかよ!!」
「私は人前でなんてやってませ~ん。」
「嘘つけ!!観覧車の中で見たんだからな!!」
「なっ!?あんた、デリカシーってもんが欠けてるんじゃないの!?」
「お前もだろ!?」
通路を挟んで二人の言い争う声を聞きながら、私は恥ずかしさで死にそうだった。
すれ違いが解消されて修学旅行が終了です。
話が進むごとに島田のイケメン率が上がっていくのが気になります。