165、離れたくない
「……っ…!!…ひっ…く…!!」
私がボロボロと涙が流れる頬を手で拭っていると、井坂君がその手を優しく包んできて、私は涙に濡れた目を開けた。
井坂君の顔は苦しそうに歪んでいて、私がそんな井坂君を見つめていると、頭の後ろを押さえられて抱き寄せられた。
私の濡れた顔が井坂君のシャツの肩の辺りに当たって、どんどん湿っていく。
私は井坂君の制服を濡らしてしまうと思って、離れようと腕に力を入れたけどそれを上回る力で強く抱き締められる。
「詩織…。ごめんな…。我慢しないで…、全部…言ってくれ…。俺…、ちゃんと受け止めるから…。」
井坂君の言葉に涙の勢いが少し緩くなる。
全部…って…
言ったら、井坂君を困らせることにならない…?
それこそ井坂君が進路を悩むことにならない?
私のせいで井坂君が苦しむのは…イヤだ…
私は井坂君の重荷になりたくなくて首を横に振った。
「大丈夫…。応援…するよ?…井坂君が前々から目標にしてた人なんだもん…。ずっと追い続けて欲しい…。」
「そんな上辺の言葉はいらない!」
井坂君が私の強がりの言葉を遮ってきて、私はギュッと口を噤んだ。
「詩織…、お願いだから隠さないでくれよ…。俺に対しての文句…全部聞くから…。全部言ってくれよ…。」
吐き出された井坂君の声が掠れていて、私は胸が鷲掴みにされたように苦しくなった。
井坂君の重荷になりたくなくて、強がることが井坂君を苦しめてしまうことになるなら…
私はどうすればいいんだろう…
言われた様に全部言っちゃうのが正しい事…?
私は正解が分からなくて黙り込んで考えた。
すると辺りにチャイムの音が鳴り響いて、私はとりあえず教室へ戻らないと…と井坂君に声をかけた。
「井坂君…。チャイムなったよ…?教室戻らない――――」
「イヤだ!!詩織が全部言うまで離さない!!」
「え…。」
井坂君は本当に離す気はないようで、どんどん力が強くなって息苦しくなる。
「じゃ、じゃあ…放課後…。全部言うから…。」
「イヤだ!今、言ってくれ!!」
ここまで頑として譲らない井坂君は珍しくて、私は困ってしまった。
受験に関わってくる出席率を落とすわけにはいかないと思うのに、離そうとしない井坂君の腕が少し震えていて強く言えない。
授業に間に合うように早口で言ってしまおうか…と思い始めたとき、井坂君が独り言のように「詩織と離れたくない…。」と掠れた声で言った。
私はそれを聞いて収まりかけていた涙がまた溢れてきて、本音が自然と口からこぼれた。
「私も…井坂君と離れたくない…。」
この本音をきっかけに、堰をきったように胸に溜まっていた本音が零れ落ちてくる。
「井坂君と…離れるのが嫌だったから…桐來…受けたんだよ…?」
「……うん。」
「一緒に大学生活…送れると思って…、私…お母さんに頭も下げたんだよ…?」
「……そうだったのか…。……ごめん…。」
私が本音をこぼしたことで井坂君の腕の力が少し緩くなる。
「なんで…もっと早く言ってくれなかったの…?」
「うん…。ごめん…。」
「私に言えなくて悩んでたなら、言って欲しかった…。一緒に悩んで…考えて…、悪あがきしたかったよ…。」
「………悪あがき…?」
私は鼻をすすると、井坂君のシャツをギュッと掴んで力をこめた。
「周りから反対されただろうけど…、推薦…受けないって言って、あがきたかった…。一緒にいられる道を…探したかった…。」
私がそう言ったことで、井坂君から鼻をすする音が聞こえ出した。
それが余計に私の涙腺を緩ませる。
「…東聖は…遠いよ……。」
私が鼻声で言うと、また井坂君の腕の力が強くなった。
「ごめんっ……、…ごめんっ……!…詩織…、ごめん…っ…!!」
井坂君も泣いてるのか鼻声で何度も謝ってきて、お互いの気持ちが相乗効果となって涙が止まらない。
井坂君と離れたくない
ずっと一緒にいたい
でも、井坂君の夢のためには受け入れるしかない
すぐには受け入れられないだろうけど、井坂君の試験までには気持ちの整理がつけられるといいな…と私は謝り続ける井坂君を抱きしめ返した。
***
澄み切った青空にまだ夏の日差しが照りつける屋上で、私と井坂君は影になった入り口脇の壁にもたれかかっていた。
涙も出し切って落ち着きを取り戻すと、我ながら自分勝手な物言いをしたな…と反省した。
すんっと鼻をすすってから、ちらっと横で黙って項垂れている井坂君を盗み見る。
井坂君はさっきまで私と同じように泣いていたけど、今は前髪に目元が隠れてしまっていてよく見えない。
頬は濡れてないから、もう泣いてはいないんだろうけど…
私は今は話しかける雰囲気じゃないと判断すると、鼻から息を吸いこんで青い空を見上げた。
結局、授業サボっちゃったなぁ…
五限は確か…数学…
藤浪先生だ…
サボりだってバレてるだろうな…
井坂君と私の二人が一緒にいないんだもんね…
見つかったら色々聞かれるんだろうな…
私は根掘り葉掘り聞かれるのが嫌で顔をしかめていると、横で井坂君が動く気配がしてそっちに目を向けた。
井坂君は立膝に顔をのせてこっちを向いていて、私は見られていたことにドキッとした。
「詩織…。ホントに…ごめんな…。」
井坂君がまた謝ってきて、私はさっきから何度も謝られてるので笑って返した。
「もう謝らないでいいよ…。こればっかりは仕方ないんだから…。」
「でも…。…俺…、詩織…泣かせたし…。きっと、これからも泣かせることになるから…。」
これからも…
私は井坂君と離れることになる先の事を考えるだけで、気持ちが落ちてきて少し視線を下げた。
すると何か感じ取ったのか、井坂君が私の肩を掴んで声を強めた。
「もっ…もちろん!泣かせないよう努力はする!!毎日電話するし、メールだって暇を見つけたら送る!!バイトして、金が溜まったらすぐ会いに行くし…。長期の休みは毎日詩織と一緒にいる!!」
「…毎日…。」
「そう!!毎日!!」
井坂君が物凄く一生懸命熱弁してきて、私はその必死さに笑ってしまった。
「ふふっ!そんな毎日だったら、きっと楽しいよね。」
「お、おう!きっと楽しいと思う!!」
「じゃあ、…大丈夫。井坂君が困らないように、私、泣かないようにずっと笑顔でいることにする。」
私は驚いた表情で固まってる井坂君に笑顔を向けた。
「離れるのは…すごく、すっごく寂しいし…、正直…まだ離れるっていうことを深く理解もできてない…。でも、井坂君を応援したいのは本当だから…井坂君がこれから頑張れるように笑顔でいるよ。」
私は最後に「私は大丈夫。」と告げて井坂君の頬を両手で挟むように触れた。
すると井坂君がギュッと眉間に皺を寄せると、今にも泣きそうな顔で笑った。
「なら、俺はその気持ちに応えなきゃな。ありがとう…、詩織。」
私はやっと井坂君から謝罪じゃない言葉が聞けて、心底ほっとした。
離れて大丈夫な自信なんて今はないけど…
でも、井坂君の夢を応援できる自信はある
私は離れてしまうことは、いったん考えずに置いておこうと思うと、井坂君から手を放して立ち上がった。
そして陽の当たる場所まで行くと大きく伸びをしてから、井坂君に振り返った。
「授業、サボっちゃったね?これから、教室戻る?それとも――――」
私が笑顔で訊いたとき、井坂君が私を追いかけてきていたのか、遮るようにキスしてきてビックリした。
それも井坂君の手が背後に回ってくる長いキスで、太陽からの熱と井坂君に感じるドキドキの熱で頭がぼーっとなる。
「俺は…詩織とこうしてたいけど…。」
唇を離した井坂君が潤んだ甘い瞳で見つめてきて、私は一瞬流されそうになった。
でも、授業をサボってるという現状から理性が勝つ。
「そ、それは…放課後にしよ?私、今日は入試後だから予備校行かないし。」
「マジ!?じゃあ、今日俺ん家来てくれよ!母さん、習い事の日なんだ。」
井坂君は今度はキラッと目を輝かせると、見るからにテンションを上げてワクワクし出した。
「習い事?井坂君のお母さん、何か習われてるの?」
「うん!なんだっけ…確かフラワーなんとかっていうやつ。よく知らねぇけど。」
「もしかして…フラワーアレンジメントのこと?」
「たぶん、そういうの。」
井坂君がヘラッと嬉しそうに笑っていて、私はよっぽど習い事の内容に興味がないんだな…と察した。
きっと今頭の中は放課後のことでいっぱいなんだろう…
私はそんな井坂君が単純で笑ってしまったんだけど、そんな放課後は簡単にやって来なかったのだった。
***
「あぁ!?帰る!?」
放課後、私と井坂君が鞄を持って帰りかけると、赤井君が扉の前で仁王立ちして般若のように顔をしかめた。
その横には腕を組んでこっちを睨むあゆちゃんの姿もある。
「お前らな…文化祭を一週間後に控えてるってこの状況で、よくもまぁ帰るなんて言えるな!?五時間目も二人揃ってサボりやがったクセに!!」
「そうよ!!詩織!あんた衣装合わせすらやってないんだよ!?入試終わったら、人一倍働くって言ってたよねぇ!?」
………確かに言った…
私は怒るあゆちゃんに頭を下げて「言いました…。」と白状した。
だから、帰るのは諦めないとかな…と思ってたんだけど、井坂君はまだ諦めていないようで食い下がった。
「別に一日ぐらいどうってことないだろ?文化祭の準備ったって、あと教室の飾りつけ作んのと、衣装合わせぐらいなんだから。」
「おまっ!?ぐらいっつったか!?ぐらいって!!」
「もう、いいよ。井坂は帰りなよー。その代わり、詩織はいただいていくから。」
赤井君が怒り憤慨している横で、私はあゆちゃんに腕を引かれて教室の中へ戻る。
すると反対の手を井坂君に掴まれた。
「ふざけんな!!詩織は俺と帰るんだよ!」
「うるっさいな!!詩織は衣装合わせすらしてないっつってんでしょうが!!帰るなら一人で帰れ!!」
あゆちゃんが私の手を掴んでる井坂君の手を思いっきりチョップして、井坂君の手が離れた。
井坂君は「ちょっと待て!!」と言ったけど、そんな井坂君を赤井君が後ろから羽交い絞めしている。
そしてあゆちゃんは縫い物作業している女子グループの前まで行くと、たくさん積まれている衣装の中から私のものなのかフリフリとレースのついたメイド衣装を手に取った。
私はそのフリフリ具合に顔が引きつったけど、あゆちゃんは構わずに「試着行くよ~。」と私の手を引いたまま教室を出ていく。
試着はす教室のすぐ傍の化学実験室の隣の空き教室でするのか、あゆちゃんはカーテンを全部閉めると、私に衣装を渡してきた。
「はい。じゃ、着てみよっか。」
「う、うん。」
私は衣装を受け取ると一旦それを机の上に置いて、着ているシャツを脱いだ。
そして衣装をガバッと頭から着ると、それを座って見ていたあゆちゃんが徐に口を開いた。
「詩織…、井坂から聞いた?」
「ん?聞いたって…何が?」
私が衣装を着たことでスカートも脱いでいると、あゆちゃんがふぅと大きくため息をつくのが聞こえた。
「進路の事。」
『進路』と聞いて、私はビックリしてあゆちゃんを見つめた。
あゆちゃんはそんな私を見ると、悲しげに眉をひそめて視線を下げた。
「良かった。井坂、やっと言ったんだ。」
「あ、あゆちゃん…。もしかして、知ってたの…?」
私があゆちゃんの方が先に知っていたことに驚いていると、あゆちゃんがふっと笑って言った。
「たまたま昨日、井坂がぼやいてるのを聞いちゃったの。あいつ、相当詩織と離れるの嫌みたいで、頭抱えてたよ。」
「……そうだったんだ…。」
私は脱いだ制服を畳みながら、昼休みに聞いたことを思い返して胸が締め付けられる。
するとあゆちゃんが私の衣装の後ろのリボンをくくりながら、またため息をついた。
「あーあ!!大学になったら、みんな遠距離なんてね!出来過ぎてて、笑っちゃうよ!」
「……うん。そうだね…。」
私は<遠距離>という単語がまだ理解できなくて、気持ちだけがどんどん沈み込んでいく。
そんな私の気持ちを察してか、あゆちゃんがバシンと背を叩いてきて、私は目を丸くさせて振り返った。
「詩織は大丈夫だよ!!井坂、ぜーったい浮気なんかしないから!」
「う、浮気??」
私は心配もしてなかったことを言われて、ふっと笑みが漏れた。
あゆちゃんは腰に手を当てて自信満々に言う。
「そうよ!遠距離って言ったら、相手が見えないわけでしょ?私はもう赤井の浮気が心配で心配で…。」
「赤井君、浮気なんかしないと思うよ?」
「そんなの分かんないじゃない!?私より、ナイスバディで色気ムンムン美女が近寄ってきたら、女好きのあいつなんだからコロッといくかもしれないでしょ!?」
「あははっ!色気ムンムン美女って!!」
私がお腹を抱えて笑い出すと、あゆちゃんは少し眉を吊り上げながらも楽しそうに言う。
「だって想像してみてよ!そういう美女が近づいてきたとして、仲良くしてるのは赤井か井坂のどっち?」
私はあゆちゃんに言われるまま想像すると、確かに仲良く話をしてる姿が浮かぶのが赤井君だった。
だから遠慮しながら口にする。
「……赤井君…だね?」
「でしょー!?井坂は鬱陶しいって感じでスルーしそうだけど、赤井はそういう奴なのよ!!だから、詩織!!大学に行ってからはあんただけが頼りだからね!?」
「私!?」
「そう!!赤井が浮気しないように大学で見張っててね!」
あゆちゃんがむんっと顔をしかめてお願いしてきて、私はプッと吹きだして笑ってしまった。
「あははっ!私、まだ受かったわけじゃないのにー!!」
「いいのよ!!こういうことは、事前の準備がものをいうんだから!」
「事前準備って!!」
私はあゆちゃんの必死な様子に笑いが止まらなかった。
このときのあゆちゃんは落ち込んでる私を励まそうと、こんな話をしたんだろうというのは後で分かった。
あゆちゃんらしい気遣いと優しさ…
私はそれがすごく嬉しくて、笑顔でいることができた。
大好きな人と離れることを辛いと思ってるのは、私だけじゃない…
私だけじゃないんだ
高校生最後の文化祭準備へ入っていきます。




