第003話ー気づく小心者
チャイムが鳴った。
一日の授業が終わり、教室にはいつもの喧騒が戻ってきていた。
椅子を引く音、筆箱を閉じる音、スマホを開く音。
青春という名の雑音が、窓の外に溶けていく。
「……よし」
村下龍和は、静かにペンをキャップで閉じ、ノートを鞄に入れた。
まるで儀式でもするかのように、丁寧な手つきで物を片付けていく。
周囲のざわめきには目もくれず、音も感情も、まるで聞こえていないかのように。
だが、彼の目だけは──鋭く、静かに、獲物を見ていた。
「よぉ」
その空気を壊すように、背後から軽い声がかけられた。
「転校生クン、何やってんの? もう帰り支度っすか?」
成田也厚だった。
小柄で、わしゃわしゃのくせ毛。
赤ちゃんみたいな丸い顔をしているくせに、口を開けば三秒で他人を不快にできる才能を持つ。
サッカー部所属とはいえ、運動神経も特別いいわけではなく、ただ“いじめの輪”の中でしか自己肯定を保てない人間。
永和がよく知っている──“自分が誰よりも苦手だったタイプ”。
也厚は龍和の机に肘をつき、ニヤニヤと笑っていた。
「なんかさ、真面目なんだねー村下クン。転校してきたばっかだしさ、緊張してる? それともアレ? こういうタイプ?」
ぺし、と教科書の表紙を指で叩いて、勝手にめくる。
無神経で無遠慮で、そして心の中では「どうせコイツもいじれる」と判断していた。
「……どいてくれる?」
龍和は、顔を上げた。
その目が、也厚の目を射抜いた。
「……っ」
一瞬、也厚の身体がびくりと反応した。
どこかで見たような、冷たい、暗い、底のない瞳。
まるで井戸の底を覗き込んでいるかのような感覚。
そこには、水も、光も、何もなかった。
「え、お前、なんだよ、その目……」
「……」
龍和は、何も言わなかった。
その沈黙が逆に、也厚の心にざらりとした違和感を残す。
「お前、さ……もしかして──」
その瞬間だった。
「きゃー! 村下くんっ!」
女子三人組が、ばたばたと駆け寄ってきた。
鞄を持ったまま、目を輝かせて。
「その、村下くんって、イソスタやってる? SNSの、ほら、写真とか投稿するやつ!」
「もし良かったら、アカウント交換しませんか!? フォローしたいなって!」
「わっ、私もっ!! あ、アイコンうさぎなんですけど、見つけやすいと思いますっ!」
突然の女子の猛攻に、也厚が一歩退いた。
「……ごめんね」
龍和は、ゆっくりと目を彼女たちに向けた。
だが──その瞳には、まったく熱がなかった。
「俺、そういうのやってなくて」
「えっ、あっ……そ、そっか……」
「そ、残念……!」
女子たちは肩を落としながら、それでも笑顔を浮かべて手を振って去っていった。
その背中を見送りながら、龍和はまた鞄に手をかける。
しかし──その間、彼の目は、一度も女子たちを見ていなかった。
視線の先には──成田也厚。
そして、石井助理と毛受裕太。
廊下に出てくる彼らを、無言で、睨むように見ていた。
也厚は、目が合った気がして──すっと目を逸らした。
そして、いつの間にか教室からその姿が消えていた。
◇
校舎裏の喫煙スペース──という名の、使われていない倉庫裏。
也厚は、落ち着かない様子で缶コーヒーを片手にしゃがみ込んでいた。
「……なに、あいつ。あの目……」
煙草を吸うほどの勇気もなく、ただ缶の口をいじっている。
その様子はまるで、小動物のようにびくびくとした雰囲気だった。
「お前、もしかして──とか思ったけど、ありえねぇよな……」
汗が額を流れる。
手は震えていた。
「もういねぇんだよ、あいつは。あのデブ、燃えて……家ごと──」
言いかけた瞬間。
ガサッ、と物音がした。
「……っ!?」
顔を上げる。
だが、そこには何もなかった。
「……チッ。ビビらせんなよ」
独り言を言いながら、立ち上がろうとしたその瞬間──
背中に、視線を感じた。
強烈な、痛みをともなうような、視線。
「……誰か、いるのか?」
辺りは静かだった。
しかし也厚の心は、ざわついていた。
村下龍和の目。
あれは──誰かに似ていた。
いや、あれは“あの時”の永和の目と、同じだった。
弱くて、笑ってたはずのあいつが、最後に睨んできたときの──あの、目。
「……まさか」
その可能性が、脳裏にちらついた瞬間──
「うわあああっ!?」
突風が吹いた。
風など吹いていないはずの、閉じた通路の裏。
にもかかわらず、也厚の目の前のダンボールが、バサリと倒れた。
彼は缶コーヒーを取り落とし、慌てて駆け出した。
振り返ることもせず、ただ逃げるように。
その背中を──
誰かが、見ていた。
◇
その日。
村下龍和──いや、村上永和は、屋上にいた。
夕焼けのオレンジ色が、校舎の壁を斜めに照らしている。
制服のネクタイを緩め、手すりにもたれながら、校庭を見下ろしていた。
下では、也厚が帰路につこうとしている。
だがその足取りは、ぎこちなく、何度も背後を振り返っていた。
「トゥフフ……フフ」
小さく、声が漏れた。
懐かしい──けれど、どこか異質な笑い声。
あのときのように、無邪気な明るさなど、もはや一滴も残ってはいない。
龍和は目を細め、ぽつりと呟いた。
「さぁ、復讐の始まりだ」
風が吹いた。
校庭の木々が、ざわりと鳴いた。
その風の中に、誰にも聞こえない声が混じっていた。
復讐は、始まったばかりだった。