歪んだ帝王
仲間との亀裂という試練を乗り越え、俺たちの心は、かつてないほど固く、一つになっていた。ギルド『物語の紡ぎ手』の談話室は、以前の活気を取り戻し、遺跡の謎の解読作業は、確かな希望の光に照らされていた。
「――おい、ユウキ! この紋様、やっぱり俺の故郷の伝承に出てくる『星喰らいの蛇』にそっくりだ!」「ボルガさんの故郷の言葉で読むと、この古文書の文章も、全く違う意味になります! こちらは、『蛇を鎮めるための、月の聖句』についての記述のようです!」
ボルガの荒々しいが的確な知識、リリアナの繊細な解読能力、そして、俺の配信者としての俯瞰的な分析力。バラバラだった三つの力が、一つの歯車として完璧に噛み合っていく。そして、ついに。俺たちは、Sランクへと繋がる「神話」の、最初の断片を解き明かすことに成功した。
『空が悲鳴を上げる時、偽りの王は影を纏いて帰還せん』
「……偽りの、王……?」
不吉な予言。だが、俺たちは、確かに神話への第一歩を記したのだ。その達成感に、俺たちが顔を見合わせ、固い握手を交わした、まさにその瞬間だった。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴッ!
突如として、世界そのものが、断末魔の悲鳴を上げたかのように、激しく揺れた。窓の外に広がる青空は、見る見るうちに血を流すかのように禍々しい紫色に染まり、王都の至る所から、人々の絶叫が上がり始める。
「な、なんだ!? 地震か!?」
ボルガが、咄嗟に身構える。だが、俺の視線は、ギルドの談話室の中央に鎮座する、あの石板へと釘付けになっていた。
――『遠見盤』。
キィィィィィィィン!
石板は、まるで拷問にかけられた鉄が叫ぶかのように甲高い音を発し、誰の操作もなしに、激しい光を放ち始めた。そして、その表面に映し出されたのは、あまりにも残酷な、地獄絵図だった。
*
『遠見盤』に映し出されたのは、辺境の、名もなき街が炎に包まれる光景だった。そして、その地獄の中心に、一人の男が立っていた。
「……ゼノン……」
リリアナが、息を呑む。だが、そこに立っていたのは、俺たちが知る『雷帝』ゼノンの姿ではなかった。神々しく輝いていたはずの白銀の鎧は、まるで絶望そのものを塗り固めたかのように、禍々しい漆黒に染まっている。その手に握られた聖剣から迸るのは、聖なる雷ではない。世界の理そのものを歪め、捻じ曲げるかのような、混沌とした闇の魔力。
彼は、かつての英雄の面影もなく、ただ、そこに立っていた。その顔に浮かんでいるのは、苦痛と、そして狂喜が入り混じった、見るもおぞましい笑み。彼は、街を、人々を、無差別に、まるで子供が玩具を壊すかのように、消し去っていく。もはや彼は、ただの破壊者と化していた。
「な……なんなんだよ、あれは……!」
ボルガが、戦慄に声を震わせる。俺は、言葉を失ったまま、視界の端で激しく点滅する《神々のインターフェイス》に視線を落とした。そこにはもう、いつものような、エンターテイメントを楽しむ神々のコメントは、どこにもなかった。
《名もなき神A》「やめろ……! やめてくれ、ゼノン!」《名もなき神F》「これは物語ではない! ただの虐殺だ!」《名もなき神B》「誰か! 誰か奴を止めてくれ! 俺たちの創り出した英雄が……!」
絶叫。恐怖。そして、後悔。俺のインターフェイスを埋め尽くすのは、もはやエンターテイメントへの熱狂ではない。自らが作り出した英雄が、制御不能の怪物と化したことへの、神々の、魂からの悲鳴だった。
*
神々の魂からの悲鳴が、俺のインターフェイスを埋め尽くした、その時だった。ブツン、と。世界から、音が消えた。『遠見盤』の映像が静止し、インターフェイスの絶叫が止まり、仲間たちの息遣いすらも、聞こえなくなる。そして、俺の魂に、直接、あの黄金の紋章が、絶対的な存在感を伴って浮かび上がった。
『ザ・ピラーズ』の一柱、調律神クロノスの、傲慢で、冷徹な声が、脳内に響き渡る。
『見よ、人の子。あれが、汝らの矮小な神々が生み出した「歪み」の末路だ』
クロノスは、多くを語らない。だが、その代わりに、俺の脳裏に一つの「映像」を、強制的に焼き付けた。武闘大会で敗北し、絶望に膝をつくゼノン。そこに、天からクロノスが降臨し、彼に禁断の力を与える契約の瞬間。そして、その力に精神を喰われ、苦しみと狂喜の中で、歪んだ帝王へと変貌していく、ゼノンの無残な姿。
神託は、続く。
『理は、理を以て正されねばならぬ。「歪み」は、「歪み」を以て消去せよ』
それは、あまりにも一方的な、世界の命運を賭けた「掃除」の命令だった。俺もまた、この世界の理から外れた「歪み」であり、その「歪み」をもって、ゼノンという「失敗作」を処理しろ、と。
*
クロノスの気配が、俺の魂から潮が引くように消え去っていく。絶対的な静寂がガラスのように砕け散り、世界に、混沌とした音がなだれ込んできた。
「――ユウキ! おい、しっかりしろ!」
ボルガの怒声で、俺は我に返った。リリアナも、血の気の引いた顔で俺の腕を掴んでいる。そうだ、俺は一人じゃない。目の前には、世界の真実も、神々の思惑も関係なく、ただ俺を信じ、共に立ってくれる仲間がいる。
俺は、悟った。エララへのリベンジ? Sランクへの挑戦? そんな矮小な目的は、もうどうでもいい。俺の目の前で、世界が燃えている。人々が、消えていく。ただ、それだけだ。歪んでしまった、かつての英雄を、この俺自身の手で、止めなければならない。それ以外の道は、どこにもない。
俺は、顔を上げた。「……行くぞ」
俺は、リリアナとボルガに、短く、しかし、これまでにないほど力強い声で告げた。
「ゼノンを、止めに行く」
その言葉に、二人は顔を見合わせる。だが、そこに、迷いや反対の言葉はなかった。仲間割れという、俺たちの物語で最も深い闇を乗り越えた三人の心は、今、完全に一つだった。言葉は、もはや不要だった。
「ハッ、面白え。それこそが、俺の求めていた戦いだ」
ボルガが、獰猛な笑みを浮かべる。
「はい。どこへでも、お供します」
リリアナが、絶対の信頼をその瞳に宿して、頷く。誰一人として、その無謀な挑戦に怯む者はいなかった。
俺は、混乱の極みにあるインターフェイスを一瞥する。そこには、もはや俺の行動を評価する神々のコメントはない。ただ、助けを求める、無数の魂の悲鳴だけが、意味をなさないノイズの奔流となって、画面を埋め尽くしていた。
(――ああ、そうか。これが、俺が本当にすべき配信か)
俺は、インターフェイスから静かに視線を外し、目の前にいる仲間たちに向き直った。
「調査は終わりだ。新しい『物語』を始めよう」
俺は、配信者として最高の、不敵な笑みを浮かべた。
「――世界を救う、英雄譚だ」
歪んだ帝王を止めるため、三人の英雄は、世界の悲鳴に応えるように、再び立ち上がった。




