第007話ー青になる復讐心
土曜日の昼。
空は晴れ渡っていて、蝉が鳴くにはまだ早い季節の風が通る。
「ねえ、龍和くん」
スマホ越しに、メッセージが届いた。
以前、SNS系はやっていない言ったのに、しつこく聞いてくるから、仕方なくメールを教えたのだ。
案の定、一通ごとに料金の発生するメールだが、こうしてよく連絡してくる。
『明日、映画とか行かない?』
返事を打つ手が、一瞬止まった。
(……来たか)
昨日の帰り道。
妙に楽しそうだった行子の顔を思い出す。
隣で笑っていた。
とくに意味のない話。
空の色とか、課題が多すぎるって話とか、物理の問題集が学校指定でクソだとか――
それだけなのに、なぜか。
(あれが……“楽しかった”って感情だったのか)
心の中に、ぽつりと湧いた水たまりのような感覚。
怒りでも、憎しみでもない。
何も壊されていない。
ただ、そこにいていいと言われたような時間。
永和は、ふとスマホの画面を見つめ直した。
「……行くよ」
自分の指が、勝手に打ち込んでいた。
◇
日曜日。
待ち合わせ場所のショッピングモールは、人でにぎわっていた。
映画館の前。
行子は白いワンピースに、青いカーディガンという、季節に似合わぬ清楚な装いだった。
「わっ、龍和くん、来てくれてありがと!」
「いや、うん……その、誘ってくれて、ありがとう……だよ」
慣れない言い回しに、言葉がもつれる。
笑いそうになった自分を隠すように、口元を手で覆った。
「映画ってこれでいいかな? 爆発いっぱいのアクションだけど……」
「えー最高! 私そういうの大好き!」
明るく笑った行子の横顔に、また、あの既視感を覚える。
ハチタ。
猫の名前。
記憶のなかの鳴き声が、一瞬だけ耳をよぎった。
(……やめろ)
今日は復讐を忘れる日じゃない。
ただのカモフラージュ。
“村下龍和”を演じる日。
それだけだ。
……そう言い聞かせた。
◇
映画は楽しかった。
爆発と銃撃の応酬、空中戦、ドローンのカーチェイス。
途中で思わず笑ってしまいそうになるシーンが何度もあって、
隣で行子が「うわっ!」って小声で驚いた時、なぜか嬉しくなった。
(何してんだ、俺)
だって、いま。
心が――軽い。
誰にも家を燃やされていなくて、
誰にも憎まれていなくて、
数学以外のテストで赤点を取っていない、
そんな“普通の高校三年生”の気分だった。
……けど、それは幻想だ。
◇
映画の後、フードコートでパスタを食べながら、行子は言った。
「ねえ、龍和くんってさ。誰かに似てるなって、ずっと思ってたんだけど……やっぱり、違うんだよね」
「誰?」
「昔、同じ中学だった人。村上……永和くん、だったかな」
「……」
「たしか、いじめに遭ってたとか噂になって……ある日、急にいなくなった」
永和のフォークが止まる。
「……その人が、今も生きてて、どこかでやり直してるといいなって思ってるだけ」
笑って、サラダに手を伸ばす行子。
「なんでそんな話を?」
「ううん、なんとなく。……あのね、私、数学苦手なんだけどさ」
「うん?」
「この前、龍和くんが黒板に書いた解法。あれ、すごかった。たった数式一個で、全部解けちゃうなんて」
目が合う。
たしかに、ちゃんと見ていた。
永和だけを、見ていた。
(……ばか)
こんな子に、俺の過去なんて触れさせたくない。
この手は、もう汚れてる。
“楽しい”なんて感情を持っちゃいけない。
これは、罪だ。
けれど。
今日は、それでも良かったと思った。
◇
帰り道。
「また、行こっか。映画」
「……うん。いいよ」
夕暮れの街に、並んで歩く二人の影が伸びる。
その影の先に待っているのは、
復讐か、救いか。
まだ、誰にも分からない。