163、いない人
井坂視点です。
詩織と赤井が推薦入試で学校を公欠した今日――――
俺はぼけーっと自分の席に座って、詩織の席を見つめていた。
今は一限が終わったところの休憩時間だ。
俺は普段と変わりない教室の風景の中に詩織の姿がないということが寂しくて、やる気が起きない。
いつも傍にいたのにな…
詩織がいないってのはこんな感じなのか…
俺はイスからずるずると腰をずらして背もたれに後頭部をのせると、はぁとため息をついた。
すると俺と同じようにため息をついた人物がいて、ちらっとすぐ横の席へ目を向けた。
「はぁ…。」
そこには机に頬杖をついている小波がいて、俺は自分と同じだと感じて目を細める。
本来は赤井の席なのだけど、そこに座り小波は何度もため息をついては悲しそうに眉を下げている。
「なんでそこ座ってんだよ。」
俺はただの気まぐれで声をかけると、小波は俺を見てから残念そうに笑う。
「いいじゃん。赤井の席なんだし、彼女の私が座っても問題ないでしょ?」
「………、なに?寂しい…とか?」
俺は一部自分の気持ちが混ざりながら口にした。
小波は俺をじっと横目で見ていたけど、大きく息を吐くと、机の上に手を伸ばしてそのまま頭をのせて倒れてしまった。
そして俺にだけ聞こえるぐらいの音量で言った。
「…寂しいに決まってるでしょ…。ぶっちゃけ今日学校来るまで、赤井が桐來受けるのやめないかなとさえ思ってた…。」
「おい、すげー自分本位なこと言ってっぞ?赤井の進路応援してやれよ。」
「分かってるよ。頭では分かってるんだけど…、こう…理性と本能の狭間でもやもやしてるのよ!」
小波が少しだけ頭を上げて語気荒く言いのけて、俺は正直に自分の気持ちを口にできる小波を羨ましいと思った。
俺も似たようなことを思うけど、口にしてしまったら詩織の耳に届きそうで口にできない。
本当は桐來なんか受けて欲しくない
俺と同じ関東に志望校を変えてくれたらって、自分勝手なことも思ってる
離れたくない
ずっと傍にいて欲しい
詩織が傍にいない今日だから、強くこんなことを思うのかもしれないけど…
小波と同じように、俺だって頭では応援すると決めていながら、心では逆のことを期待してる自分にイヤになる。
推薦に落ちれば、詩織は俺と同じようにセンターを受ける事になる。
そうすれば志望校を関東に変える事も可能だ。
でも推薦での合格が決まってしまえば、そのわずかな可能性はなくなってしまう。
遠距離確定だ
俺は自分がすごく嫌な奴だとイラついて頭を掻きむしった。
すると、横で小波がぼそっと呟いた。
「離れるって…こういう毎日になるってことなんだよねぇ…。」
俺は小波の言葉に一瞬心臓が止まるようだった。
自分の体温が一気に冷えて、肌がピリリと緊張する。
「赤井の声もしないし…、顔を見る事も…触れることもできない。」
詩織の声もしない…顔を見る事も触る事もできない…?
「今日みたいに寂しくて不安な日ばっかりになるなんて…、私本当に大丈夫かな…。」
寂しくて…不安…
俺は小波と全く同じ気持ちになって、詩織のいない教室を見回した。
どこにも詩織がいない毎日になる…
小波じゃないけど、俺も大丈夫なのか…??
俺は耳に『井坂君!』と俺を呼ぶ詩織の幻聴が聞こえてきて、一点を見つめたまま考え込んだ。
昨日、赤井と詩織が並んで楽しそうに話をしてるだけで、俺は赤井に嫉妬した。
同じ大学を受ける赤井を…、こうして楽しそうに大学では過ごすんだろうと思うと…堪らなくイヤになった。
赤井に詩織をとられた気分だった。
そんな俺が、詩織のいない大学生活を送れるとは到底思えない。
というか、4年も我慢するなんて俺には無理だ。
そんな思いが口をついて出る。
「俺は大丈夫じゃない。」
「――――――は?」
「俺は詩織と離れるなんて絶対イヤだ。」
「…え?何の話をしてんの?…今、あんたの話なんかしてない―――」
「俺は詩織と一緒がいい。……東聖なんて、東聖なんて…!!!」
俺はギュッと拳を握りしめると『受けない』と口にしたいんだけど、どうしても小木曽教授の元で勉強したい気持ちも諦めきれずに机を叩いた。
「くそっ…!」
俺は上手くいかないことへのイライラから悪態をついて、頭を抱えた。
すると、横から驚いたような小波の声が響いてきて、俺はそっちへ目を向けた。
「井坂…、東聖って何の話してんの…?あんた…詩織と同じ関西の西皇に行くんじゃ…。」
「――――――あ……!!!!!」
俺はまだ誰にも言ってないことを、小波と話してる内にサラッと漏らしてしまい血の気が引いた。
だから小波の腕を引っ掴むと、口止めしようと教室を飛び出す。
そして人気の少ない階段下のスペースに来ると、俺は背の低い小波を見下ろして手を合わせて頼み込んだ。
「さっきのこと誰にも言わないでくれ!!頼む!」
「言わないでくれって…。このこと詩織は!?知らないよね!?知ってたら、今日推薦入試受けてるわけないし…。」
小波は困惑しているのか瞳を震わせて俺に詰め寄ってくる。
俺は小波を落ち着かせるために、事の経緯を説明しようと合わせていた手を下げる。
「俺の尊敬する教授が、西皇から東聖に異動になるみたいんだ。俺、どうしてもその人に教わりたくて…。東聖に志望校を変えて…。」
「それっていつの話!?どうして真っ先に詩織に言わないの!?」
「……分かったのは、夏休みが終わる二週間前ぐらい…。もう詩織の大学の願書も出し終わってたし…。推薦入試控えてるの分かってたから…、動揺させて試験失敗させるわけにはいかなくて…。」
「それで黙ってたのね…。」
小波ははぁ~と大きくため息をつくと、腕を組んで俺を見上げてきた。
「井坂の判断は詩織の受験のことを考えれば正しいと思う。でも、詩織の彼氏として…詩織の気持ちを一番に考えるなら、動揺させるのが分かってても言うべきだった。」
俺は自分と違う考えを口にする小波をまっすぐに見つめた。
小波は俺の母親のように厳しく諭してくる。
「今更言っても遅いけど…。私が詩織だったら、内緒にされてた事の方がショックだよ。だって、その話を事前に知っていれば今日の試験を受けるか受けないか、自分で選べたんだもん。試験が終わったあとじゃ、もうそれは自分では選べない。だって、結果に委ねるしかないんだから。」
小波に言われて、俺は自分が詩織を悩ませたくなくて…苦しめたくなくて逃げただけだと気づいてしまった。
詩織のためと言いきかせながら、自分が詩織に言うのが嫌で逃げてただけだと…
俺はそれに気づき、両手で顔を隠すとその場にずるずるとへたり込んだ。
また、やっちまった…
俺は自分がすごく情けなくて、泣きたくなるのをグッと堪えた。
「ホント、井坂ってバカだよねぇ~。」
呆れたような小波の声が上から降ってきて、俺は顔を覆っていた手を外して小波を見上げた。
小波は苦笑しながら俺の肩をポンと叩いて、目の前にしゃがみ込んでくる。
「気持ち、痛いぐらいよく分かる。だから、これ以上は言わないけど…。明日、詩織に絶対に言って。」
「え…?」
「東聖を受験すること。必ず明日詩織に言って。でないと、私が詩織に言うから。」
「え!?それは!!――――でっ…!!」
俺は試験が終わったばかりの詩織に言うのが躊躇われて言い澱んだけど、突き刺すような小波の目の圧力を感じて素直に頷いた。
「……分かったよ…。明日、詩織に絶対言う…。」
「よし!!約束ね!」
小波は「言わなきゃ明後日には私の口から詩織に伝わるから。」と脅してきて、怖い笑顔で俺の肩を叩いてくる。
俺は小波に苦笑いを浮かべて、絶対に言わねーと…と心に決める。
すると俺たちに影がかかって、二つの声が飛んできた。
「あ!こんなとこにいた!!」
「おいおい。お互い彼氏、彼女いないからって二人で逢引とか…。マジでないわー。」
俺と小波がしゃがんで密会しているのを見て、俺たちを探してたらしい島田と北野がそれぞれ声を上げた。
誤解を招く発言をしたのは北野で、俺と小波は同時に立ち上がると声を揃えて否定した。
「そんなんじゃねーし!!」
「そんなんじゃないわよ!!ちょっと、赤井がいない寂しさを同じ境遇の井坂に愚痴ってたっていうか…。」
「そうだよ!!詩織と小波なんて、天と地ぐらいの差があるんだからあり得ねーし!!」
「は!?それはこっちのセリフなんですけど!!」
俺が誤解を解こうとして発した言葉が癇に障ったようで、小波が俺の制服を引っ掴んでガンをつけてくる。
俺は引っ張ってくる小波の手を引きはがすと、「物の例えだろ!?」と返した。
小波は機嫌が直らないようでまだ何か言いかけていたけど、北野と島田の笑い声が聞こえ出して、口喧嘩を中断する。
「ははっ!!お前と小波に何かあるわけねーな!どう見てもカップルには見えねーし。」
「だな!どっちかっつーと、赤井と谷地さんの方がカップルに見えるしな。」
「はぁ!?」
「なんだと!?」
俺と小波は勝手に自分の彼氏彼女がくっつけられたことにカチンときて、島田と北野を睨みつけた。
口に出した島田は「どっちかつーとって言っただろ!?」と自分の失言を取り消そうと焦っている。
その横で北野も「落ち着けっつーの。」と俺たちを宥めにかかってくる。
「例え話だったとしても、そんなこと口にすんじゃねーよ!!想像して嫌な気分になっただろ!?」
「そうよ!!ただでさえ、あの二人今日はたった二人で行動してるっていうのに!!」
「おいおい。そんな熱くなるなって。赤井も谷地さんもそんな気さらさらねーって。」
「そうだよ。お前ら自分がどんだけあの二人に好かれてるか、分かってないわけじゃねーだろ?」
俺は詩織から向けられる嬉しそうな笑顔を思い返して、照れると口を噤んだ。
それは小波も同じだったのか、気まずそうに目を逸らして頬を赤らめている。
まぁ…詩織も赤井もそんな空気は微塵もねぇしな…
俺は心を落ち着けるとふっと息を吐いた。
そんな俺を見て「あからさまに安心すんなっつーの!」と島田がからかってきて、俺はいつものように島田をどついたのだった。
***
そうして、詩織のいない長い一日がやっと終わり、俺は返事のないケータイを開いてみてはため息をついた。
俺はちょっと寂しいという意味を含めたメールを昼休みに詩織に送っていて、詩織からなんて返ってくるのか楽しみにしていた。
でも、学校が終わった今、まだ返事はない。
面接が長引いてるのかもしれない…
試験に頭がいっぱいでケータイを確認してないのかも…
ケータイを家に忘れてるってことはねーよな…?
俺は返事がこない理由を考えてはどんどん不安になってくる。
すると、良く通る小波の声が響いて俺の意識がそっちへ持って行かれた。
「あ!!赤井、今面接終わったから、帰るってメールきた!!」
!?!?
俺はビックリして椅子から立ち上がると、嬉しそうにしている小波に駆け寄った。
わらわらと周りに島田や北野も集まってくる。
「大学、でかかったって!!あははっ!何、当然の感想送ってきてんだろ!試験の出来が気になるんだけど!!」
小波が朝の沈んだ顔とは正反対の輝くような顔で笑っていて、俺は小波のメールを盗み見ては鳴らない自分のケータイを握りしめた。
詩織…
俺がなんで自分にはメールが来ないんだと落ち込んでいると、持っていたケータイが俺の心を読んだかのように振動した。
俺は集団から離れると、慌てて画面を確認する。
届いたのは詩織からのメールで、俺はドキドキしながら内容に目を通した。
『メールありがとう。やっと全部終わったよ。
井坂君に頑張れって言ってもらえて、苦手な面接も乗り越えられたよ!
また帰ったら、こっちのこと話すね~。』
詩織…元気そうだな…
俺は試験の緊張から解放された感の出るメールを見つめて、ふっと頬が緩んだ。
この感じだと試験は上手くいったんだろう…
俺は遠距離を覚悟しなきゃいけないかな…とギュッとケータイを握りしめると、ふとメールがまだ下に続いてると分かり下にスクロールする。
そして出てきた文字を見て、俺はその文字を見たまま固まった。
『私も寂しかったよ。』
――――――詩織…
俺は自分のメールにのせた想いが詩織に伝わって、詩織も同じ想いでいてくれたことが胸にきた。
ジン…と熱く燻るような想いが胸に溜まって、叫び出したいような堪らない気持ちになる。
これから先、詩織にこういう想いをさせてしまうことになる。
ごめん…
謝っても仕方ないけど、謝らずにはいられない。
どうか、明日…詩織があまりショックを受けませんように…
俺は鼻から大きく息を吸いこむと、叫び出したい気持ちを胸の奥底に押し込んだ。
井坂と小波の絡みは楽しいです。
次は井坂が詩織へぶっちゃけます。




