186、入試へ向けて
井坂視点です。
詩織から大学合格を聞いた次の日、赤井も詩織と同じように合格したことを聞き、合格第一号が出たことにクラスは一時大騒ぎとなった。
でもそれも本当に一時のもので、これから受験を控えるクラスメイトたちは、合格者が出たことに触発されたようで、休み時間も勉強をする奴が増えた。
俺の周りの北野と島田もそのメンバーで、休み時間にバカをやることもなくなり、熱心に赤本を捲っている。
それを見ていると、俺も真面目に勉強しないとな…と思うけど、俺は東聖の赤本を取り出しかけてやめた。
「あゆちゃん、ここ間違ってるよ。」
「え!?うそ!!」
「タカさんも、これ公式が違う。」
「あ、ホントだ。」
俺の耳が自然と詩織の声を拾って、俺は小波と八牧に勉強を教えている詩織に目が向く。
詩織は笑いながら楽しそうに教えているように見えるけど、俺はその笑顔が以前とは違うものに見えて胸の奥が詰まったようになる。
詩織から合格したことを聞いた日――――
俺はショックが大きくて、素直に合格を喜べなかった。
志望校が違うんだから、高校卒業後、当然離れることになるってことは覚悟してた。
ちゃんと理解してたはずだったのに…
いざそれが確定してしまうと、俺は心の奥で少しだけ…詩織が推薦に落ちて、関東の大学を受けてくれることを期待していた―――と気づいた。
俺はそれに気づいて、自分がなんて醜い事を考える奴なんだと恥ずかしくなった。
自分本位にもほどがある。
東聖に進路を変えたのは自分だ。
誰のせいでもない。
俺が勝手にしたことだ。
それなのに…今更詩織と離れるのが嫌で、詩織の進路先に期待するなんて最低だ。
詩織の進路はもう変わらない。
詩織は卒業後、関西有数の教育大学、桐來大に行く。
それはもうどう足掻いても変わらない。
詩織と離れる未来が確定した。
俺はそれを考えると、足元に急な暗い穴ができたように怖くなった。
あと五カ月も経たない内に、詩織とは離れなければいけなくなる。
ずっと会えないわけではないけど、今までのように毎日は会えなくなる。
姿を見る事も…傍であの笑顔を見る事もできなくなる。
詩織に何かがあったとき、すぐ助けに行けない…
それどころか、詩織に何かあったことを察することもできなくなる
傍にいればできることが、できなくなる…
俺はそれがすごく怖くて、不安でたまらない。
詩織の俺に対する気持ちは心配してないけど、ただでさえぽわんとして警戒心の皆無な詩織の事だ。
『俺』という番犬がいなくなったら、どうなるんだ…?
俺は最悪のケースを思い浮かべて、サーっと血の気が引いていく。
「それだけはダメだ!!!」
俺は声に出してダンッ!と机を叩いていて、勉強していた北野と島田の視線が自分に注がれているのに気付いた。
北野、島田だけでなく教室中に俺の声は聞こえていたようで、周りを見ると詩織達まで俺の方を見ていた。
俺はそれに恥ずかしくなり、クラスメイトから顔が見えないように背を向けて廊下側に椅子を移動させると、すぐ横から含み笑いとバカにしたような声が聞こえた。
「また何か変な妄想でもしてたんだろ?」
「ホント、受験控えてるってのにお気楽な奴だよ。」
「うるさいな。黙って勉強してろ。」
「俺らの集中を乱したのはどこのどいつだよ。自分勝手なんだからなぁ~。」
「ホント、ホント。」
北野と島田がタッグを組んで小言を言ってきて、俺はムスッとしたまま廊下を眺める。
確かに声に出したのは悪かったけど、そこまで食いついてこなくてもいいよな…
なんだかんだ二人は俺の反応を見て楽しんでるんだろうと思い、俺は気持ちを落ち着け再度考え込んだ。
俺…、このまま東聖一本で決めちまっていいのかな…
俺は受かる気満々な形だが、自分の行く先に今まで迷いなんかなかったのに、詩織のことがあって初めて進路先に迷いが生じた。
俺が関東の大学、東聖大に受かってそこへ行くことになれば、最低でも4年。
院に進むことになったら6年の遠距離を覚悟しなければならない。
その期間、俺はずっと憧れてた小木曽教授の講義が受けられる代わりに、詩織とのキャンパスライフを棒に振ることになる。
勉強か、恋愛か…
俺は考えても考えてもどちらかを捨てる選択肢は出てこなくて、ただ詩織の横顔を見つめて胸が苦しくなったのだった。
***
その日の放課後、詩織が予備校に退会手続きをしに行くというので、俺は一人学校に残ることにして、進路指導室の藤ちゃんの元を訪ねていた。
「珍しいな。井坂が自分から俺の所に来るなんて。」
「まぁ…。たまには…。」
藤ちゃんは俺に目を丸くさせると、自分の前に丸椅子を置いて座るよう促してきた。
俺はそれに座って傍に鞄を下ろすと、部屋にいる他の先生の注目も感じながら、ここに足を運んだ理由を口にする。
「……あのさ、俺が…東聖、受験するのやめるって言ったらどう思う?」
藤ちゃんはあまり驚いてないのか目を瞬かせただけで、すぐにいつもの柔和な表情に戻る。
他の先生の方が藤ちゃんよりも大きく反応して、思いっきりこっちに顔を向け始めた。
「それは、谷地の桐來合格と関係あるのか?」
藤ちゃんは俺のことを軽く見透かしていたのか、すぐそう尋ねてきて、俺は他の先生の目もあるだけにどう答えようかと口を閉じた。
すると、藤ちゃんが俺に少し前のめりになりながら言う。
「井坂。俺も男だから、お前の気持ちはよく分かる。でもな、男なら夢を諦めるのはカッコ悪いと思うぞ。ずっと憧れてきた教授に教わりたかったんだろ?小さな頃からだって言ってたじゃないか。あの思いはどこにいったんだ?」
「小木曽教授に教わりたいって気持ちは今も変わってないよ…。夢を諦めるつもりもない…けど…、でも…関東の大学っていうのが…ずっと引っかかってて…。……――――なぁ、小木曽教授って、本当に東聖に異動…するんだよな?」
俺は最後の確認だと思って、じっと藤ちゃんを見つめた。
藤ちゃんは椅子の背もたれにもたれかかる姿勢に戻ると、腕組んでふーっとため息をついてから言う。
「あぁ。大学に電話までして確認とったんだから、それは間違いない。小木曽教授は来春から東聖大の教授になられる。これは確定だよ。」
確定……
俺は藤ちゃんの揺るぎない瞳を見て、少しの苛立ちが湧き上がる。
「……なんで、……なんで来春からなんだよ…。なんで…あと4年…西皇で待っててくれねぇんだよ…。」
「井坂…。こればかりは、大学の事情だからどうしようもない―――」
「そんなの分かってるよ!!」
俺は藤ちゃんが宥めようとするのに食って掛かり、歯向かった。
「分かってるけど、教授が西皇じゃないから東聖受験します。それで彼女との遠距離も覚悟できてます――――なんて簡単に気持ちに踏ん切りつけられねぇよ!!俺はそこまで大人じゃねぇ!」
「井坂、誰も大人になれなんて思ってないぞ?ただ、谷地とのことも分かるが、進路はお前の将来を左右するんだから落ち着いて―――」
「詩織のことだって、俺の将来を左右することだよ!!」
俺は藤ちゃんが俺と詩織のことを軽く考えてると感じて、思わずカチンときて言い返した。
「俺の未来には詩織がいてくんなきゃ困るんだよ!!詩織がいてくれなきゃ、憧れの教授の元で勉強できたとしてもお先真っ暗なんだ!」
俺が子供のように我が儘を捲し立てると、目の前で藤ちゃんがぶふっと吹きだしながら笑って、俺はそれを睨みつけた。
「あ、悪い。なんだか青いな~と思うと笑いが込み上げてな…。」
「……そりゃ俺は18のガキなんだから、青くもなるよ。」
俺はさすがに笑われてしまったことで、自分が恥ずかしいことを口にしたと後悔した。
ずっと心の中にしまい込んで我慢していたのに、藤ちゃんの何でも受け止めてくれそうな姿に気が緩んでしまった。
「そうだよな。お前ら、まだ18なんだもんな。大人みたいに理性的に気持ちの整理ができるわけないよな。つい口の達者な奴ばかりだから、そういう幼い部分を見落としてしまうよ。」
藤ちゃんはまるで保護者のように温かい目で微笑んでいて、俺は睨むのをやめて視線を下げる。
「井坂。進路に関して、俺はもう何も言わないよ。」
「…へ?」
まるで先生の職務を放棄したような言葉が聞こえて、俺はビックリして藤ちゃんを見つめた。
「お前が夢を追いかけて東聖を受けるのか、それとも谷地と一緒にいる道を選んで西皇を受けるのか。自分でよく考えて決めればいい。自分の将来への道なんだから、後悔しないようにな。」
……後悔しないように…
俺は自分で決めろと言われて、不安が込み上げてくる。
東聖を選んでも、西皇を選んでも、俺はどっちにしろどこかで後悔しそうな気がする…
東聖を選べば詩織との会えない日々に後悔して、西皇を選べば憧れの教授の元で学べないことを後悔する。
俺はどっちが自分にとって最良なのかさっぱり分からなかった。
だから顔をしかめたまま、じっと藤ちゃんの前で黙り込む。
すると急に周囲の先生の声が飛び交った。
「井坂君。絶対に東聖を受けるべきよ!!一時の恋愛感情に流されて進路を変えるなんてあり得ないわ!!」
「そうだぞ。高校生の恋愛なんてな、大体が長続きしないんだ。自分の将来を考えるなら、東聖にしておきなさい。その方が君のためになる。」
「でも、ここまで悩むほど今の彼女が大好きみたいですよ?ここで東聖を選択して、受験に集中できるのかを考えたら、安全策で西皇も良いとは思いますけどね~。」
「そうですよ。高校生でここまで熱く恋愛できるなんていいじゃないですか!私が彼女だったら西皇を選んでくれた方がすごく嬉しいと思うけどなぁ~。」
両極端な話を繰り広げる先生たちを見て、俺は一年の担任を持っている若い女の先生の言葉に引っ掛かった。
詩織だったら…
俺が西皇を選んだって知ったらどう思うかな…?
俺はいつだったか詩織が『夢を追い続けて欲しい。』と言ってくれたときのことを思い出して、頭を叩かれたように目が覚める。
きっと…責任感じて、今以上に泣かせることになるよな…
俺はたまに強い瞳をする詩織を思い、少し不安が和らぐ。
そして、まだ少し迷いはあるものの、先生たちの言い争いを収めようと口を挟んだ。
「あの。まだ願書提出まで時間があるので、一回ちゃんと考えてみます。藤ちゃん…、えっと藤浪先生の言う通り、自分が後悔しないように…。」
俺が今すぐには決断できないと思ってそう言うと、藤ちゃんが「今は思いっきり悩めばいい。」と笑顔で背を押してくれて気持ちが楽になった。
だから、俺はサッと立ち上がると藤ちゃんと他の先生に向かって頭を下げた。
「俺の我が儘な悩みを聞いてくださってありがとうございました。また、志望校をきっちりと決めたら報告にきます!」
「あぁ。お前ならきっと大丈夫だ。悔いのないようにな。」
藤ちゃんの親のような包容力ある言葉に俺は笑顔を返すと、「失礼しました!」と進路指導室を後にした。
そして出た所で、ふっと息を吐いて再度詩織の顔を思い浮かべた。
『井坂君には夢を追い続けて欲しい。応援するよ!!』
詩織ならきっとそう言うに決まってる。
むしろ西皇に志望校戻したなんて言ったら、怒るに決まってる。
だったら俺にできることは、やっぱり離れることを覚悟して、このやり切れない気持ちを乗り越えるしかない。
詩織と二人で…
俺はそう少しだけ覚悟を決めると、足を昇降口に向けた。
どこを受けるにしても、そろそろ勉強に本腰入れないとな…
100%受かるわけじゃないんだから…
俺は今日はもう詩織には会えないので家に帰ったら勉強しようと、そのときは真面目なことに頭を切り替えたのだった。
ちょっと乱れている井坂をお送りしました。
次はそんな井坂を見守る詩織視点です。