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第001話ー悲劇の日

 青空は、どこまでも澄んでいた。

 真夏の陽射しがグラウンドの土を焦がし、遠くに見えるアスファルトが陽炎を揺らしている。


「トゥフフフフ、今日もやばいくらいトイレ行きたいわ……」


 村上永和むらかみ とおわは、汗ばんだ額を拭きながら校門をくぐった。

 東高校、通称・国公立至上主義高校。その名の通り、私立大学を目指す者は冷遇される謎の学風。

 永和もその風に流され、成績表だけを眺める毎日を送っていた。


 彼は背が高く、元バスケ部。

 とはいえ、引退してからというもの、放課後はカップ焼きそばにカレーパンとチーズ蒸しパン。

 最近では腹がポヨンと出てきたことを、気にしてるようで気にしてない。

 むしろ、周囲が言うほど気にしてない。太っても腹をさすりながら笑っていた。


「ふんふふ~ん……あー、ヤバい、そろそろ限界かも」


 笑いながら教室に向かっていると、廊下の窓に映る自分の顔が見えた。

 その表情は、どこか緩んでいて、どこまでも平和だった。



「おはよーっす、東高校の希望の星、数学だけやたらできる村上くん参上でーす」


「……」


「ん? んん?」


 教室に入った永和は、妙な静けさに首をかしげた。

 いつもなら軽くツッコんでくれるはずの佐久間も、前の席の原も、誰一人として顔を上げようとしなかった。


「おーい、何この空気? 俺、口くさい? それとも……」


「うっせぇんだよ、デブ」


 椅子に座っていた男子が、吐き捨てるように言った。

 中嶋だった。いつも永和とじゃれ合ってたバスケ部の後輩。

 その中嶋が、冷たい目で永和を見ていた。


「なにそれ、冗談? え、今日なんかあった?」


「お前、何やったか覚えてねぇのか?」


「は?」


「この裏切り者」


 中嶋が立ち上がると同時に、誰かが永和の背中を押した。

 机に胸を打ち、息が詰まる。


「いってぇ……っ、なに、何の冗談?」


「俺らの答えを教育実習の女教師に密告したって、ほんとらしいな。お前さぁ、そんなことして楽しい?」


「え……は? 何の話? 俺、してないって、そんなの」


「言い訳すんな」


 机の脚が鳴る音。

 複数人が永和の周囲に立ち上がった。

 教室の中が、ザラついた空気に満たされていく。


「お前のその、“トゥフフフフ”って笑い方、ずっとキモいと思ってたんだよな」


「やめ、……っ、やめてって」


 ペットボトルの水が頭からかけられる。

 誰かがランドセルのように机を背負わせてきた。


「うわー、バカみたい! 机背負って歩いてるー! さすがデブ!」


「トゥフフフフッ、トゥフフフフフッ、って笑ってみろよぉ!」


「……っ!」


 永和は震えながら立ちすくんだ。

 笑えなかった。

 どんなに「子供っぽい」と言われても、自分の笑い方が嫌いじゃなかった。

 でも、その笑いは今、壊れていた。



 いじめは、唐突に始まった。

 次の日には教科書が破られ、その次の日には上履きがゴミ箱の中に突っ込まれていた。


 先生は「自分で気をつけろ」と言った。

 保健室の先生も「受験もあるから、なるべく冷静に」と言った。


「……トゥフフ、受験、ねぇ」


 ある日、いつものようにトイレの前で足踏みしながら、永和は自嘲するように笑った。


「このまま数学だけ極めて、どっかの国公立大学行けって? そんなの、意味あんの?」


 誰も、答えてはくれなかった。



 そして、その日は突然訪れた。


 八月の終わり。

 夏期講習が終わり、少し汗ばみながら永和は帰宅した。


「ただいまー……っ!」


 玄関に立った瞬間、焦げ臭い匂いが鼻をついた。

 ほんのり煙が立っている。

 玄関の扉を開けると、黒い空気が流れ込んできた。


「な……なんだよ、これ……っ」


 リビングの床が、真っ黒に焦げていた。

 台所が燃えた形跡。

 階段を駆け上がる。


「か、母さん!? 父さん!? 由香っ!!」


 妹の部屋の扉を開ける。

 真っ黒な炭が、横たわっていた。


「──う、うそ、だろ……っ」


 立ち上る煙。焦げたにおい。皮膚の焼けたにおい。

 それらが混ざり合って、永和の視界はぐにゃりと歪んだ。


「だれ、が……」


 喉が焼けるように熱かった。

 涙がこぼれたが、目の奥が乾いているようだった。


 そこに、パチ、と何かが床に落ちた音がした。


 燃え残った壁に、スプレーで書かれていた。


「“告げ口デブ、家ごと消えろ”」


 文字の下に、笑顔の絵文字。

 まるで、永和の笑い声を、真似しているかのように。


「トゥ……トゥフフ……フ……っ」


 永和は、その場に座り込み、笑おうとした。

 でも、喉の奥から漏れたのは、笑い声ではなかった。


「……絶対に……」


 拳を握る。

 爪が皮膚に食い込み、血がにじむ。


「絶対に、許さない……っ」



 その夜、ニュースは小さく報じた。

 「東区の住宅で火災、住人三名の焼死体見つかる」

 報道に、いじめの話はなかった。


 学校も「家庭の事情」として処理した。

 加害者はのうのうと夏休みを満喫していた。


 しかし、村上永和の中で、何かが壊れた。

 あの無邪気な笑い声は、もうどこにもなかった。


 次の日、彼は消えた。

 学校にも、警察にも、そして報道にも姿を見せなくなった。


 だが、ある掲示板の片隅に、こんな書き込みがあった。


「トゥフフフフ、今に見てろ。次に燃やすのは“お前らの人生”だ」

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