第011話ーそれでも好きだから
白い天井。
静かな機械音。
消毒液の匂いが鼻をつく。
病室の扉が、そっと閉まる音がした。
ベッドの上、岩田行子は包帯を巻かれた姿で静かに寝ていた。
顔の右半分に大きな絆創膏が貼られている。腕も吊られていた。
その表情は、まるで疲れ切った猫のように眠たげで、
それでも、俺が近づくと、ゆっくりとまぶたを開けた。
「……龍和くん?」
「ああ。起こした?」
「んーん、起きてた。……なんとなく、来るかなって思ってたから」
俺は椅子を引き、彼女の隣に座った。
彼女の体は明らかにボロボロだった。それでも、笑顔を見せようとしてくれる。
「どう……したんだよ」
「忘れ物、取りに戻ったの。そしたら、階段のところで──
急に、後ろから……誰かに殴られて……」
行子は自分の包帯に触れながら、ぽつりぽつりと語った。
「最初は誰か分からなかった。でも……声、聞いた気がする」
「声?」
「うん。……“あの目つき、ほんとムカつくんだよな”って。そんな声。……三人だったと思う」
也厚と助理、そして毛受。
あの三人以外、考えられない。
でも、証拠はない。
警察も動かない。
たかが“生徒同士のケンカ”で済まされる。
俺は、行子を守れなかった。
「……ごめん」
気づけば、そんな言葉が口からこぼれていた。
「何が?」
「全部、俺のせいだ。
本当なら、君はこんな場所にいるはずじゃなかった。
俺が、変なことに巻き込んだから──」
「違うよ」
彼女は、俺の言葉を遮った。
「私、分かってた。……最初から、龍和くんは、何かを抱えてるって。
他人の顔して生きてるけど、その奥に本当の何かがあるって、ずっと思ってた」
「……」
「それでも私、龍和くんが好きだから。
あの放課後、歩道橋の上で見せてくれた顔も、猫の話も、
私に向けた目も、全部嬉しかったの」
包帯の下で、彼女は微笑んでいた。
なのに、俺は何も言えなかった。
涙が出そうになった。
でも、出すわけにはいかなかった。
こんな場所で泣いたら、もう“あいつら”に勝てなくなる気がした。
「俺……行くよ」
「どこに?」
俺は立ち上がる。
振り返りもせず、ただ一言だけを残した。
「取り返しに行く。俺が、一度捨てた全部を」
◇
その日、放課後。
昇降口の前。
俺は立っていた。
鞄も持たず、制服のボタンも閉めず、
ただ、ひとりの男を待っていた。
毛受裕太。
教室で笑って、誰かを殴って、
人生を踏みにじって、今も何一つ罰を受けずに笑っている男。
遠くから足音がした。
仲間と笑いながら、毛受が現れる。
俺は、その場から一歩も動かず、正面から歩いてきた。
「よう、転校生。今日もクソ真面目な顔してんな〜?」
その口調も、態度も、昔から何も変わってない。
けれど、もう誤魔化す必要はなかった。
「……毛受」
「お?」
俺は、口元に笑みを浮かべながら言った。
「一つ、聞きたいんだけど」
「はぁ? 何だよ?」
「お前……俺のこと、誰だと思ってる?」
その瞬間。
毛受の笑顔が、止まった。
目を細め、ジリッと距離を詰めてきた俺に、何かを感じたらしい。
「お前……」
「やっと気づいた?」
静かな声で、俺は言った。
「ーーお前が踏みにじった“村上永和”は、まだ死んでねぇよ」
毛受の顔から、笑みが完全に消えた。
俺の中で、あの夜の炎が蘇る。
叫ぶ母の声。泣き叫ぶ姉。焼けた猫のハチタ。
全部、全部、お前が潰したんだ。
「それに、お前らに関係のない行子にも手を出しておいて、ただで済むと思うなよ?」
毛受が、初めて、一歩下がった。
それだけで、勝利したとは思わない。
だが、宣戦布告には十分だった。
「これが最後だ、毛受」
「……はっ。上等だよ、“永和”」
奴はニヤリと笑い返した。
ついに、“ゲーム”が始まる。