143、試練の波
引き続き井坂視点です。
俺はぶかぶかスウェット姿の詩織を抱きたい衝動をなんとか抑え込むと、脱衣所に逃げ込んできていた。
服を脱ぎながら心頭滅却させようと、冷水でも浴びようと決めて風呂場に入ったところで、ついさっき入った風呂と匂いが違う気がして鼻をヒクつかせた。
あれ?
俺ん家の風呂って、こんな良い匂いしてたっけ…?
どことなく甘い匂いがするような気がして、不思議に思いながらシャワーを浴びて体と頭を素早く洗うと、ゆっくり湯船に浸かる。
そして自分を落ち着かせようと大きく深呼吸したところで、はたと詩織も同じ風呂に入ったことに気づいて、じっと今浸かっている湯船のお湯を見つめた。
……詩織もこの風呂に入ったんだよな…
俺は詩織が風呂に入っている想像をして、何だか赤面してしまう。
詩織の裸…すごく綺麗だった…
ずっと眺めていても飽きないし、肌がもちもちしてて柔らかくて…
何よりすごく良い匂いがした。
ここで風呂場に入ったときに香った匂いを思い出した。
あれは詩織の匂いだと気づくと急に全身がぞわっと逆立って、慌てて風呂から出ようとしたところで肘を壁に打ちつけた。
いっ~~~~っ!!!
俺は痛みに顔を歪めて変な事を考えた罰だと思った。
痛みのおかげで欲情しかけた気持ちが収まっていく。
「は~~…。俺、今夜大丈夫か?」
俺は一緒に風呂に入ってるわけでもないのに、こんな調子で大丈夫かと自問して落ち込む。
詩織を抱けなかった以前は抱けば安心して、詩織だらけだった自分も少しは落ち着くだろうと思ってた。
それこそ平気で小波と笑い合ってる余裕な赤井のように…
でも長年の望みの叶った今、俺は落ち着くどころか以前より増してヤバい状態だ。
詩織の一挙一動に振り回されて、視線の先のものでさえ独り占めしたくなる。
詩織の目に俺しか映らなければいいのに…とさえ思う。
きっと今までで一番詩織の事が大好きだ
全部が愛おしくて、全部が欲しくなる
俺の欲望に際限なんかないな…と思ってため息をつくと、頭がぼーっとしてのぼせてると感じて浴槽から出た。
そして体を拭いてサッと着替えを済ませて、詩織に貸したスウェットと似たようなパーカーとズボン姿でリビングに戻った。
リビングはシーンと静まり返っていて、俺がバスタオルで髪を拭きながら部屋を見回すと詩織がソファで小さくなって寝ているのが見えた。
詩織は少し寒いのかくるんと丸まっていて、長い袖から覗く指の先っちょが何とも言えず可愛い。
すやすやと赤ちゃんのように無防備に寝てる姿が、押さえたはずの俺の我慢しなきゃいけない所を擽る。
……二人っきりだって分かってんだよな…?
これ、もう天然で済ませられるレベルを超えてんだけど…
俺は詩織の前にしゃがみ込むとぷにぷにとした頬を指で突いた。
すると、詩織が顔をしかめて「う~…。」と唸ってから、また健やかな顔に戻った。
ほんと…よく寝るよなぁ…
俺が以前もここで寝てた詩織を思い返して呆れていると、詩織がふっと表情を緩めるのが見えた。
「……たくみくん…。」
へ!?!?
俺が名前で呼ばれたことにビックリして詩織を凝視していると、詩織がまた健やかな顔に戻って寝言だと分かった。
不意打ちで名前を呼ばれた俺は、それがじわじわと心に響いてたまらなくなる。
夢の中では俺の事、名前で呼んでるって…
くっそ…夢の中の俺とチェンジしてぇ…
俺は夢の中の自分にまで嫉妬して、夢でもいいから詩織にもう一回呼んでもらおうと優しく声をかけた。
「詩織…、詩織。…もう一回言って?」
詩織はもう夢の中なのか俺の言葉に何の反応も見せない。
……やっぱダメか…
あーあ…、詩織起きるまで何してようかな~…
俺は起こすのも可哀想だったので、くるりと詩織に背を向けるとソファにもたれかかって天井を見上げた。
とりあえず時間はたっぷりあるから本でも読むか…
俺は二階に本を取りに行こうかなと腰を浮かしかけた所で、急に後ろから手が伸びてきて首元に手が回った。
「うえっ!?詩織!?」
俺が詩織が起きてたことにビックリして回された手を掴んで声をかけると、後ろから楽しそうな笑い声が聞こえ始めた。
「ふふっ!お風呂上がりの井坂君、あったかいね。」
「え!?詩織、いつ起きたんだよ!?」
「井坂君に声かけられたときかな。もう一回言ってって何のこと?」
俺は恥ずかしいおねだりを聞かれてたことに焦ると、「何でもない!」と誤魔化した。
詩織は「変なの。」と笑いながら、俺の首元にくっついてきて詩織の吐息が肌に当たる。
うわわわ!!詩織、すげー良い匂いするし、息吹きかけるのやめてくれー!!!
俺がまた抱きたいスイッチが入りかけるを堪えて、心臓をバクバクさせていると、詩織がやっと俺から離れてくれてストンと横に座ってきた。
「そろそろご飯食べる?せっかく準備してくれたのに冷め切っちゃったね。」
詩織が残念そうに呟いて、俺は詩織をがっかりさせたくなかったので否定した。
「大丈夫だよ。元々食べるの夜にしようと思ってたから、温かい奴は鍋に入りっぱなしだし、机の上のやつも温め直せるものばっかだからさ!!」
「え…。もしかして、この料理…井坂君が作ったの?」
詩織が目を大きく見開いて尋ねてきて、俺は誤解させてると大きく手を左右に振った。
「違う、違う!!これ、母さんが今朝作っていったんだよ!!俺も少しは手伝ったけど、全部作るとか無理だから!!」
「お母さんが?…じゃあ、私がお家に来るの知っておられるってこと?」
「え…、うん。詩織呼ぶって…事前に言ってるから…知ってるけど?」
「そうなんだ。」
詩織は母さんが知ってるって事実にビックリしてるのか、意外そうな顔をした。
俺はそんな詩織に今朝の母さんの様子を伝えたくて話した。
「母さん、詩織のこと相当気に入っててさ、俺が詩織の誕生日祝うって言ったら、すげー喜んで作ってくれたんだ。」
「そうなの?」
「うん。自分も一緒に祝いたかったって言って、拗ねてたぐらいだったよ。」
まぁ、他にも高校生らしく接しなさいと釘を刺されたけど、これが俺なりの高校生らしい感じだと思うことにしよう。
詩織は「そうなんだ…。」と呟くと頬をキュッと持ち上げて嬉しそうに微笑む。
「じゃ、俺、料理温めるな。」
俺が鍋の料理やテーブルのものを温めようと立ち上がると、詩織も「手伝う。」と言って俺の後ろをついてきた。
そうして二人並んでキッチンに立つと、詩織と一緒に暮らしてる気分で、俺はいつか来るだろう未来を妄想して、幸せな時間に顔が緩みっぱなしになったのだった。
***
それから俺たちは楽しくご飯を食べ、後片付けを済ますと時間も20時を過ぎていて、俺はこの後どうしようか…と考えて、リビングのテレビの前に胡坐を組んだ。
すると詩織がちょこちょこと俺の前にやってきて、ストンと腰を下ろした。
そして、じっと俺を見つめたあとに、少し頬を染めると大きく息を吸ってから、俺の膝に頭をのせて寝転んできた。
俺はそれに心臓が縮み上がるぐらいビックリして、一瞬息が止まった後ぶほっと息を吹きだす。
「詩織!?なっ、なにやってるわけ!?」
「え…っと…、膝枕?…かな?」
「それは見れば分かるよ!!なんで今、膝枕なのかっていうか…こんなことする意図っつーか!!」
俺は抗議する間も心臓がバクバクと爆発しかけていて、近くにある詩織の顔に色んな妄想が広がって疼き出す。
詩織は徐々に頬の赤みが増してきて、俺から目を逸らすとぼそっと言った。
「だって…今日、誕生日だし…二人っきりだから…。いつもできない事したいなと思って…。ダメだった?」
詩織がシュンとしながら俺を見上げてきて、俺はそのまん丸な瞳に胸を打ち抜かれてダメだなんて言えなくなる。
「そんなわけないだろ!?詩織が嬉しいなら…、別にかまわねーよ…。」
俺は恥ずかしくなって顔を背けて返すと詩織が嬉しそうに「良かった」と笑った。
くっそ!可愛いな!!
もう今日だけで詩織の好きな姿が十倍ぐらい膨れ上がった感じだ
どんな詩織を見ても全然飽きないし、むしろどんどん好きのボルテージが上がってる。
俺は指が詩織に触りたくなって勝手に動き出して、ダメだと言い聞かせて理性で押さえつける。
すると詩織がウトウトし出していて、必死に目を擦って寝るのを我慢しているのが視界に入って声をかけた。
「詩織、眠い?」
「ううん…。眠くないよ。ここで寝たらもったいないし…。」
…??もったいない?
詩織は明らかに眠そうに半目になっていて、俺はもったいないという言葉が引っかかって尋ねた。
「もったいないって…なんで?」
「…だって…。寝ちゃったら井坂君の顔、見れない…。」
………へ?
俺の顔が見てたいから、寝たくないってこと…か?
俺はそう解釈すると、必死に起きてようとする詩織が可愛くて仕方なくて、我慢していた理性の壁が壊れた。
目を擦ってる詩織の手を握って、詩織の顔が見えるようにすると、俺はぐっと顔を近づけて詩織に口付けた。
最初は甘く優しく、次には深く濃厚に…
「…んっ…!!…いっ、さかくんっ……。」
「拓海。」
俺は詩織の喘ぎ声から出た言葉に口を離すと、ビシッと告げた。
詩織はきょとんとして俺を見つめてくる。
「俺の名前は拓海。井坂は禁止!!」
「え…。で、でも…。」
俺は少し困った顔をする詩織に苛立って、そろそろ井坂呼びを卒業してもらわないとと思った。
「はい、言って。」
詩織はキスしてるときよりも真っ赤になると、「た、た…。」と余程言いにくいのか中々呼べない。
なんで寺崎僚介のことは普通に呼べるのに、俺はダメなんだよ。
名前呼びと名字呼びの境界線はどこなんだ!?
俺はイライラしながら言ってくれるのを待つ。
「た……、拓海君…。」
詩織がやっと小さな声で言って、俺は寺崎僚介より上にいきたかったので更に難題を突き付けた。
「君はいらない。拓海って言って。」
「え!?それは…その…今?」
「決まってるだろ。今。」
詩織は俺の要望にどうしようと見て分かるほどに困り出して、俺はふぅとため息をつくと助け舟を出すことにした。
「じゃあ、俺に続けて言って。はい、拓海。」
「え!?た…た、…たく…~~~~っ!!」
「もう一回!はい、拓海!」
「た、た、た、…たく…たく…~~~無理…。」
「諦めない!!はい、拓海!」
俺は顔を背けようとする詩織の顔を両手で押さえつけると、諦めずに言い続けた。
すると詩織がやっと意を決したように「たくみ!」と口にした。
やった!!
俺は思いの外詩織の声で言われる自分の名前にときめいて、頬が緩むと「詩織。」と名前を呼んでから優しく口付けた。
すると、詩織の中で何か吹っ切れるスイッチでも入ったのか、詩織が口が離れるのと同時に「拓海。」とうっとりする声音で呼んできて、俺はそれにビックリして胸が高鳴った。
「拓海…。」
詩織がそう甘く俺を呼んで俺に自ら口付けてきて、俺はこれで詩織に手を出さなかったら男じゃないだろ!!と詩織に攻め返して言った。
「詩織、もう一緒に寝る?」
俺がそう誘うと、詩織はとろんとした目で見つめ返してきて、小さく頷いた。
俺はそんな顔に挑発されて、自分の部屋に戻る前に詩織に手を出してしまったのは言うまでもないだろう。
そう、俺は最後には試練に打ち勝てなかったのだ…
積極的な詩織が顔を出した回でした。
次で誕生日は終わりになります。




