消せない温もり 〜隠れ魔法使いと執念の騎士〜
井戸水で綺麗に洗った薬草を包丁で刻み、乳鉢に移して丁寧にすり潰していく。
最初の頃は少し苦手だった青臭い匂いにも、もうすっかり慣れた。
街の診療所の、小さな調剤室。
人前に出なくても済むこの場所が、今の私の仕事場だ。
出来上がった湿布薬を保存用の容器に移そうと棚に手を伸ばすと、ちょうどドアからノックの音がした。
「リネット、次の湿布薬は出来ているかい?」
「はい、クルーガー先生。
今ちょうど出来たところです」
「それは良かった。
腰痛の患者が来たから、そのままもらっていくよ」
「はい、どうぞ」
この診療所の医師で、私の雇い主でもあるクルーガー先生に乳鉢のまま薬を渡す。
先生が調剤室から出ていくのを見送り、私はまた次の薬に取り掛かった。
私の名はリネット。
地味な茶色の髪に、目立たない茶色の瞳をした、どこにでもいる平凡な十九歳の娘だ。
……表向きは、クルーガー先生のもとで働く助手ということになっている。
だが本当の私は、今の世の中では稀少となった魔法使いだ。
特に治癒魔法に秀でており、怪我だけでなく内臓の疾患や毒素までを取り除き、命を繋ぎとめることができる。
加えて、人の意識や記憶に働きかける精神系の魔法もいくらか扱うことができた。
かつての私は、その力を目につけた強欲な貴族によって屋敷の地下室に監禁され、その貴族の健康を保つために力を搾取され続けていた。
昼も夜もなく魔法を強制され、死を待つばかりだった私だが、ある嵐の夜、奇跡的に隙をついて屋敷から逃げ出すことができた。
地下室暮らしですっかり萎えた足で必死に歩き続け、何とか隣領へとたどり着いたものの、食べるものもなく疲れ果て、ついには道端で起き上がれなくなってしまった。
そんな私を拾い、事情を知った上で助手として匿ってくれたのが、この街の名医であるクルーガー先生だった。
(この魔法の力を人に知られたら、また閉じ込められるかもしれないから、魔法使いであることは隠さなければいけない。
でも……目の前で苦しんでいる人を、見捨てることもできない)
だから私は先生の助手として働きながら、命に関わる重症の患者にだけ、先生の診療の裏で密かに魔法を使って回復を手助けしていた。
──────
――そんなふうにして日常を過ごしていたある日。
クルーガー先生の元に、この領地を治めるアルノー侯爵家の三男、ルシアン様が倒れたという報せが届いた。
原因は『影腐病』。
本来ならば幼い子どもしか罹患せず、大人がかかれば命を落とすと言われる難病だった。
クルーガー先生のお供として侯爵家へ足を踏み入れた私は、ベッドに横たわるルシアン様を見て息をのんだ。
プラチナブロンドの眩い髪に、彫刻のように整った鼻梁。
騎士として鍛え上げられたしなやかな体躯を持つ彼は、誰もが見惚れるほどの美貌の持ち主だった。
けれど今は高熱にうなされ、濡れた切れ長の琥珀色の瞳は光を失い、青白い唇から荒い吐息を漏らしている。
(……このままじゃ、この人は死んでしまう)
私はすぐに、ルシアン様に治癒魔法を使うことを決めた。
正直に言えば、私を地下室に閉じ込めたのと同じ貴族に関わり、治療魔法を使うのは怖いと思う。
それでも、この地を治める侯爵様の評判はあの貴族とは違って良いようだし、なによりもこんなに苦しんでいる人を目の前にして何もせずに放っておくことはできなかった。
診療所に戻った後、クルーガー先生とも相談して、侯爵家の人たちには先生が治療しているように見せかけつつ、私が治癒魔法を使うことになった。
一度に治せば、魔法の存在が露呈してしまう。
私は毎日のように侯爵家へ通い、熱に苦しむ彼の手をそっと握り、少しずつ治癒魔法を流し込んだ。
そして――魔法の発覚を防ぐため、私は彼や屋敷の人々へ密かに精神魔法を施した。
私の姿や存在が、誰の記憶にも残らないようにする、隠蔽の魔法。
これを使えば、たとえ毎日のように侯爵家に通って治療魔法を使っても、彼らの記憶からは私の存在が消え去り、「先生の薬で治った」と信じ込むはずだった。
ある時は先生の診察にさりげなくついて行き、またある時は夜中にこっそりと屋敷に忍び込み、私はルシアン様に繰り返し治療魔法をかけ続けた。
────────
月明かりだけが差し込む、静まり返った深夜の寝室。
私は気配を殺して侯爵家に潜入し、ルシアン様のベッド脇にそっと佇んでいた。
「く……っ、あ……」
浅い呼吸とともに、苦しげなうめき声が漏れる。
高熱と全身を巡る劇痛に苛まれ、ルシアン様は眉間に深いシワを寄せて身悶えていた。
私は彼の青白い手にそっと自分の手を重ね、指を絡ませた。
手に魔力を集め、慎重に治癒魔法を流し込んでいく。
「ん……」
やがて荒かった息遣いが少しずつ落ち着き、琥珀色の瞳が薄っすらと開いた。
ぼやけた視界で私を見つめ、掠れた声で囁く。
「……ありがとう。
……少し、楽に、なった……」
「ルシアン様、お話しになっては体力が削られます。
どうかお静かに……」
「……なあ。
私は、いつまで……こうしていなければならないのだろな……」
ぽつりとこぼれ落ちたのは、弱々しい吐息のような言葉だった。
「痛くて……苦しくて……仕方がないのだ。
こんな身体では、もう二度と剣も握れまい。
……子どもしかかからぬ病に倒れ、家族にも余計な心配と迷惑ばかりかけて……情けない。
……どうせ治らぬのなら、いっそ早く死んでしまいたい……」
普段は誇り高き騎士として振る舞う彼が、弱音を吐き、自暴自棄になっている。
その様子は痛々しく、胸が押し潰されるように痛む。
私は彼の手をギュッと強く握り返した。
「そんなことを言わないでください!
……あなたのご家族も、お屋敷の人たちも、誰もあなたを迷惑だなんて思っていません。
みんな、あなたがまた笑って元気になる日を、心から待っているんです」
私の必死な声に、ルシアン様は少しだけ驚いたように目を見開いた。
そして、熱で濡れた瞳に力なく、けれどどこか愛おしそうな光を宿し、弱々しい微笑みを浮かべる。
「……そうか。
……お前は、優しいな。
……ありがとう……」
彼の表情が和らぐのを見届けてから、私はもう片方の手を彼の額にそっと置いた。
本当は彼が眠っている間に治療してしまいたいけれど、どうしても時々はこうやって姿を見られ、言葉を交わしてしまう。
治療魔法だけでなく、言葉で励ますことも、この人の病を治すための力になることはわかってはいるけれど、それでも私のことを彼の記憶の中に残すことはできない。
(――忘れてください。
私のことも、今の会話も……)
胸を刺すような痛みを堪えながら、私は彼に精神魔法を施した。
スーッと瞳の光が揺らぎ、ルシアン様は穏やかな寝息を立てて深い眠りへと落ちていく。
彼が眠りについたのを確かめてから、そっとドアを開けて誰もいない夜の廊下へ抜け出した。
壁に背を預けると、途端に大きな寂しさが胸に押し寄せてくる。
(……これでいいの。
私が誰かなんて、覚えていなくていい……)
明日になれば、彼は今の温かなやり取りも、私の言葉もすべて忘れてしまう。
それが自分でかけた魔法の結果だとわかっていても、どうしようもなく胸が苦しかった。
────────
そうして、数ヶ月にわたる治療の末、ルシアン様は奇跡的に完治した。
完全に健康を取り戻した彼は再び騎士団へと戻り、街は「奇跡の医師」の噂で持ちきりとなった。
私は約束通り影に徹し、再び静かな助手の生活へと戻った――はずだった。
────────
病が癒えてから一ヶ月後。
ルシアン様が恩人であるクルーガー先生に礼を言うため、診療所を訪れた。
調剤室で作業をしていた私は、診察室から聞こえてくる彼の声に手を止めた。
「クルーガー先生、改めて礼を言わせてほしい。
私の命を救ってくれたのは、あなただ」
「滅相もございません、ルシアン様。
私はただ、できる限りの手を尽くしたまでに過ぎません」
かつて病に侵されていた頃の弱々しさが嘘のように、張りのある澄んだ声を聞き、胸が温かくなる。
だが、次にルシアン様が口にした言葉に、私は息を飲んだ。
「……先生。
実は、ひとつ尋ねたいことがあるのだ」
「なんでございましょう?」
「……うなされていた長い夜の間、ずっと私のそばに寄り添ってくれた女性がいたような気がするのだ」
言葉に詰まるルシアン様の声が聞こえる。
「顔も、名前も思い出せない。
思い出そうとすればするほど、その印象は薄れてしまう。
だが、誰かが私の手を握り、温かい光のようなもので私を包み込んでくれていた。
あの女性は侯爵家の者ではないと思う。
先生は、その女性に心当たりはないだろうか」
私は調剤室の陰で、エプロンを握りしめた。
精神魔法は完璧にかけたはずだ。
なのに……彼の記憶の底に、かすかな「感触」が残ってしまっているなんて。
クルーガー先生のおだやかな声が響いた。
「ルシアン様。
私はいつも一人であなた様の治療をしておりました。
そのような女性に、心当たりはありません」
「……そうか。
屋敷の者たちに聞いても『そんな者は知らない』と言うばかりだった。
……やはり、死にかけた私の見た都合のいい幻だったのだな」
「ええ、高熱による夢をご覧になっていたのでしょう」
先生は私の正体と魔法を守るため、そう言い切ってくれた。
それでいい。
私の精神魔法は完璧だったのだから、これ以上追及されることはないはず――。
ルシアン様が先生に別れを告げ、診察室のドアが開く音がした。
私は胸を撫で下ろし、作業に戻ろうとした。
――その時。
がちゃり、と調剤室のドアが開いた。
「――やはり、ここにいたのだな」
「……っ!?」
驚いて振り向くと、そこには診察室を後にしたはずのルシアン様が立っていた。
プラチナブロンドの髪が窓から差し込む陽光を浴びて輝き、彫刻のような顔立ちが、まっすぐに私を見つめている。
堂々とした騎士の佇まいに圧倒され、息が止まる。
「ル、ルシアン様……!?
どうしてここに……」
「クルーガー先生の目を盗んで、勝手口の方へ回らせてもらった」
彼はゆっくりと歩み寄り、私の目の前で足を止めた。
その琥珀色の瞳が、驚いて固まる私の顔を、手を、じっと検分するように見つめている。
「治療中の私に寄り添ってくれた女性はいなかった。
……先生の言う通りだ。
私の中に『誰が看病してくれたか』という記憶はまるでない。
まるで誰かに強烈な魔法で消されたかのように、ぽっかりと抜け落ちている」
「あ……」
「だがな、頭の記憶は消せても――身体の記憶まで消すことはできなかったようだぞ」
彼は私の右手を、そっと両手で包み込んだ。
その瞬間、彼の高い体温が伝わってきて、胸が激しく打ち跳ねる。
「顔も名前も思い出せない。
だが、この手の小ささ、薬草の匂い……そして何より、私が苦しむたびに私の心へと直接流れ込んできた、愛おしいほど温かい『魔法』の感覚だけは、どうしても消えなかった」
「どうして……私の精神魔法を、破れるはずが……」
呆然と呟いた私に、ルシアン様はふっと柔らかく、眩しいほどの笑みを浮かべた。
「お前の魔法が完璧だったからこそだ。
不自然なほど何も思い出せない記憶の暗闇の中で、その『温もり』だけが鮮明に輝いていた。
……私を救ってくれたのは、お前だな?」
言い逃れはできなかった。
彼のまっすぐで真剣な琥珀色の瞳に射抜かれ、私は小さく頷くことしかできない。
ルシアン様は私の手が小さく震えているのに気づくと、包み込む力を優しく強めた。
「怖がらなくていい。
理由があって隠れていたのだろう。
だが……私はどうしてもお礼が言いたかった。そして」
ルシアン様は少し頬を染めると、騎士として誇り高く、けれど心からの誠実さを込めて胸に手を当てた。
「記憶を消されてもなお、私の心が惹かれてやまなかった愛しい人へ、求婚をしたかったのだ。
どうか、お前がその求婚を受けるかどうか判断するために、私のことを知る機会を与えてはくれないだろうか。
そして、出来ることならば、私にもお前のことを教えて欲しい。
お前がどんな過去や秘密を抱えていようと、私のすべてをかけてお前を守ると誓う」
過去の恐怖に怯え、魔法で自分を消して生きてきた。
けれど、記憶を消されてもなお、私の存在を見つけてくれた人の温かさに、胸の奥の氷が溶けていくのが分かった。
「……記憶に残らないよう、あんなに魔法をかけたのに……ずるいです」
「ふっ、騎士の執念を舐めてもらっては困るな」
悪戯っぽく笑うルシアン様の笑顔に、私の目からポロポロと涙がこぼれ落ちた。
忘却の魔法ですら消せなかったのは、確かに私たちが紡いだ奇跡の証。
記憶の暗闇から私を見つけ出してくれた彼に、もう隠し事はいらない。
差し出された大きな手を、私は今度は自分の意思で、ギュッと握り返した。
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