第001話ー悲劇の日
青空は、どこまでも澄んでいた。
真夏の陽射しがグラウンドの土を焦がし、遠くに見えるアスファルトが陽炎を揺らしている。
「トゥフフフフ、今日もやばいくらいトイレ行きたいわ……」
村上永和は、汗ばんだ額を拭きながら校門をくぐった。
東高校、通称・国公立至上主義高校。その名の通り、私立大学を目指す者は冷遇される謎の学風。
永和もその風に流され、成績表だけを眺める毎日を送っていた。
彼は背が高く、元バスケ部。
とはいえ、引退してからというもの、放課後はカップ焼きそばにカレーパンとチーズ蒸しパン。
最近では腹がポヨンと出てきたことを、気にしてるようで気にしてない。
むしろ、周囲が言うほど気にしてない。太っても腹をさすりながら笑っていた。
「ふんふふ~ん……あー、ヤバい、そろそろ限界かも」
笑いながら教室に向かっていると、廊下の窓に映る自分の顔が見えた。
その表情は、どこか緩んでいて、どこまでも平和だった。
◇
「おはよーっす、東高校の希望の星、数学だけやたらできる村上くん参上でーす」
「……」
「ん? んん?」
教室に入った永和は、妙な静けさに首をかしげた。
いつもなら軽くツッコんでくれるはずの佐久間も、前の席の原も、誰一人として顔を上げようとしなかった。
「おーい、何この空気? 俺、口くさい? それとも……」
「うっせぇんだよ、デブ」
椅子に座っていた男子が、吐き捨てるように言った。
中嶋だった。いつも永和とじゃれ合ってたバスケ部の後輩。
その中嶋が、冷たい目で永和を見ていた。
「なにそれ、冗談? え、今日なんかあった?」
「お前、何やったか覚えてねぇのか?」
「は?」
「この裏切り者」
中嶋が立ち上がると同時に、誰かが永和の背中を押した。
机に胸を打ち、息が詰まる。
「いってぇ……っ、なに、何の冗談?」
「俺らの答えを教育実習の女教師に密告したって、ほんとらしいな。お前さぁ、そんなことして楽しい?」
「え……は? 何の話? 俺、してないって、そんなの」
「言い訳すんな」
机の脚が鳴る音。
複数人が永和の周囲に立ち上がった。
教室の中が、ザラついた空気に満たされていく。
「お前のその、“トゥフフフフ”って笑い方、ずっとキモいと思ってたんだよな」
「やめ、……っ、やめてって」
ペットボトルの水が頭からかけられる。
誰かがランドセルのように机を背負わせてきた。
「うわー、バカみたい! 机背負って歩いてるー! さすがデブ!」
「トゥフフフフッ、トゥフフフフフッ、って笑ってみろよぉ!」
「……っ!」
永和は震えながら立ちすくんだ。
笑えなかった。
どんなに「子供っぽい」と言われても、自分の笑い方が嫌いじゃなかった。
でも、その笑いは今、壊れていた。
◇
いじめは、唐突に始まった。
次の日には教科書が破られ、その次の日には上履きがゴミ箱の中に突っ込まれていた。
先生は「自分で気をつけろ」と言った。
保健室の先生も「受験もあるから、なるべく冷静に」と言った。
「……トゥフフ、受験、ねぇ」
ある日、いつものようにトイレの前で足踏みしながら、永和は自嘲するように笑った。
「このまま数学だけ極めて、どっかの国公立大学行けって? そんなの、意味あんの?」
誰も、答えてはくれなかった。
◇
そして、その日は突然訪れた。
八月の終わり。
夏期講習が終わり、少し汗ばみながら永和は帰宅した。
「ただいまー……っ!」
玄関に立った瞬間、焦げ臭い匂いが鼻をついた。
ほんのり煙が立っている。
玄関の扉を開けると、黒い空気が流れ込んできた。
「な……なんだよ、これ……っ」
リビングの床が、真っ黒に焦げていた。
台所が燃えた形跡。
階段を駆け上がる。
「か、母さん!? 父さん!? 由香っ!!」
妹の部屋の扉を開ける。
真っ黒な炭が、横たわっていた。
「──う、うそ、だろ……っ」
立ち上る煙。焦げたにおい。皮膚の焼けたにおい。
それらが混ざり合って、永和の視界はぐにゃりと歪んだ。
「だれ、が……」
喉が焼けるように熱かった。
涙がこぼれたが、目の奥が乾いているようだった。
そこに、パチ、と何かが床に落ちた音がした。
燃え残った壁に、スプレーで書かれていた。
「“告げ口デブ、家ごと消えろ”」
文字の下に、笑顔の絵文字。
まるで、永和の笑い声を、真似しているかのように。
「トゥ……トゥフフ……フ……っ」
永和は、その場に座り込み、笑おうとした。
でも、喉の奥から漏れたのは、笑い声ではなかった。
「……絶対に……」
拳を握る。
爪が皮膚に食い込み、血がにじむ。
「絶対に、許さない……っ」
◇
その夜、ニュースは小さく報じた。
「東区の住宅で火災、住人三名の焼死体見つかる」
報道に、いじめの話はなかった。
学校も「家庭の事情」として処理した。
加害者はのうのうと夏休みを満喫していた。
しかし、村上永和の中で、何かが壊れた。
あの無邪気な笑い声は、もうどこにもなかった。
次の日、彼は消えた。
学校にも、警察にも、そして報道にも姿を見せなくなった。
だが、ある掲示板の片隅に、こんな書き込みがあった。
「トゥフフフフ、今に見てろ。次に燃やすのは“お前らの人生”だ」