127、甘えられる
井坂視点です。
俺の嫉妬から始まったちょっとした意地悪がエスカレートして、詩織の気持ちを離す結果にならなくて俺は心底ほっとした。
俺は本当に嫉妬深い奴だから、今後も気をつけなければならない。
俺はふんっと鼻息荒く肝に銘じた。
でも意地悪したからこその詩織の新しい一面が見れて、ぶっちゃけすごく楽しかった。
俺がちょこっと仲良く女子と話しただけで、ムスッとしながらこっちを見つめて、我慢できなくなったら二人になりたいなんて可愛い顔でおねだりしてくる。
詩織のヤキモチ妬きな一面に俺はやられてしまって、またやってしまいそうになるぐらいの快感だった。
詩織に嫌われたくないから、絶対にしないけど。
それに今回のことで良い結果をもたらしたものもあった。
詩織が俺が触ることに対して、そこまで嫌がってないと分かったことだ。
それどころか詩織がほんの少し甘えてくるようになった。
「充電。」なんて言いながらくっつかれたときには、鼻血が出そうなぐらいのぼせ上がった。
詩織の一挙一動に俺は振り回されっぱなしだ。
まぁ、俺も詩織を触りまくったりすると、詩織も真っ赤な顔で感じてくれるみたいだしお相子だけど。
そして今日も俺は詩織を前に抱きかかえながら、ベランダに座って詩織との甘い時間を堪能していた。
「明日のマラソン大会嫌だなぁ…。」
「え、詩織、長距離苦手だっけ?」
「苦手ってわけじゃないけど…。走るのは足が遅いから嫌なの。」
そういえば体育祭も走る競技はなるべく避けて参加してたっけ…
詩織はムスッとふくれっ面で「マラソン大会なんかなくなればいいのに…。」とぼやいていて、それがすごく可愛い。
俺は詩織を励まそうとギュッと抱きしめてる腕に力を入れて、詩織の耳元で言った。
「俺、先にゴールして詩織のことゴールで待ってる。だから、最後まで諦めずに走ってきてよ。」
「……でも、私、足遅いから…待ちくたびれちゃうかも…。」
「平気。俺、詩織のこと待つの好きみたいだから。」
「何それ?」
詩織は少し気持ちが前向きになったのかクスクスと笑い出す。
「ゴールしたら、俺が一番にギュッて抱き締めるよ。それだけでやる気でない?」
俺が詩織の笑顔を見てたくてからかうように言ったのだが、詩織は真に受けたのか一気に顔を真っ赤にさせて焦り出した。
「ひっ、人がいっぱいいるところでそんなことできないよっ!!か、仮にも学校行事なのに…。」
詩織はソワソワしながら慌てていて、俺は照れてるときの反応だと分かっておかしくなった。
「あははっ!!分かったよ。じゃあ、人目のないところで。」
詩織は笑ってる俺を見て、ふと表情を和らげると「それならいっか。」と一緒に笑い出した。
俺はこうして笑いながら話できる休み時間が幸せで、詩織が何度かくしゃみをして肩を震わせている事にこのときは気づかなかったのだった。
***
マラソン大会当日―――
俺らの通う大浦川高校のマラソンコースは高校の傍を流れる大浦川沿いをひたすら走って、途中で住宅街の中に入り、神社のある神蔵山の中腹まで走る。
そして、女子はそこで折り返し、俺たち男子は更に上の方まで行き折り返すというものだ。
距離の短い女子が先にスタートして、詩織が「頑張るね。」と言って笑顔で走っていった。
そして俺たちはその10分後にスタート。
俺は騒がしい赤井や島田、北野と最初は並んで走っていたけど、早く詩織に追いつきたくてペースを上げた。
「井坂っ!!一人だけ前に出んな!!」
後ろから赤井が文句を言ってきたけど、俺は構わずにペースを上げて走る。
大浦川沿いの道を半ばぐらい過ぎたところで女子の背がちらほら見え始めて、俺は一人一人詩織じゃないか確認していった。
でも、詩織は川沿いにはいなくて、遅いと言ってた割にはペースが速いんじゃないだろうかと思った。
そして神蔵山に入ってしばらくしたところで、ノロノロと前を歩くように走る詩織の背中を見つけて、俺は胸が高鳴って声を上げた。
「詩織!!」
詩織は真っ赤な顔で苦しそうに呼吸しながらも笑顔を見せて振り返ってきた。
「井坂君…。速いね…。はぁっ…ビックリしたよ…。」
「俺もビックリだよ。詩織、遅いって言ってたのに速くねぇ?」
「うん…。ゴールで井坂君待ってるって思ったら、いつもよりペース上がって…。でもこの坂はさすがに無理だった…。」
詩織は言い終えるとゴホゴホッと激しく咳き込んでいて、相当ペースを上げたことが見て取れた。
俺は自分が待ってると言ったことで無理させたんじゃないだろうか…と心配になり、詩織の背中をさすった。
「詩織。無理するなよ?俺はどんだけ待ってもいいんだからさ。」
「うん。分かってるよ。それより、私のペースに合わせちゃもったいないよ。先に行って。」
詩織は俺の背をポンと軽く押してきて、俺はこのままいたら気を遣わせそうだったので、言われた通り先に行くことにした。
「じゃ、先行くな?くれぐれも無理はすんなよ?」
「うん。」
詩織は最後まで笑顔を見せていて、俺はそんな健気な詩織に力をもらってペースを上げて走った。
でも坂なので、そこまでスピードは上がらなかったが、女子はことごとく歩きに切り替わっていて、どんどん抜かしていく。
途中で八牧や千葉さんと同じクラスの女子を抜かし、さすがに現役体育会系女子の小波や新木たちは女子の折り返し地点付近で追いついた。
そのときの小波の「おっ先~!」というドヤ顔がやけに腹が立った。
くっそ!!あっという間に追いついてやる!!
俺は残りの上りを全力で駆け上がると、男子の折り返し地点で藤ちゃんに「9組じゃ一番だぞー!」と教えてもらい坂を足を痛めないペースで駆け下りた。
そのとき、女子の折り返し地点にいた赤井たちと出会い「お先。」と声をかけて立ち去ろうとしたら、赤井が焦って俺の腕を掴んで引き留めてきた。
「井坂!!待て待て!!」
「ちょっ!!何だよ!転ぶだろ!?」
俺は勢いがついていたのでつんのめりながら立ち止まると、赤井や島田が青い顔をして言った。
「さっき、谷地さんが上りで倒れ込んでて!!」
「そう!!すっげー呼吸が苦しそうで、汗の量もすごくてさ。何人かの先生に付き添われて車に乗って、学校に戻っていったんだよ!!」
「――――は!?」
俺は赤井達の言ってることに理解が遅れて、喉に声がつまった。
え!?え、え!?詩織って…さっきはまだ元気そうに…!!
赤井や島田は「大丈夫なのかな。」と言って焦ってるようで、俺はそんな様子から本当にあったことなんだとやっとのみ込めて、走るのを再開した。
ウソだろ!?倒れたって…!!!!
俺が心臓がバクバクと不安で大きく鳴り始めていたら、後ろから「慌ててこけるなよー!」と赤井の注意する声が聞こえた。
でも、そんな注意も気にせずに走ったので、下りの途中で足がもつれて思いっきり勢いのままに転げ落ちた。
「いっ―――!!!!っつ~~~!!」
俺はあまりにも派手に転び、腕から足から痛みと一緒に皮がずるむけ、血が滲んできた。
見てるだけで顔をしかめそうだったけど、とりあえず立ち上がると痛む足を気にしないように走りを再開させる。
詩織のところへ一分一秒でも早く帰れるように…
それだけを考えて我武者羅にペースも考えずに、足を動かせ続けた。
そのせいかもあってか、俺は総合11位という順位でゴールし、先生から手渡されるスポーツドリンクを無視して保健室へと直行した。
靴箱で自分の靴を直しもせずに校舎に駆け込むと、つるつるの廊下に滑りそうになりながら走って保健室の扉を激しく開け放った。
「詩織!!」
俺が息も絶え絶えに大きく呼吸して保健室の中に目を向けると、保健室の北条先生がビックリして目を丸くさせてこっちを見ていた。
そして俺と目が合うなり、表情を崩して「やっぱりね。」なんて言って笑われてしまった。
「谷地さんでしょ?井坂君。」
「は、はい!!坂で倒れたって聞いて…。」
「えぇ。運ばれてきたときは苦しそうだったけど、今は大丈夫。」
「そうですか…。」
俺はほっとして上がっていた息が落ち着いた。
それと同時にマラソン直後の倦怠感が襲ってきて、その場に座り込んでしまいそうになる。
「様子を見てってと言いたいところだけど、手当てが先ね。」
「あ…。」
俺は自分が派手に転んだことを思い出して、自分の腕や足を見てうわ…と目を逸らしたくなった。
「そこの水道でまず洗い流してくれる?そのあとこっちに来て。手当てしてあげるから。」
「あ、はい。」
俺は言われた通りに水道で腕と足を綺麗に水で洗い流し、沁みることに顔をしかめながら、よく走り切ったな…と自分の底力に感心した。
詩織のことで頭がいっぱいで痛みなんか吹き飛んでたな…
「はい。じゃ、ここ座って。」
「はい。」
俺が北条先生の前の椅子に座ると同時ぐらいに、また保健室の扉が開いて怒った顔の体育教師が現れた。
「井坂!!マラソン後に水分補給もせずに何してる!!あんだけ授業で言ってるのに、この馬鹿者が!!」
体育教師のヤクザのように強面の男性教諭が怒って、俺の頭を手に持っていたスポーツドリンクのペットボトルで叩いてきた。
「先生。そこまで怒らないであげてください。派手に転んだみたいで、手足が血みどろだったんですよ?」
「はい?血みどろって…、そうなのか?井坂。」
体育教諭は俺にスポーツドリンクを飲むように手渡してきて、俺はそれを受け取りながら「はい。」と返事する。
「まぁ…、そういうことなら仕方ないか…。でも、あそこまで無視してまっすぐここに来ることはなかろう?」
「あら…無視してここまで来たの?」
俺は体育教諭と北条先生の二人に見つめられて居心地が悪くなり、スポーツドリンクを飲むことで躱した。
北条先生だけは俺の心情を分かってるのか「ふふっ…微笑ましいわね。」なんて言っていて、照れ臭くなる。
「あ、そういえば。谷地の様子はどうですか?保護者の方には連絡がついたのですが…。」
「はい。もう薬も飲んで落ち着いてるので、迎えに来られたら帰れると思いますよ。」
「…薬??」
俺がどういうことか分からずに口にすると、北条先生がニコッと笑って教えてくれた。
「谷地さん、風邪をひいてたみたいなの。だから、呼吸に影響が出て苦しかったみたい。今は風邪薬を飲んで寝てるから大丈夫だけどね。」
「風邪…。」
そういえば昨日も咳やくしゃみをしてたな…と思い返して、気づけば良かったと後悔した。
そうして暗くなってると北条先生が手当を終えたのか、俺の膝をパンっと叩いてきた。
「はい、終わり。じゃあ、保護者の方に説明に行きますね。先生、また電話繋いでもらっていいですか?」
「あ、はい。分かりました。保護者の方も迎えに来ると言われてたので、ケータイ番号をお聞きしています。」
北条先生は体育教諭と一緒に保健室を出ていって、俺は一人保健室に残されてしまった。
これは…詩織の様子を見てもいいって事だよな…?
俺はカーテンに仕切られたスペースを覗き込むと、詩織がベッドの上で少し頬を赤くして眠っている姿を眺めた。
表情は健やかそうで、先生の言う通り大丈夫なんだと感じて安心する。
俺がゴールで待ってるなんて言ったから無理したのかな…
俺は眠る詩織に手を伸ばすと、そっと赤い頬に触れてみた。
頬は熱くて、風邪のせいで熱が出てるんだと思って、冷えピタがないかと保健室を見回したときに「井坂君?」と声がして、詩織に目を戻した。
「詩織?大丈夫か?」
俺がうっすらと目を開けている詩織を覗き込むと、詩織は布団から手を出して目を擦ってからぼーっとした顔で口を開いた。
「…私…、なんでここ…。」
「あ、もしかして運ばれたの覚えてない?坂で倒れたって聞いたんだ。」
「坂…、そういえば…目の前がぼやけて…苦しかったかも…。」
詩織は熱で朦朧としているのか、声にいつもの元気がなくて今にも消えてしまいそうだった。
俺はそれに胸がギュッと苦しくなりながら、詩織の手を握って笑顔で言った。
「ごめんな。俺が待ってるとか言ったから…無理したんだよな…。」
「ううん…。私…無理なんかしてないよ…。ゴールに井坂君がいてくれるって言ったのは…楽しみだったけど…。でも…それも見れなくなっちゃったなぁ…。」
詩織が残念そうに笑ったので、俺は励まそうと声をかけた。
「まだ他にも行事あるし、そのときにとっとこう。な?あ、頭痛くないか?飲み物欲しいなら持ってくるし、俺にしてほしい事なら何でも言ってくれよ!」
俺はいつもの元気な笑顔が見たくて、変に明るく振る舞った。
詩織はそれを分かってか、ふっと笑顔を浮かべると「じゃあ、手握ってて?」と可愛い顔でおねだりされて胸が撃ち抜かれて苦しくなった。
「あ、あぁ!!それぐらいずっとしててやるよ!!」
「ふふっ、嬉しいなぁ…。」
「他にはないのか?俺、できることなら何でもやるよ!!」
俺は弱ってる詩織が可愛くて、何でもしてあげたかった。
手をギュッと握りしめてるだけで、俺の頬が熱くなってくる。
「じゃあ…おでこに…キスして?」
「へっ…!?」
俺が詩織から出たとはおもえないおねだりに目を丸くしていると、詩織が「ダメ?」と首を傾げて俺は心臓が壊れるかと思うほど大きく高鳴り始めた。
「だっ、だだダメじゃないけど…!!」
「ホント?えへへっ、嬉しい。」
えへへって!!子供みたいに可愛いんだけど!!!!!
俺は詩織が嬉しそうに目を閉じるを見て、おでこに手をやると前髪をはらいのけてから軽くキスした。
詩織のおでこは熱で熱くて、俺は口を離したあとに誰にも見られてないか周りをチェックした。
「こ、これでいいよな?」
「うん。ありがとう。」
俺が誰にも見られてない事にホッとしながら言うと、詩織は嬉しそうに笑ってから繋いでない方の手を前に出して言った。
「ねぇ、ギュッてして?」
「へぁっ!?」
今度は熱で潤んだ目で見つめられておねだりされ、俺はビックリし過ぎて鼻血が出そうだった。
熱出してる詩織ってこんなに大胆なのか!?
俺は「お願い。」とおねだりを続ける詩織を見つめて、断る事もできないので繋いでた手を放すと詩織の体を起こしてから、詩織の体を隠すようにギュッと抱きしめた。
すると詩織も力は弱かったけど抱きしめ返してくれる。
やっぱり体熱いな…
俺は熱が出てるせいか、いつもより詩織が弱々しく感じて優しく力を入れる。
「井坂君の匂い…。」
詩織が嬉しそうに呟いて、俺はマラソン後で臭くないか気になって焦った。
でも詩織は「幸せー…。」と言いながら寝息を立て始めて、俺は眠ってくれたことにホッとした。
詩織って熱出すとこんなに変わるんだなぁ…
甘えてくるっていうか…可愛すぎて家で看病したくなるな…
俺は詩織を家で看病する妄想をして、顔がにやけ出したが、詩織をこのままにはできないので寝かそうと詩織の肩に手をかけた。
そこで俺は異変に気づいてサーっと血の気が引いた。
ウソだろ!?詩織の手が離れないんだけど!!!
俺は詩織の腕がガッチリ俺にくっついていて、外れない事に焦った。
詩織は爆睡していて、起きる気配もなく、俺は一人身を捩りながら引き離そうと奮闘した。
そのときガラッと不吉な音がして、北条先生と聞き覚えのある女性の声がして身が縮み上がった。
やっばい!!!詩織!!離れろー!!!!
俺は手に汗を握りながら詩織を起こそうと揺するが、それで目を覚ますわけもなく、北条先生と詩織のお母さんに現場を目撃されてしまった。
「い、…井坂君。」
「………井坂君。何やってるの?」
「すっ!!すみません!!これには訳があって!!!!」
俺が目を丸くさせてる詩織のお母さんと、呆れかえってる北条先生に懇願するように謝ると、詩織のお母さんが寝ている詩織に目を向けて、はぁ…と大きくため息をつくのが見えた。
うわわ…ヤバい!!これ、俺が襲ったとか思われたら…詩織と付き合えなくなったりするんじゃ…!!
俺が不安でサーっと青くなっていたのだけど、お母さんは俺の心配を飛び越える事を口にした。
「もしかして、詩織におねだりされた?井坂君。」
「え……??…。っと……はい。」
俺は怒ってる様子もないお母さんを見て目を瞬かせた。
お母さんは飽きれた様に笑うと話してくれる。
「詩織ね、風邪ひいて熱出したときだけ、あれして、これしてっておねだりして甘えてくるの。いつもは姉として気を張ってる反動なのかもしれないけど、病気のときには思いっきり甘えてもいいって思ってこうなるのよ。おかしいでしょ?」
「あ…、そうなんですか…。」
俺はお母さんに理解があったことにホッとすると同時に、緊張から抜け出せて脱力した。
なんだ…焦った…
俺がふうと一息ついていると、お母さんが詩織に声をかけて起こして、詩織は顔を歪めるとゆっくり目を開けた。
「詩織、井坂君を放しなさい。家に帰るわよ。」
「あれ…お母さん…。」
詩織は気が付いて俺から離れると、ぼけっとしながら目を擦っている。
そんな仕草まで可愛いな…なんて思って見ていると、詩織が今度はお母さんに手を伸ばした。
「お母さん…だっこ…。」
ええっ!?だっこ!?
「詩織、あなたいくつだと思ってるの?自分で立って歩けるでしょ?」
俺が目を剥いて驚いていると、詩織はぶすっと頬をふくらまして「けちー。」なんて言っている。
俺はこんな可愛い詩織をほうっておけなくて、思わず立ち上がってお母さんに話しかけた。
「あっ、あの!!俺で良かったら…その、だ……だっこして運びますけど…。」
俺は言ってみたものの恥ずかしくて俯いてしまう。
詩織のお母さんはしばらく返事をしなかったけど、ふふっと笑う声が聞こえて俺はおそるおそる顔を上げた。
そのときお母さんの楽しそうに笑う姿が見えて、俺はなんで笑われてるのか分からずにじっとその様子を見つめた。
「うふふっ、笑ってごめんなさいね。想像してた以上に二人が仲が良いみたいで、ちょっと面食らっちゃって…。」
「はぁ…。」
「でも、それはお断りするわね。今日は車で来たわけじゃないのよ。だから、家まで運んでもらうわけにはいかないし、詩織には歩いてもらわないと。」
俺は家までだって運びますと言いかけて口を噤んだ。
マラソンで疲れた体で詩織を家まで運べるか自信がなかったからだ。
すると、今まで様子を見ていた北条先生が横から口を挟んで来た。
「あの、もしよろしければお車出しますけど。どうですか?」
「え?本当ですか?それなら、とても助かりますけど、先生お忙しくないんですか?」
「今なら生徒たちも全然帰ってきてないでしょうし大丈夫ですよ。お家はそう遠くないですよね?」
「はい。北町の辺りなので、歩いても15分程です。」
「それなら余裕ですよ。お送りします。」
北条先生はお母さんとの話を終えると、俺に目を向けてビシッと指さしてきて、俺は自然と姿勢を正して先生を見つめた。
「井坂君。車まで谷地さんを運んであげなさい。彼氏なんだから、できるでしょ?」
「え…はい。もちろんです。」
俺がお母さんの反応が気になって視線をお母さんに向けると、お母さんは優しい顔で微笑んで「それじゃ、お願いするわね。」と言った。
俺は詩織を運べることに内心喜びながら、詩織に目を向けると詩織が俺に手を伸ばしてきた。
俺はまた子供みたいな詩織に胸がドキドキと高鳴っていたけど、お母さんや先生の前なので平静を装って詩織を抱き上げた。
詩織は俺の首に手を回すと、ギュッとくっついて頬ずりしてきて照れてしまう。
うわわ…顔に出したくないのにニヤケる…!!
俺はポーカーフェスが保てなくて、頬がピクピクして不自然な表情になってしまう。
それを見透かされているのか、北条先生とお母さんに顔を見合わせて笑われてしまって、恥ずかしくて仕方ない。
そして北条先生の後に続きながら、詩織のお母さんと並んで廊下を歩いていると、詩織のお母さんが俺を横目に見て話しかけてきた。
「ごめんなさいね。重たくない?」
「あ、いえ。全然平気です。」
「さすが男の子ね。頼りになるわ。井坂君が詩織の彼氏で良かった。」
俺は詩織のお母さんに褒められて照れて頬が熱くなる。
「詩織が誰かにこんなに甘えるなんて珍しいのよ?それも家族以外に。やっぱり井坂君は特別なのね~。」
「特別…ですか?」
「えぇ。詩織は厳しくしつけ過ぎたせいか、誰かに頼るってことをあまりしなくてね。こうして誰かにベッタリくっつくなんて、小学生以来見たことないの。それだけ井坂君に心許してるんだって感じて、私も嬉しい。本当にありがとう。」
詩織のお母さんは本当に嬉しそうに笑いながら頭を下げてきて、俺は自分が詩織の特別になれてることに胸の奥がくすぐったかった。
詩織は照れ屋で恥ずかしがり屋だから、あまり俺に対することを口にしたり行動に出したりしない。
そこが不安になったりもするんだけど、ちゃんと俺には心を許してくれてるってことが分かって、本当に嬉しかった。
だから俺の方こそ教えてくれたお母さんにお礼を言いたくて、心の中で「ありがとうございます。」と呟いたのだった。
マラソン大会編でした。
そろそろ二年生も終わりに向かいます。




