55、汚くない
辺りが暗くなってきたのもあって大通りの灯りが灯って、井坂君の表情が見えた。
井坂君は大きく息をついていて、こっちを見て瞳を震わせていた。
私はお兄さんの力が弱まってホッとしながらも、井坂君に見られた事に言い様のない不安が胸を過った。
「よう。拓海。」
お兄さんが何事もなかったかのように声をかけていて、私はお兄さんを見て目を見張った。
どういう神経してるんだ…この人…
私が信じられないと思って見つめていると、井坂君が走ってお兄さんに掴みかかってきた。
「ってめぇ!!何やってる!!何で詩織にまでっ!!」
井坂君はお兄さんの胸倉を掴んで地面に押し倒した。
お兄さんはされるがまま、余裕の表情で怒る井坂君を見上げている。
「何?そんなの見てたら分かるだろ?ちょっと、いただこうかな~って思ってたとこだよ。」
「は!?ふっざけんな!!何で…てめぇの遊びに詩織を!!」
「遊びじゃないって言ったら、許してくれるわけ?」
お兄さんが今までの軽い言い方ではなくて、意思の持った強い声で言い放って、井坂君が動揺したのが分かった。
私は絶対冗談だと思ったのだけど…
すると、お兄さんは井坂君を押し返すと立ち上がって身なりを整え出した。
「お前が頼りないから、詩織ちゃんがこんなとこに来る事になったんだろ。俺ばっかり責めるのはどうかと思うけど?」
「……は?…今度は説教か?自分のやった事棚に上げて!!」
井坂君は立ち上がるとお兄さんを睨みつけて吐き捨てた。
お兄さんはふっとため息をつくと、ちらっと私を見てから言った。
「ま、それは一応謝っとくよ。ごめんね、詩織ちゃん。」
「………はぁ…。」
私は軽く謝られて、複雑な気分だった。
許したくないけど、なんだか許してしまうような緩さがある。
お兄さんはお店に戻るのか大通りに向かっていくと、「あ」と言って振り返ると良い笑顔を私たちに向けた。
「でも、キスしたことは謝らないよ?また、しよーね?詩織ちゃん。」
「――――っ!?」
「は!?」
私は爆弾発言を残して去っていったお兄さんを凝視して固まった。
今まで黙っていたことをサラッと言われて、私は怖くて井坂君に振り返れなかった。
すると後ろから井坂君が私に駆け寄ってきて、目の前にくるとガシッと肩を掴まれた。
「詩織!!今の何!?キスされたって本当なのか!?」
「あ……と…、その…。」
私は罪悪感と後悔からハッキリ答えられなかった。
井坂君の顔も見れないし、こんな自分が嫌で目の奥が熱くなってくる。
胸が苦しくてなんとか上手く言おうと考えていると、目尻から涙が頬を伝って自分が情けなくなった。
そのとき井坂君の大きな手が私の口をゴシゴシと擦ってきて、視線を上げた。
井坂君は今にも泣きそうな顔でグッと口を引き結んでいた。
「……ごめん。……気づかなくて…ごめん。」
井坂君が謝るなんておかしい…
私は口を擦っている井坂君の手を掴んで止めると、やっと声が出た。
「謝らないで…。私が悪いの…突然で避けられなくて…、それを言えずに黙ってた…。言ったら…嫌われるんじゃないかって…そればっかりで…。本当に…ごめんなさい…。」
私は顔をしかめたまま私を見つめる井坂君を見つめ返して、井坂君の手をギュッと握った。
「他の人と…キス…しちゃうなんて…汚いよね…。こんな彼女…もういらない?」
私は返事が怖かったけど、聞かなければこの罪悪感は消えない気がした。
いらないって言われたときを想像すると、胸がすごく痛い。
私は少し俯くと涙が止まらなくて、手で涙を拭った。
すると井坂君の手が私を握り返してきて、私はゆっくり顔を上げた。
「汚くなんかない。…これぐらいの事で、いらないなんて思うわけないだろ。」
井坂君は真剣な目で言った。
私は許してくれたことが嬉しくて、涙を拭いながら「ありがとう…。」と掠れる声で告げた。
すると井坂君の手に涙を拭っていた手を避けられると、顔が近づいてきて優しく唇が重なった。
何度か確かめるように重なったあと、いつもの激しいキスがやってきて、私はギュッと目を瞑って声を堪えた。
お兄さんのときとは違う。
キスしただけで全身がピリピリと痺れるような感じになる。
胸が苦しいけど、さっきみたいな嫌な苦しさじゃない。
すぐ横には人の往来の多い通りがあるだけに、恥ずかしさで顔が熱くなる。
でも離れたくなくて、『好き』がどんどん降り積もるようだった。
「……んっ…んんっ…。」
今日は一段と激しくて、私は息苦しさから声が漏れた。
井坂君の手が私の後ろ頭と背中に回って、私は井坂君の服をギュッと掴んだ。
どれぐらいそうしてたか分からなくなったとき、やっと口が離れて呼吸が楽になった。
そのあと頭をグイッと引き寄せられて、ギュッと抱きしめられた。
私は井坂君の匂いがするのに安心しながら、抱きしめ返す。
すると耳元で少し怒ったような声で井坂君が言った。
「これから何回も何回もあいつのキスなんかどっかに飛んでいくぐらい、激しーのやるから。覚悟しておいてくれよな。」
私は『激しーの』と言われてグワッと体温が上がったけど、彼なりに気遣ってくれての言葉だと分かったので笑顔で頷いたのだった。
***
その日から、春休みだというのに井坂君は毎日会うと言い出して、朝に公園で待ち合わせるのが日課となった。
私はお母さんの目を盗んで会いに行くのに限界を感じ始めていて、あるとき正直に話そうとリビングでお母さんと向かい合った。
「詩織。話って急にどうしたの?」
「あ…うん。ちょっと…聞いてほしい事があって…。」
私はドックンドックンと心臓が荒ぶっていて、こんなに緊張するのはいつ以来だろうと思った。
言わなきゃ…付き合ってる人がいるって…
正直に言えば意外とあっさり許してくれるんじゃ…
私は微かな希望を胸に言おうと口を開くと、弟がテレビの音量を上げて言った。
「あー、不純異性交遊だってさぁ~。16歳女子、隠れて子供出産だって。すんげー世の中だよなぁ~。」
私はタイミングの良すぎるニュースに背筋が冷えた。
するとお母さんもそっちを向いて、飽きれた様に言った。
「本当に…なんてふしだらな世の中なのかしら。高校生がやっちゃいけない事ぐらい分かるでしょうにね。大体、学生なのに恋愛に現を抜かして、勉強を疎かにするなんて一番やっちゃダメな事でしょうに。こういう子の親はどういう教育をしてきたんでしょうね…。」
お母さんの言葉に私は肩が震えてくる。
や…ヤバい…こんなの言えるわけない…
不純異性交遊なんてしてるわけじゃないと言いたいけど…お母さんにとったら、付き合ってるだけでそうなるだろう…
私は振り絞った勇気が消えていくのを感じて、その場に項垂れた。
「その点、ウチは大輝も詩織も真面目で安心してるのよ。勉強熱心だし、恋愛なんてしてる素振りもないものねぇ?」
私は投げかけられたお母さんの笑顔を見て息が止まった。
大輝はゲラゲラ笑いながら「俺には縁遠い話だって!」と言っているし、私は一人肩身が狭くなった。
「詩織も学年末の試験はよく頑張ったわね。模試の結果も大満足よ。だから、ご褒美じゃないけど…あなたケータイが欲しいって言ってたじゃない?お父さんと相談して、今度契約しに行こうと思ってるのよ。」
「えっ…!!それ、本当!?」
私は待ち望んでいた話がふってわいてきて、思わず立ち上がってお母さんを見つめた。
お母さんは笑顔で頷くと、座るように促してきた。
「ええ。前に連絡が取れなくて心配したこともあったから、そろそろいいんじゃないかって言っていたのよ。詩織なら無駄遣いするような事もないでしょうしね。」
「やった…。お母さん!!ありがとう!!」
私はお母さんの手を握りしめると、頭を下げた。
お母さんは面食らった顔をしていたけど、ふっと微笑むと首を傾げた。
「それで、あなたの話はなんなの?」
「あ…。」
私はお母さんから手を放すと、自分の用件は言えなくなった事に気まずくなった。
こんなときに言ったらケータイを買ってもらえなくなる。
私は咄嗟に思いついた事を口にした。
「あ、のさ!今度の日曜日に友達と遊園地に行くんだけど…。行ってもいいよね?」
「遊園地…?それは何人で行くの?」
「4人だよ。あ、みんな女の子だから!!あの冬休みにに来た子達、覚えてるでしょ!?」
「あぁ…同じクラスの子達ね…。まぁ…遅くならないようにするなら、行ってきてもいいわよ。」
「ホント!?ありがとう!!」
私は意外とあっさり許可がとれたことが嬉しかった。
女の子だけだって嘘はついたけど…
するとお母さんは「それじゃあ、その日までにケータイ契約に行った方がいいわね…。」と言っていて、私は胸が弾んだのだった。
ここで一旦兄:陸斗は影を潜めますが、今後も出てくる予定です。