54、どうしてなのか
な…何が起きたの…?
私は突然お兄さんにキスされて、慌てて後ずさった。
掴まれた腕を振り払おうとするけど、力が強くてビクともしない。
そのとき唇を割って舌が入ってきて、私は体がビクついた。
「…んんっ…!?」
私はそれが気持ち悪くて、あいている手で体を押したり叩いたりするけど、微動だにしない。
心臓が嫌なを音を奏でている。
井坂君の匂いがするけど、井坂君じゃないっ!!
私は渾身の力を振り絞って引き離すと、逃げるように部屋の端まで後ずさった。
クローゼットに背をつけて、感触の残る唇を手で拭った。
お兄さんはニヤッと笑いながら、こっちに歩いてきて、私は投げ道がなくて部屋の角で身を縮めた。
「ごちそーさま。このこと、拓海には言わない方がいいよ。別れたくないならね。」
お兄さんは私に顔を近づけると、耳元でそう呟いてきた。
私は震える口を開けたり閉めたりしてから「な…なんで…。」とかろうじて声に出した。
お兄さんはそんな私の反応を面白そうに見ると、大きな手を伸ばしてきて私の後ろ頭に手を当てた。
「なんで?なんて決まってるだろ?俺はあいつの兄貴で、いつでもあいつの上に立っていたいからさ。また遊ぼうね?詩織ちゃん。」
お兄さんはそれだけ言うと、私の頭のゴムを取ると髪をほどいてしまった。
私は目の前のお兄さんが怖くて何も言えないし、動けなかった。
お兄さんは髪ゴムを見てから、それをポケットに入れて持っていってしまって、私は「返して」の一言すら喉から出なくてその場にへたり込んだのだった。
すると廊下から井坂君とお兄さんの話し声…いや言い争う声が聞こえてきて、私はお兄さんの『拓海には言わない方がいいよ』という言葉が耳の奥でエコーする。
井坂君以外の人と…キスしちゃった…どうしよう…
私は手で口を隠しながら、泣きそうな気持ちになった。
言う…?それとも…お兄さんの言うように黙ってる…??
私はほどけた髪の毛が頬にかかってくすぐったくなりながらも、罪悪感が胸を覆って、どうするのが一番正しいのか分からなくなった。
すると扉の開く音が聞こえて、井坂君が手にジュースを持って戻ってきた。
「お待たせって…何でそんな端に座ってんの?」
「あ…ちょっと…。」
私は井坂君を前にすると、何も言い出せなくなって誤魔化すように笑みを浮かべて彼に近寄った。
「あ、そういえば、さっき兄貴来なかった?なんか部屋から出てくるの見えてさ。」
「え…あ…うん。話をしてた。」
私は井坂君からジュースを受け取ると、本当の事が言えなくて視線を逸らした。
ダメだ…まっすぐ井坂君が見れない…
私はさっきまでの幸せな気持ちがどこかへ行ってしまって、気分がどんどん落ち込んでいくようだった。
「あ…あのさ…お兄さんって…大学生?」
「うん。そうだよ。大学一年。あんなんでも一応結構良い大学行ってるらしい。その割には女遊びが激しいけど。男の風上にもおけねーやつだよ。」
井坂君は余程お兄さんが嫌いなのか、不機嫌そうに言った。
私は罪悪感で胸がモヤモヤしていて、やっぱりお兄さんとキッチリ話をしなきゃいけないと思った。
「お兄さんって今、春休みでお家におられること多い?」
「ん…?そう…だな。しょっちゅう帰ってくるけど…あ、でも夜は、駅前の居酒屋でバイトしてるよ。」
「……バイト…。」
私は二人で話をするなら、そのときしかないなと思って詳しい時間が知りたくて口を開いた。
「いつも何時ぐらいからバイトに行かれるの?」
「……やけに兄貴のこと聞かない?そんな事知ってどうすんの?」
井坂君の不機嫌そうな目が私に向いて、私はサッと視線を逸らして嘘を並べ立てた。
「わ…私も…いつかバイトしたいから…その事前調査みたいなものだよ。」
「…ふ~ん…。そんな事、初めて聞いた。バイトしたかったんだ。」
「う…うん!まぁ、でもお母さんが許してくれるはずないけどね…。」
私は嘘がどんどん大きくなるようで気分が良くなかった。
大好きな人に隠し事が増えていくなんて、自分がすごく汚い人間に見える。
正直にキスされたって言えばいいのに…どう思われるのかが怖くて口にできない…
私は何も知らない井坂君の顔をちらっと見て、心苦しくなった。
すると井坂君の手が私の髪に触れて、私は驚いて彼を見つめた。
「いつ髪下ろしたの?…っつーか、こんなに長くなってたんだなぁ…。」
井坂君が私の髪を手で弄んでいて、私はそうされると胸のわだかまりが少し消えるようだった。
この手が…すごく好き…
私はさっきの大きくて怖いお兄さんの手を思い出しかけて、井坂君の手をギュッと握った。
ゴツゴツしててかさついた手を触ってると安心する。
私は少しでも罪悪感を消したくて、井坂君の手を撫でるように触っていたら、その手が私の頬を触ってきた。
その瞬間、井坂君の顔が近づいてくるのが見えて、私は反射的に逃げるように立ち上がった。
「あ…っと…その…。」
私はキスから逃げたことの言い訳が何も思い浮かばなくて、グッと唇を噛みしめたあと顔をしかめて告げた。
「ごめん…。今日は…帰るね。」
「……詩織…?」
私は井坂君の顔が見れなくて、自分の鞄を引っ掴むと部屋を飛び出して、階段を駆け下りた。
そのとき一階にお兄さんの姿が見えて、一瞬話を聞こうかと思ったけど、上から井坂君の下りてくる音が聞こえて、私は急いでブーツを履くと、慌てて家を出た。
そしてただ逃げたくて走りながら、自分がすごく汚い人間になったようで、胸に何かが突き刺さったように苦しかったのだった。
***
その日から私はメールを見るのも怖くてパソコンを開けられず、自室でどうしようかとずっと考えていた。
このまま井坂君を避けていても、何も解決しない。
自分がしてしまったことは消えないんだし、やっぱりお兄さんにどういうつもりでしたのか聞かないと…
私は胸のわだかまりを消したい一心で、お兄さんの働くという駅前の居酒屋へ向かう事にしたのだった。
そして駅前にやってきて、居酒屋を探そうと辺りを見回したとき、駅から赤井君とあゆちゃんが出てくるのが見えた。
向こうも私に気づいたようで、手を振ってこっちに駆け寄ってきた。
「詩織!!ちょっとぶり!一人で何やってんの?」
「あ…ちょっと…用事があって…。」
私は幸せそうなあゆちゃんを見て、話すべきじゃないと思った。
二人はどう見てもデートしてきた帰りのようだったからだ。
「てっきり谷地さんも井坂とデート三昧だと思ってたんだけど、その様子じゃあんまり会ってない?」
赤井君は私の何を見てそう気づいたのか分からないけど、私は言い当てられた事に体が強張った。
あゆちゃんは心配そうな顔を浮かべて私の腕を触ってきた。
「詩織…。何かあったんでしょ?なんなら話聞くよ?」
私は優しいあゆちゃんに打ち明けそうになってしまって、口を噤むと笑顔を作った。
「ううん。何もないの。私、居酒屋を探してただけだから、もう行くね!それじゃ!!」
「詩織っ!!」
私はこのまま二人といたらダメだと思って、逃げるように走り出した。
あゆちゃんの引き留める声が聞こえたけど、私はこれは自分の問題だと言い聞かせたのだった。
そして駅前にある居酒屋を探し当てると、経験したことのない騒がしさに入り口で足が竦んだ。
大人の人ばかりで自分が場違いなのが伝わってくる。
でも、ここに来るしかお兄さんに会う方法はないので、勇気を振り絞ると中に足を踏み入れた。
「いらっしゃいませー。」という店員さんの声と共に一人のお兄さんがやって来て、私を見て驚いて立ち止まった。
当然の反応だと思う。
だってどう見ても高校生の私が居酒屋なんかに入るなんて、場違いもいいとこだ。
私はその店員さんの前に進み出ると、お兄さんの名前を口にした。
「あの、井坂……陸斗さんはおられますか?」
「…井坂ですか?少々お待ちください。」
私はお兄さんの名前が一瞬出なかったけど、なんとか記憶を探り出した。
店員さんは奥の方へ行ってしまうと、誰かに声をかけている。
そしてその声に反応して、お兄さんが奥から顔をこっちに覗かせた。
私は目が合った瞬間、とりあえずペコッと会釈した。
するとお兄さんは手に持っていたお盆を呼びにいったお兄さんに渡して、こっちに駆け寄ってきた。
「詩織ちゃん。こんなとこにどうしたの?」
お兄さんは井坂君と同じ笑顔を浮かべて、首を傾げた。
私はこんな場所で言うのが躊躇われたけど、言うために来たので大きく息を吸いこんだ。
そのとき後ろからお客さんが入ってきて、私は自分が邪魔になっていると端に寄った。
サラリーマンのおじさんが私を見て、不思議そうな顔をしている。
するとお兄さんが私の手をとると、店の外へ出ようと足を進めた。
私はお兄さんと一緒に店の外に出ると、店の脇の人のいない通路に連れてこられた。
「ここなら落ち着いて話せるでしょ?で、俺に何の用?」
お兄さんが私から手を放して振り返って来ると、腰に手をあてた。
私はお兄さんを見上げて一度唾を飲み込むと、意を決して口を開いた。
「あの…この間の…ことなんですけど…、あれは…どういうつもりなんですか?」
「あれ?あれってキスのこと?」
私はハッキリと口に出されて赤面して俯いた。
お兄さんは年上で何ともないのかもしれないけど、私にとったらすごく恥ずかしい言葉だ。
私がジワ…と出てくる汗を手の甲で拭っていると、上から軽い笑い声が降ってきた。
「あははっ!ホント、可愛いね。拓海の奴に話せなかったんでしょ?俺があんな事言ったから。」
私は図星だったので、グッと息を飲み込むと顔をしかめて言った。
「だ…だって!!あんな急にされて…どういうつもりだったのかも分からないし…、井坂君には…自分が汚くなったみたいで…話せないし…。頭の中…ぐちゃぐちゃで…。」
私は胸の中に溜め込んでいた鬱憤を吐き出して、目尻がジワと濡れてきた。
私はそれを手で擦りながら、聞きたかった事を口に出した。
「な…なんで!あんな事したんですか!?井坂君と付き合ってるって知ってたのに!!」
私は弟の彼女になんであんな事をしたのか、それだけが知りたかった。
何か理由があるような気がしたからだ。
お兄さんはふっと微笑むと、蔑むような冷たい目で私を見下ろした。
「それはこの間も言ったでしょ?俺はあいつの兄貴で、常にあいつの上に立ってたいってさ。あいつが手に入れたものは、俺にも手に入れられるものじゃないと困るんだよね。だから、詩織ちゃんも俺のものにしたいわけ。分かる?」
私はお兄さんの言ってる事が全然理解できなくて、『もの』という扱いを受けてることに違和感を感じた。
「え…それは…私を好きってことですか?」
「あはははっ!!好きって!何、可愛いこと言ってんの?」
私は自分のものにしたいという言葉から導き出したのだけど、どうやら爆笑されるぐらい違ったらしい。
お兄さんは私に一歩近づいてくると、前かがみになって私と目線を合わせた。
「好きなんて感情がなくても、自分のものにすることはできるんだよ?お兄さんが教えてあげるよ。」
「え…。」
私はあのときと同じ恐怖が背中を伝って、反射的に目線を逸らして逃げようと大通りへ走った。
何だか分からないけど逃げなきゃ!!
私は全身から逃げろと警告音が鳴っていて走ったのだけど、大通りに出る寸でのところで腕を掴まれてしまった。
「きゃっ!!」
私はお兄さんに腕を引っ張られて、背中を壁に叩きつけられた。
痛みにしかめていた顔をお兄さんに向けると、至近距離な事に気づいて両手でお兄さんの顔を押し返した。
「やっ!!やめてください!!おっ…お兄さんは間違ってます!!」
「あたたっ…間違ってるって…何が?」
私はさっきのお兄さんの言葉を思い返して、思いついた事を口にした。
「こっ…こんな形で井坂君の上に立って、何になるんですか!?兄弟って、こんな形じゃないはずです!!」
「ははっ…言うね。それは世間一般の兄弟でしょ?俺と拓海はそれには当てはまらないよ。兄弟って根本が歪んでるからね。」
『歪んでる』と言った言葉に少しの寂しさが混じってるような気がして、私はじっとお兄さんを見つめた。
お兄さんは私の押し返している手を握ってくると、少し眉を下げて言った。
「俺はさ、兄ってどういうものなのか…とっくの昔に分からなくなってるんだよ。こういう形でしか、俺はあいつの兄として関われないのさ。だから、ごめんね?」
ふっと笑顔で『ごめん』と言ったお兄さんの顔が、本当のお兄さんの顔に見えて固まっていたら、急に力が強くなって恐怖が蘇った。
「やっ…!!やめてっ…!!」
私は片手を掴まれていたので、なんとか片手で押し返そうとするけど、じわじわ顔が近づいてきて、私は壁に頭をこすり付けて顔を逸らして目を瞑った。
そのとき瞼の裏に井坂君の笑顔が飛び込んできて、私は目の奥が熱くなりながら彼を呼んだ。
「い…井坂君っ!!」
「詩織っ!!」
私が呼んだ後に呼び返す声が聞こえて、私は咄嗟に目を開けた。
すると大通りから息を荒げてこっちを見ている井坂君が見えて、私は来てくれた事が信じられなかった。
陸斗と拓海という名前は『陸』『海』を入れたくてつけました。
後々出てくるお姉さんも名前に一文字入れています。
登場をお待ちください。