第009話ー溶ける
黄昏はすでに去り、
あたりには人工的な灯りだけが残っていた。
駅へと続く歩道橋の上。
吹き抜ける風が、少し冷たい。
「最近、龍和くん……怪我、多くない?」
何気ない口調。
だが、その瞳には確かな観察があった。
「え? ああ……いや、別に……」
口ごもる。
視線を逸らす。
也厚と助理──しつこく、執拗な襲撃。
仕返しを恐れているのか、それともただの狂気か。
奴らは放課後を狙い、ほとんど“日課”のように襲ってきた。
そのたびに、俺は撃退してきた。
だが、無傷では済まない。
昨日は頬に擦り傷。今日は手首に軽い打撲。
「俺、鈍臭いんだよ。すぐぶつかったり転んだりして……はは」
苦し紛れの言い訳。
けれど──
「……へぇ」
短い返事。
彼女は、俺の嘘に気づいている。
だけど、問い詰めたりはしない。
ただ、風のように横に立ち続ける。
「ねぇ、龍和くんって……私と誰かを重ねて見てるでしょ」
「……え?」
不意を突かれ、反射的に顔を向けてしまった。
しまった。
その一瞬の目の動きだけで、すべてが読まれた。
「あれ、図星?」
にこりと笑う。
でも、その笑みにはどこか痛みも滲んでいた。
「私ね、なんとなく分かるんだ。
たぶん、友達とか元カノじゃない。
もっともっと、近くて、深い存在──だったんだと思う」
「どうして……そう思うんだ?」
返事を待たず、彼女は俺の顔を覗き込む。
「龍和くん、みんなのこと、ちょっと距離置いて見てるでしょ。
でも……私にだけ向ける目は違う。
優しい、あったかい目をしてるんだよ。
何かを思い出すような、見守るような──」
俺は、答えた。
「……猫だよ」
「え?」
「前に飼ってた猫。ハチタっていう。
……あんた、そいつにそっくりなんだ」
言ってから、自分でも可笑しくなった。
でも、行子は怒りも呆れもせず──
むしろ、くすくすと笑い出した。
「猫……ぷっ……きゃははは! そっかー、猫かぁ!」
「わ、笑いすぎ……っ」
「だって、あんまりにも予想外なんだもん……!
まさか私が猫に似てるなんて!」
「……ごめん、嫌だったか?」
「ううん、全然」
それは本当に心からの笑顔だった。
「むしろ、嬉しいよ。だって──」
彼女が、一歩、近づく。
今までの距離よりも、ぐっと近い。
「大切だったんだよね? その猫。
私が、そんなふうに見えてるなら……ちょっと、嬉しいかも」
「行子……?」
その時だった。
風が吹き、制服の裾が揺れ、
電灯の陰が二人を包んだ、その瞬間。
彼女の顔が、ぐっと近づいた。
唇が──俺の唇に、ふれた。
優しく、けれどためらいのない、重なり。
彼女の香りが鼻をくすぐる。
首筋が熱くなる。
ゆっくりと、唇を離す。
「……私、龍和くんみたいな面白い人、好き」
ぽそりと、囁くように。
心臓が、跳ねる。
「ゆ、行子……?」
「ふふっ、赤くなってる」
「なってない……たぶん」
「嘘。なってる」
彼女は、笑った。
くしゃっと、まるで猫のような笑顔だった。
◇
その夜。
俺は家で、膝を抱えながら、ひとり。
(……俺は、何をやってるんだろう)
復讐のために戻ってきたはずだった。
あいつらに、あの火事の真実を叩きつけてやるために。
許さない、絶対に。
でも、行子の笑顔が──あのキスが──
その“何か”を、少しずつ、崩していく。
これは、弱さか。
それとも、人間としての回復か。
答えはまだ、出ない。
ただ──明日も、会いたいと思ってしまった。