第015話ー永和
その夜は、夏にしては涼しかった。
夜風が窓から入り込み、永和の部屋のカーテンをゆっくり揺らしている。
柔らかな音楽が流れていた。テレビはついていない。
静かだ。こんなに静かな夜は、久しぶりだった。
行子が退院して、ちょうど一日が経った。
快気祝いなんて大げさなものではなかったけれど、行子の「お礼がしたい」という申し出で、永和の家で過ごすことになったのだ。
晩ご飯はコンビニで買ったパスタとサラダ。
食後に淹れた紅茶を飲みながら、ふたりはリビングで並んで座っていた。
「病院ってさ、やっぱ落ち着かないね」
「そりゃあな。ずっと監視されてるみたいだろ」
「うん。検温も採血も、看護師さんの声も……ぜんぶ機械的で」
行子はそう言って、カップを口に運んだ。
その仕草が、なぜかやけに穏やかで、永和の胸が少しだけくすぐったくなる。
「でも、龍和くんが来てくれて、本当に嬉しかった」
「そりゃ行くだろ。何があったか……ちゃんと聞きたかったし」
「聞きたかった……だけ?」
「……違うよ。心配だったんだ。あんな目に遭って……俺、何もできなかった」
「ううん。来てくれただけで、十分だったよ」
ふたりの会話は、夜の静けさに溶けていく。
遠くで虫の鳴く音がして、たまに車の通り過ぎる音が小さく響く。
穏やかで、優しくて、幸せの匂いがした。
行子はソファの背もたれに体を預け、深く息を吐いた。
「……こんな時間が、続けばいいのにね」
「続くさ。 いや、続けよう。 俺たち、ちょっとだけ遠回りしすぎたかもしれないけど……ようやく落ち着いてきたんだし」
「……そうだね」
微笑み合うふたり。
そして、しばらく沈黙が訪れた。
しかし、その沈黙には、さっきまでの柔らかさはなかった。
空気が、ほんのわずかに――冷たく、固くなる。
行子の表情が、わずかに翳ったのだ。
「……ねぇ、龍和くん」
「ん?」
その声は、今までとは少し違っていた。
何かをためらいながら、それでも“言わなきゃいけないこと”があるような、そんな声音だった。
永和は、すぐに笑顔をやめた。
行子は、カップをテーブルに置き、少しだけ目を伏せた。
「もし、あの放火事件の犯人が……あの三人じゃなかったら……どうする?」
永和は、少し眉を寄せた。
「……それって、どういう」
「たとえば、だけど」
行子は、永和の目を見ないまま話を続けた。
「たとえば――本当の犯人が他にいて、その人が、いつもそばにいて、優しくて、何でもない顔で笑ってて。 でも、本当は……全部、知ってて、黙ってたとしたら」
「………………」
「そんな人が、いたとしたら。 龍和くんは、どうする?」
冷たい空気が、胸の奥にゆっくりと入ってくる。
永和は、言葉を失っていた。
わざとそうしているのかと思うほど、行子の言葉は“抽象的”だった。
だけど、その輪郭は、あまりにも“具体的”だった。
誰のことを言ってるのか――そんなの、分かるわけがない。
でも、分かってしまいそうになる。
心が、自然と、“その答え”を描き始めてしまっている。
「……なんで、そんなこと言うんだよ」
ようやく出た言葉は、かすれていた。
行子は、微笑んだ。
それは優しい笑顔だったけれど、永和は、どこか違和感を覚えた。
いつもより、目が笑っていない。
唇だけが、ほんの少しだけ吊り上がっている。
まるで――誰かに見せる“演技”のような。
「もしもの話、だよ?」
そう繰り返したあと、行子は永和の顔をじっと見た。
その目は、澄んでいた。
けれど、何かを隠しているようにも見えた。
「……そばにいたら、どうするのかなぁって。 ちょっと、気になっちゃって」
「………………」
永和は、黙っていた。何も返せなかった。
なぜなら、彼の中で――
それまで確かだった“日常”が、音もなく、少しずつ崩れはじめていたからだ。
何かが、妙だった。
妙で、奇妙で、心の奥に棘のように引っかかる。
けれど、それが何なのかを言葉にできるほど、永和は強くなかった。
ーー本当に今日は、寒いくらいに涼しい夏の日だった。
「ねぇ………”永和”くん?」
「……………………え?」