212、バイトスタート
私と赤井君はバイトの面接に受かった次の日から、これからのバイト先となるスーパーで研修を受けた。
レジの打ち方、接客の仕方、挨拶や品出しについて…などを丁寧に教わって、私は失敗しないように頭に内容を叩き込んだ。
そして、その日は研修がてら売り場の見学をさせてもらったあと、白髪頭の店長さんに「明日からは実際に出てもらうからね。」と言われて解散となった。
私は明日から実際に人の前に立つんだ…と緊張しながら、赤井君と並んで帰路につく。
すると同じことを思っていたのか、赤井君が珍しく真剣な顔で言った。
「なんか思ってたより大変そうだなぁ…。俺に務まるのかちょっと不安になってきた。」
「だよね…。私、緊張しないで接客できるのかだけが心配…。」
「でも見た感じ常連さんっぽいおばさんがお客さんに多かったし、失敗しても若いから~とかで許してもらえそうじゃねぇ?」
赤井君が始まる前から甘いことを言い出して、私はさすがにそれはダメだろうと言い返した。
「若いからとかダメだよ。お給料もらうことになるんだから、ちゃんとしないと。周りに迷惑かけるのだけはダメ。」
「あはは…、だよな。」
私が自分に言い聞かせるように語気を強めに言うと、赤井君がシュンとしょげてしまって、言い過ぎたかな…と顔をチラ見した。
「あー…、井坂がバイトしてたときは簡単そうだと思ったんだけどなぁ…。あいつ意外と頑張ってたんだなぁ…。」
赤井君が顔をまっすぐ上げて少し吹っ切れたような表情でそう言って、私は二年の夏にバイトしていた井坂君を思い出した。
確かにカフェで働く井坂君はちゃんとしていた。
いや、ちゃんとしてたどころかしっかりし過ぎて、カッコよくてときめいたぐらいだ。
やっぱり井坂君はすごい…
私も負けないように頑張らなくちゃ
私はあのときの井坂君にやる気を分けてもらい、少し気持ちが前向きになる。
それと同時に井坂君に会いたくなって、私は赤井君の前に立つと告げた。
「ごめん。私、井坂君のところ寄って帰るね。」
「あー、今話してたから井坂の事思い出した?」
「…うん。分かっちゃった?」
私は見透かされてることに恥ずかしくなりながら笑うと、赤井君は当然というように大きく頷く。
「谷地さんも井坂並に分かりやすいよな。いいよ。俺もちょうど小波に会いに行こうかと思ってたから。」
「そっか。きっとあゆちゃん喜ぶよ。」
「ははっ。そっちも。井坂のことだから、ひっついて離れないぞ、きっと。」
「あははっ。まさか。」
私は赤井君の言葉を冗談だろうと流して、「また明日。」と赤井君とはそこで別れた。
そうしてまっすぐ井坂君の家へと向かい、井坂君に会って、あながち赤井君の冗談は間違ってなかったと知ることになるのだった。
***
井坂君の家に着くと、感激するお母さんに出迎えられ、そのあとお母さんから渋い顔をされながら井坂君の部屋に入ることを許された。
私はどうしてそんな顔をするのだろう?と思いながら、階段を上がり、井坂君の部屋の扉を軽くノックしてからゆっくりと開ける。
「井坂君?入るよ。」
私はおそるおそる部屋の中を見ると、井坂君が勉強道具を広げたテーブルに突っ伏していて、その傍にはたくさんのプリントや本が散乱していた。
うっわぁ…たった一日でこうなったのかな…
私は学校に来なくても良かった昨日、今日の二日の間にこんなに散らかしたのかと思った。
始業式の日に勉強に本腰を入れると言っていたけど…、これが勉強に集中した上での姿ならビックリだ。
私はおそらく寝たままのスウェット姿で勉強していた井坂君を見て、とりあえず周りのプリントと本を重ねて綺麗にする。
そして何とか自分の座るスペースを確保すると、テーブルに突っ伏したままの井坂君をベッドに寝かそうと声をかける。
「井坂君。寝るならベッドにいこう?このカッコじゃ風邪ひいちゃうよ。」
私は暖かい室内でも万が一があると困ると、井坂君の体をゆすった。
でも井坂君は起きる気配がなくて、時折眉間に皺を寄せる以外反応がない。
困ったなぁ…
私は起きてくれなければ移動させることなんてできないので、大きくため息をつくととりあえず毛布だけ井坂君にかぶせた。
そして、自分も井坂君の横に座ってじっと井坂君の寝顔を見つめる。
せっかく会いに来たのになぁ…
私は少し寂しくなって井坂君が寝てるのをいいことに一緒に毛布をかぶると、同じようにテーブルに頭をのせた。
そして井坂君の顔を眺めながら、一緒に眠るように瞼を閉じたのだった。
***
それから私は深く眠っていたようで、耳にカリカリと何かを書く音が聞こえてパチッと目を開けた。
あれ…なんかあったかい…
私はもたげていた頭を起こして体を動かそうとすると、何かにガッチリとホールドされていて動かないことにハッキリ目を覚ました。
「えっ!?あれ!?」
「あ、起きた?」
すぐ横で井坂君の声がしたことに驚いてそっちを向くと、井坂君の横顔が見えて、私は自分が後ろから井坂君に抱きしめられてることを認識して一瞬息が止まった。
「!?!?」
「起きたら詩織が真横で寝ててビックリしたよ。でも、おかげで勉強はかどってるから。」
「え!?勉強って…。」
私はここで井坂君が私を後ろから抱きしめた状態で、テーブルの上の赤本を見つめ勉強していることに気づいた。
だから私は前にテーブル、後ろに井坂君で動くことができない。
「いっ、井坂君!私、邪魔だよね。退くから放してくれないかな?」
「邪魔じゃないから退かなくていいよ。むしろこのままの方がいい。」
「このままって…。」
私はすぐ横に井坂君の顔があることと、お腹の辺りに井坂君の片手が回ってることに体中が敏感になっていて、井坂君が少し動く度にドキドキしてどんどん顔が熱くなる。
だから何か理由をつけて離れようと画策して、井坂君に話しかける。
「ねぇ井坂君、今何時?私、寝ちゃったから時間分からなくなって…。」
「あー…、たぶん6時半ぐらいかな…。さっき兄貴が帰ってきた音したし。」
「ほんと?じゃあ、私そろそろ帰らないと…。」
私はここで腰を浮かしかけたら、お腹に回ってた井坂君の手の力が強くなり、立ち上がることができなくなった。
「い、井坂君?」
「まだ大丈夫だろ。遅くなったら俺送ってくから。」
「いや、でも井坂君、勉強しなきゃいけないし…。私、一人で…。」
「ダメだから。俺の勉強のことを思うなら、一緒にいてくれよ。」
「でも…。」
「でももだってもなし!!大体、詩織だって俺に会いたくて来てくれたんだろ?だったら、あっさり帰るなんて言うなっつーの!」
井坂君は書いていたペンを置くと、絶対放すつもりはないようで両腕でガッシリと押さえつけられた。
私はそれを見て嬉しい気持ちと、赤井君の言葉が正しかったことに複雑な心境だった。
まさか当たるなんてなぁ…
私はひっついたまま離れない井坂君を見て小さく笑うと、帰るのは諦めて今日あったことを報告することにした。
「井坂君。もう帰るって言わないから、手放して?」
「その言葉本当だな?」
「うん。だから、今日あったこと話してもいい?」
井坂君はここでやっと私を掴んでた手を放し、さっきと同じ状態に戻る。
片手は私のお腹辺り、そして片手はペンを持ちノートに向かう。
私はそれを見つめてバイトのことを話す。
「あのね、実はバイトすることになっったんだ。」
「は!?バイト!?」
井坂君は驚いたのか持っていたペンを机の上に落とす。
私はその手を見ながら、経緯を説明する。
「うん。赤井君と話してたら、そういう流れになったというか…。今日、初日で研修受けてきたんだ。あ、もちろん赤井君も一緒に。」
「赤井とって…、それどこで?」
「高校の裏通りにあるスーパーだよ。マルゼンって知ってるよね?」
「あー…、一年ときに食材買いにいったあそこの?」
「そう、そこ。」
私は一年のときの校外学習の買い出しを思い返して懐かしくなる。
あの買い出しの時、井坂君のこと好きかもって思ったんだよね…
学校までの道がすごくドキドキしてたっけなぁ…
私はまだ初々しかった自分を思い返して笑ってしまう。
すると、井坂君がさっきより声のトーンを落として口を開く。
「それ大丈夫なわけ?」
「え?大丈夫ってなにが?」
「………、男の客とか…絡まれたりしねぇの?」
「それなら大丈夫だよ。常連さんの多いお店で、おばさんたちばかりみたいだから。それに赤井君が何かあったら助けてくれるって。」
私は心配してくれている井坂君を少しでも安心させようと言ったのだけど、井坂君はギュッと不機嫌に顔を歪めてしまう。
だから、まだ何か引っかかるのかと思って、安心材料をとにかく説明する。
「シフトも赤井君となるべく一緒にしてもらうから、行き帰りも大丈夫だよ。赤井君が店長さんに面接でお願いしてくれて、仕事もなるべく赤井君と同じ内容にしてくれるって。なんだかカップルだって誤解されてるみたいだけど、理解のある店長さんで良かったよ。だから、私が絡まれるんじゃとかいう心配は無用だからね。」
私はこれだけ言っておけば心労をかけずに済むと思ったのだけど、井坂君の表情はさっきと変わらず不機嫌そうで困ってしまう。
「井坂君…。私は本当に大丈夫だから。心配しないで、勉強に集中してね?センター試験今週末でしょ?」
「……うん。分かってる…。赤井に任せておけば、大丈夫だもんな。あいつ案外頼りになるし…。」
ここでやっと井坂君の眉間の皺が和らいで、私はほっと胸を撫で下ろす。
「うん。ここ二日、教室が寂しくてよく赤井君と一緒にいるんだけど、赤井君がいるだけでちょっと心強いよ。きっとバイト先でも頼りになると思う。」
「………だな。」
私は安心させられたことに嬉しくて笑顔で返したので、井坂君も同じように返してくれると思ったら、井坂君の笑顔は思ってたよりも固くて、なぜか寂しい沈黙になる。
笑って楽しく話ができると思ってバイトの話をしたのに、この正反対の沈黙が苦しくて井坂君の顔色を見ては気を遣ってしまう。
やっぱりセンターの追い込み時期に、家に上がり込んじゃダメだよね…
呑気にバイトの話なんかするんじゃなかった…
私はとりあえず帰って欲しくないという要求だけは応えようと、口を閉じてじっとしておくことにした。
沈黙が苦しくても、今は井坂君の力になれるよう協力しないと…
そう思ってペンを動かす井坂君の手の動きを見ていたら、急にその動きが止まって井坂君が私を放して離れるのが分かった。
「詩織。もう帰っていいよ。」
「え?」
私は帰るなと言われてからそんなに時間が経っていなかったので、ビックリして振り返る。
井坂君は頭をガシガシと掻くと苦笑して言う。
「明日もバイトあんなら、これ以上引き留めるのも悪いしさ。また会いたくなったときに来てくれればいいから。」
「え…。」
私は『それなら大丈夫。』と言いかけたが、もしかしたらやっぱり勉強の邪魔だったのかも…と思い直して、井坂君に言われた通りにすることにした。
「分かった。じゃあ、今日は帰るね。また、センターが終わった頃に来るね。」
「………うん。バイト頑張れよ。」
「うん。井坂君も勉強頑張って。応援してるね。」
「ありがとな。」
私はどこか元気のない笑顔を見せる井坂君が気になったけど、勉強漬けで疲れてるのかもしれない…と思って部屋を出た。
そして階段を下りながら、何か差し入れでもしようか…と考えていたら、私の足音を聞きつけたのか井坂君のお母さんがリビングから飛び出してきた。
「詩織ちゃん!拓海、どうだった?」
お母さんは心配そうな顔でそう尋ねてきて、私は何をそこまで心配してるのかと不思議で首を傾げる。
「えっと…、ちゃんと勉強してましたけど…。あ、でも少し疲れてるのかも…元気ないように見えたから…。」
「やっぱり…。あの子、ほとんど寝ないで勉強してるみたいで気になってて…。今になって焦ってるのかしら…。」
「焦る…?」
私は井坂君に限ってそれはないだろうと思ったのだけど、テーブルに突っ伏した状態で寝ていた井坂君を見ただけになんとも言えなくなる。
「詩織ちゃんは拓海にあたられなかった?」
「え…?あたるって…。」
お母さんが私のことを心配する目を見せて、私はどういうことかと訊き返した。
「私がご飯を持って行ったら、すごく怒鳴られたのよ。『邪魔すんなっ!食べたいときに食べに降りるから!!』って…。あそこまでピリピリするぐらい、合格が怪しいのかしら…。藤浪先生は何も言ってなかったんだけど…。」
私は怒鳴られるなんてこと一切なかったので、お母さんの言う井坂君に想像もつかない。
「あの…、それって眠かっただけとかじゃないでしょうか?私が行ったときにはテーブルに突っ伏して寝ちゃってて…。起きた時にはいつもの井坂君だったから…。合格が怪しいとかでもなくて…たまたまのような気が…。」
「それならいいんだけど…。拓海はあまり口に出さないから分からないのよね~。きっと詩織ちゃんの方が本音を言うと思うから、また様子見に来てくれるかしら?」
「あ、はい…。井坂君の勉強の邪魔にならなければ…。」
私はついさっき邪魔だと思われてそうだと感じただけに、すんなり来るとは返事し辛かった。
でもお母さんは私のそんなことを吹き飛ばすように、良い笑顔で言う。
「大丈夫よ。拓海が詩織ちゃんを邪魔だなんて思うはずないもの。遠慮しないで、毎日でも顔見せに来てちょうだい?」
私はお母さんの言葉に少し力をもらって、センターが終わるまで来るつもりがなかったのだけど、明日も様子を見に来ようと思うきっかけになった。
なので私はお母さんに笑顔を返すと「また明日来ます。」と言い残して、その日はまっすぐ家に帰ったのだった。
詩織、赤井のバイト組…
そして井坂、小波の受験組で微妙な空気に突入です。