215、センター試験前夜
「えっ!?ちょっ、井坂君!?」
私が井坂君にバイトの事で嫌な思いをさせたんじゃないかと心配して、井坂君の部屋に来ていたら、井坂君が一頻り笑ったあと、私の耳や首筋にキスしてきて鳥肌が立つ。
私は抱きしめられた状態なので井坂君の腕の中で暴れることしかできず、やめてもらおうと声をかける。
「いっ井坂君!勉強は!?明日センターだよね!?」
「うん。心配しなくても、大丈夫だよ。」
「大丈夫って…。――――ひゃっ!!」
井坂君に耳を甘噛みされたことにビックリして声を上げると、井坂君が小さく笑い出して、私は自分の出した声に恥ずかしくなる。
「ははっ。詩織、声。」
「だ、だって!!井坂君が変なことするから!!」
「あ、やべ。扉開いてる。」
井坂君はそこで私から離れると扉を閉めに向かい、私は扉を開けっ放しでイチャついてたことに顔が熱くなってくる。
すると扉を閉めに向かった井坂君が「うわっ!!!」と奇声を上げて、私は振り返った。
「母さん!!!何やってんだよ!!!!」
え…お母さん?
私は玄関で会ったお母さんに何も説明しないまま井坂君の部屋へ上がらせてもらったことを思い出して、慌てて井坂君の所へ向かう。
すると扉の影からお母さんの顔が見えて、お母さんは悪戯っ子のように下をペロッと出して笑う。
「バレちゃったわね。」
「はぁ!?覗きとか趣味悪いんだけど!!!」
井坂君がお母さんにしていたことを見られたことに真っ赤になって抗議していて、私は恥ずかしくて何も言えない。
「だって詩織ちゃんがこの世の終わりみたいな顔して拓海の部屋に駆け込んで行くから、心配したんじゃないの。まぁ、心配いらなかったみたいだけど。」
お母さんは私をちらっと見てふふっと笑って、私は耳まで熱を持ち始める。
井坂君も私と同じで恥ずかしさに声もないのか、横で小刻みに震えている。
「詩織ちゃん、せっかく来たんだからご飯食べて帰ってね。お母さんには連絡しておいてあげるから。」
「あ、はい。ありがとうございます。」
私は恥ずかしさを堪えてなんとかお礼を口にする。
するとお母さんは井坂君を見てポンと叩くと、ニヤニヤ笑いながら言った。
「晩御飯は7時過ぎになると思うから、それまでは邪魔しないわね。ふふっ、扉は閉めておくのよ~。」
まるで初めて井坂君のお母さんに見つかった日のように、お母さんは軽やかに下へ戻っていき、言い様のない脱力感だけがこの場に残された。
私も井坂君もしばらくその場から動けず、やっと顔の熱が引いたときには冷静になってしまって、またイチャつこうなんて気分ではなくなってしまったのだった。
***
そうして私は井坂君のお家でご飯を食べた後、井坂君に家へ送ってもらいながら、センター試験前に申し訳なくて途中で足を止めた。
「井坂君。ここまででいいよ。帰るの遅くなっちゃうから、帰って勉強して?」
「だーめ。詩織をちゃんと送り届けないと、俺は安心して勉強なんかできねーから。」
「……でも、時間がもったいない―――」
私はなんとか帰る方向に…と説得していたら、手で口を塞がれてしまった。
「いいから。―――っつーか、詩織と少しでも長く一緒にいたいっていう俺の気持ちも分かってくれよ。」
少し照れている井坂君の目に射抜かれて、私はキュンと胸がときめく。
どうしよう…
今ものすごく井坂君をギュッとしたいかも…
私はさっき不完全燃焼にいちゃついてしまったので、スイッチが入ってしまうと心の制止を振り切って体が動きそうで、腕を後ろに回して組んだ。
そして口から手を放してもらおうと何度も頷く。
すると井坂君はふっと目を細めて笑ってから手を放し、歩き出す。
私はその背中を見て抱き付きたい衝動にムラムラしたけど、ギュッと目を瞑ってから気を取り直す。
ダメダメ!!ここは道路だから!
誰に見られるかも分からないから!!
私はそろそろ家の近所に入ると言い聞かせて、井坂君を追いかけて隣に並ぶ。
「そうだ。小波のことだけどさ。心配しなくても大丈夫だからな?」
井坂君にあゆちゃんのことを切り出されて、私はあゆちゃんに怒鳴られたときのことを思い出して顔が強張った。
あのときのあゆちゃんの言葉は今も耳に響く。
言われて当然のことをしてしまったから…
井坂君の親友であゆちゃんの彼氏だからって、赤井君に甘えすぎていた。
私があゆちゃんの立場だったら、きっと同じことを思う…
ううん、現に井坂君と二人で勉強してたあゆちゃんに羨ましい気持ちを持ってた。
それなのにどうしてあゆちゃんに言われるまで気づかなかったのだろう…
私は思い返すだけで自分の行動に反省しかなくて、気持ちが沈み込んでいく
そんな私の気持ちを察してか、井坂君は落ち込む私を見ながら言った。
「小波、詩織に言っちまったこと、すげー後悔してたから。きっとセンター終わったら謝りにくるよ。」
「え…?謝りって…。私が悪いのに?」
「なんで?詩織、何か赤井にやましい気持ちでも持った?」
「え…。やましい?」
私は全部私の行いが悪いと思ってたので、井坂君の質問の意味が分からなくて呆けた。
すると井坂君が楽しそうに笑って言う。
「詩織は何も謝らなきゃいけないことしてねーじゃん?行動も気持ちも。小波が勝手に誤解して、ヤキモチ妬いてそれを詩織にぶつけただけ。あれは小波が一方的に悪いから、詩織は悪くねーの。」
「………そうなの?」
「そうだよ!!詩織は俺のためにバイトしてただけだろ?」
「え…。」
私は言ってないはずのことが井坂君の口から出たことに驚いて顔が固まる。
井坂君はにこーっと微笑むと「赤井から全部聞いた。」と嬉しそうに言って、私はかっと顔が熱くなる。
「あの、それは…。赤井君が言ってたことに、私が便乗したっていうか…。何するにも必要なのはお金かなって思って!そこまで深く考えてたわけじゃ…。」
「うん。でも、俺とのためだろ?ありがと、詩織。」
井坂君は焦る私を落ち着かせようと優しく言って、私は言い訳を言ってる自分が恥ずかしくて口を噤む。
すると井坂君が私の熱い頬に手を触れてきて、手の冷たさに少し体をビクつかせる。
「詩織、俺、明日頑張るから。二次試験で合格して、こんな生活とは早くおさらばするから。」
井坂君の急な決意表明に私は「うん。」としか答えられず、笑みを返す。
「だから、パワーちょうだい?」
「…?パワー??」
パワーってなんだろう?と思って目を瞬かせると、井坂君が私にキスしてきて、これかと納得する。
井坂君は何度か確かめるようにキスすると、ギュッと抱きしめてくれて、私はさっきしたかったことができる状況に思いっきり甘えた。
井坂君の匂い…
幸せ~…
私は幸せな状況にバタバタと足をバタつかせたいぐらい嬉しくて、とにかく井坂君にくっついて顔を埋めていると、「詩織?」と低めの声がしたことに慌てて離れた。
「詩織、そんなところで何してるんだ?」
私たちから何メートルも離れていない道路脇に、仕事帰りのお父さんがいて、私は井坂君から手を放してサーっと顔から血の気が引いていく。
「お、お父さん。お帰りなさい。」
ここでもう家のすぐ近くまで来ていたことに気づいて、井坂君を気にしながらお父さんに話しかける。
「お父さん…。今日は遅いんだね…?」
「あぁ。今日は残業だったから…。そっちは井坂君か?」
お父さんは暗がりだったので顔が見えなかったのか、一歩私たちに近付いてきて井坂君が私の前に出て頭を下げる。
「こんばんは。詩織…さんがウチに来てくれてたので、お家まで送ろうとしてて…。」
「あぁ。そうか、また行ってたのか…。詩織、バイトはどうした?」
お父さんは『また』という部分を強調して言って、私は居心地が悪い。
「えっと、バイトの帰りに井坂君の家に…。」
「バイト帰りって…。それはさすがに向こうのお宅に迷惑だろう?この時間に帰ってくるってことは、ご飯まで頂いたんじゃないだろうな?」
「…それは…まぁ…。井坂君のお母さんのご厚意で…。」
「詩織。お前は何を考えてる。そういうときはきちんと断って帰って来なさい。最近のお前の行動は目に余る。」
「………ごめんなさい。」
私はきっと井坂君が一緒だったからこんなに機嫌が悪いんだろうな…と察して、ムスッとしながらもとりあえず謝っておく。
すると私が怒られてることに責任を感じたのか、井坂君がお父さんの前まで向かい説明してくれる。
「あの!母さんが詩織…さんを引き留めたんです。母さんは本当に詩織さんと話すのが好きで…。自分の子供みたいに思ってるから…。」
「自分の子供?」
お父さんの一際低くなった声から、私はヤバいと思って二人の間に割り込むと、お父さんを押しながら井坂君に言った。
「井坂君!!ここからお父さんと帰るから。早く家に帰って明日に備えて!!試験、応援してるからね!!」
「詩織、話は終わってない―――」
お父さんが何か言いたげに振り返ってきたけど、私はこれ以上は井坂君の負担になると無理やり押した。
そしてぽかんとしている井坂君に「頑張ってね!!」と伝えると、井坂君は苦笑しながら手を振ってくれた。
私はそれにひとまず安心すると、ここからが大変だ…とお父さんを無理やり家まで押し続けたのだった。
***
「詩織、お前はこの家と井坂君の家、どっちが自分の家だと思ってる。」
家に帰りつくなり、私はリビングで正座させられ、怒った顔のお父さんの説教を聞く。
傍には晩御飯を食べる大輝と、心配そうにこっちを見つめるお母さんもいる。
私はこれ以上お父さんの機嫌を損ねないよう「この家です。」と答える。
「じゃあ、さっきの井坂君の言葉はなんだ?井坂君のお母さんはまるでお前を自分の娘みたいにって。お前はウチの家の子だろう。」
「………そんなの分かってるよ。井坂君が言いたかったのは、井坂君のお母さんが私を気に入ってくれてるってことで…―――」
「だから、どうしてそこまでの仲になるんだ!!この間のプロポーズの話といい、こっちだけ蚊帳の外で話が進んでるんじゃないだろうな!?」
お父さんがクリスマスのときの話を蒸し返してきて、さすがに腹が立つ。
「そんなわけないでしょ!?私たち高校生だよ!?井坂君、明日センター試験だっていうのに、お父さん変なとこで食って掛かってさ。大人のクセにみっともないよ!!」
「みっともない!?私はお前が井坂君に何かされてるんじゃないかと心配してだな―――」
「そんな心配必要ない!!」
私はまるで井坂君が悪者のように言われることに頭にきて、立ち上がるとお父さんを睨みつけた。
「私が井坂君と一緒にいたいから、井坂君の家に行ってるの!!大好きな井坂君のご家族によく思われて、すごく嬉しくて…、家に行くことの何がいけないの!?私は、怒られなきゃならないほど悪いことをしてるつもりはない!!」
私はここまで言い返すと思ってなかったお父さんの驚いた顔を最後に見て、逃げるようにリビングを後にして自室に駆け込む。
もうっ、ムカつく!!!!
そしてしばらく苛立ちと向き合って、心の中で文句を繰り返していたら、だんだん冷静になってきて、初めてお父さんと口喧嘩したことに血の気が引いていく。
どうしよう…
初めてお父さんに歯向かっちゃった…
私は今までこんなに歯向かったことがないだけに、どう収拾をつければいいか分からず、お父さんと顔を合わせるのが怖くなる。
そうして部屋で一人、明日からどう声をかけようかと悩んでいると、小さなノックの音と一緒にお母さんが部屋に入ってきて、私は咄嗟にさっきのことを謝った。
「お母さん。さっきは怒鳴ってごめんなさい。」
お母さんは私の目の前に座ってくると、優しく微笑んで私の頭を撫でてきて、突然のことに固まる。
「詩織、よく頑張ったわね。お父さん、固い頭を吹っ飛ばされたみたいで、ショック受けてたけど、大丈夫よ。」
「え…、それって…本当に大丈夫?」
私はショックを受けていたと聞いて、謝るべきかと顔が引きつる。
でもお母さんは軽やかに笑いながら、私の頭から手を頬に移動させ優しく頬を包み込んで言った。
「大丈夫よ。ショック受けてるのは、自分が詩織の一番じゃないって気づかされたから。これは良いことなのよ。いつまでも子供じゃないものね?」
お母さんは小首を傾げて、どこか嬉しそうに笑う。
私はお母さんが味方だと感じて、嬉しくて顔が緩みそうになるのを唇を噛んで堪える。
「そこまで必死になれる相手と結ばれるのは、とても幸運なことよ。お父さんのことは、何とか説得してあげるから、詩織は自分のやりたいことを通しなさい。」
お母さんは力強くそう言ったあと、私の頬を一撫でしてから立ち上がった。
私はさっきまでの怖さはどこかに吹き飛んでいて、応援してくれているお母さんの期待に応えようと言った。
「私、バイト頑張る。井坂君の家にも、今までと変わらず行く。お父さんのことは…、もう気にしない。」
「ふふっ、そうね。でも、一言謝ってあげてね。でないと立ち直れないから。」
お母さんは楽しそうに笑っていて、私はもちろんそのつもりだったので「分かってる。」と笑顔を返したのだった。
そうして、私の家はゴタゴタとしたものの、井坂君の受験には影響はなかったようで、井坂君はセンター試験を無事終え、「余裕だった!」とメールが送られてきた。
私はその報告に、一先ず第一関門突破だ、とほっと胸を撫で下ろしたのだった。
詩織父と井坂の話は後々出てきます。
そして次話は小波、赤井のために詩織が奮闘します。。