Episode 5:仮の名と、仮の居場所
第七分室──通称。
ネオ=アクアリウムの底辺に構えられた、崩れかけの警察施設は、今日も変わらず、だらしなく沈んでいた。
天井からは剥き出しの配線。
床には書類とスナック菓子の袋。
流しには、誰のものとも知れぬカップが乾いたまま積み重なり。
一言で言えば、無秩序な犬小屋。
だが、そんな乱雑な空間の隅に、一つだけ──異質な“静けさ”があった。
保護された少女が、そこにいた。
白い髪。透き通るような肌。
病衣のような薄布に、ロックの茶色い外套を羽織って。
ソファの端で、身を縮めるようにして座っている。
自分の腕を抱くようにしては、指を握り直し、また放し──
その反復動作だけが、彼女の存在を“現実”に縫い止めていた。
まるで、空気に溶けようとしているかのように。
その儚い姿は、かえってこの場から浮いて見えた。
「……ま、いきなりこんなとこに連れてこられりゃ、無理もねぇか」
ロック・フォレスターが、手にしたカップを片手に苦笑を浮かべながら近づく。
少女は、わずかに肩をすくめたが──逃げなかった。
「熱くもねぇ。甘くもねぇ。……でも、まあ、悪くはない。たぶん」
冗談めかした声とともに、カップを差し出す。
少女は警戒の色を残しながらも、ためらいがちに手を伸ばした。
唇にカップを当て、ごくりと一口。
眉がぴくりと動いたあと──ほんのわずか、目を見開く。
「……お、いける口か?」
ロックが口元を緩める。
「これがうちの分室特製の“水分”ってやつだ」
少女は数秒の沈黙ののち、乾いた声で、ぽつりと呟いた。
「……にがい、味……する」
それは、かすれた空気のような声。
それでも──確かに、“言葉”だった。
「なあ、モルト。そろそろ“お前”とか“少女A”とか、呼び方どうにかなんねぇか?」
ロックの言葉に、検死官モルト・クライスが静かに頷く。
「ええ。記録にも不便ですし、第一、それではあまりにも味気ない」
ロックは少女を改めて見つめる。
その白い髪、淡い肌。色を失ったような存在感。
「色味とか……雰囲気とか、なんつーか。抽象画っぽいよな」
「……抽象、ですか?」
モルトが少し意外そうな表情を見せる。
「では、“シャルトリューズ”というのはどうでしょう。曖昧で、中性的な色の名前。
緑がかった白、だったかと。あなたが好みそうな、少し皮肉めいた響きも含まれています」
ロックは思わず吹き出した。
「なんだそりゃ……最高だな。“シャルトリューズ”。──仮でいい。今日から、そう呼ばせてもらうぜ」
少女──シャルトリューズは、数秒の沈黙のあと、そっと、小さく頷いた。
モルトはタブレットに入力する。
仮称:シャルトリューズ
仮りの名。仮りの居場所。
だが、“名を持つ”ということは、この世界に影を落とすということ。
それは──誰かの記憶に残るための、最初の“輪郭”だった。
⸻
午後。第七分室には、珍しく穏やかな空気が流れていた。
シャルトリューズはソファの端で、ロックの外套を抱きしめながら、モルトが差し出したカップをためらいなく受け取っている。
「検査の後、身体に異変はありませんか? 寒気、視界のちらつき、あるいは……妙な音が聞こえるなど」
モルトが穏やかに問いかけると、少女は静かに首を横に振った。
「……ならば結構。“今のところ”は」
「おい、余計な不安を煽るなよ」
ロックが眉をひそめる。
「事実です。彼女の因子反応は依然として常軌を逸している。
通常のタグドなら、あの数値で無事なわけがない」
ロックは黙ってシャルトリューズを見た。
数日前、検査室で見た“揺らぎ”。
あふれ出しかけた因子の奔流。
あの時、ロックの《抑止》がかろうじてそれを封じた。偶然だったのか、それとも──
「なあ、シャル。……お前さ。自分が何か“できる”って、思ったことあるか?」
問いかけに、少女はまた、ゆっくりと首を横に振った。
それは“否定”というより、わからないという色合いに近かった。
ロックは息をつき、苦いコーヒーをすする。
「……まあ、いい。今はまだ、何者でもねぇ。
そんくらいが、ちょうどいい」
ふと、モルトが口角をわずかに上げる。
「あなたが“誰でもない者”に優しいとは。少し、意外ですね」
「犬だからな。怯えてる奴の傍に寄り添うくらいはできるさ」
ロックは視線を窓の外に向けた。
「……だからこそ、噛みつく相手は、間違えねぇようにしてる」
分室の空気は、ぬるいコーヒーの苦味とともに、少しだけ温まっていた。
その苦味の向こうで、なにかが小さく芽吹いていた。
それは──この街の片隅。
最も不確かな場所に生まれた、“奇妙な三人”の、最初の形だった。
仮りの名と、仮りの場所。
それでも、それが、始まりだった。