表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/28

Episode 5:仮の名と、仮の居場所


第七分室──通称ドッグ・ハウス

ネオ=アクアリウムの底辺に構えられた、崩れかけの警察施設は、今日も変わらず、だらしなく沈んでいた。


天井からは剥き出しの配線。

床には書類とスナック菓子の袋。

流しには、誰のものとも知れぬカップが乾いたまま積み重なり。


一言で言えば、無秩序な犬小屋。


だが、そんな乱雑な空間の隅に、一つだけ──異質な“静けさ”があった。


保護された少女が、そこにいた。

白い髪。透き通るような肌。

病衣のような薄布に、ロックの茶色い外套を羽織って。

ソファの端で、身を縮めるようにして座っている。

自分の腕を抱くようにしては、指を握り直し、また放し──

その反復動作だけが、彼女の存在を“現実”に縫い止めていた。


まるで、空気に溶けようとしているかのように。

その儚い姿は、かえってこの場から浮いて見えた。


「……ま、いきなりこんなとこに連れてこられりゃ、無理もねぇか」


ロック・フォレスターが、手にしたカップを片手に苦笑を浮かべながら近づく。

少女は、わずかに肩をすくめたが──逃げなかった。


「熱くもねぇ。甘くもねぇ。……でも、まあ、悪くはない。たぶん」


冗談めかした声とともに、カップを差し出す。

少女は警戒の色を残しながらも、ためらいがちに手を伸ばした。

唇にカップを当て、ごくりと一口。

眉がぴくりと動いたあと──ほんのわずか、目を見開く。


「……お、いける口か?」


ロックが口元を緩める。


「これがうちの分室特製の“水分”ってやつだ」


少女は数秒の沈黙ののち、乾いた声で、ぽつりと呟いた。


「……にがい、味……する」


それは、かすれた空気のような声。

それでも──確かに、“言葉”だった。


「なあ、モルト。そろそろ“お前”とか“少女A”とか、呼び方どうにかなんねぇか?」


ロックの言葉に、検死官モルト・クライスが静かに頷く。


「ええ。記録にも不便ですし、第一、それではあまりにも味気ない」


ロックは少女を改めて見つめる。

その白い髪、淡い肌。色を失ったような存在感。


「色味とか……雰囲気とか、なんつーか。抽象画っぽいよな」


「……抽象、ですか?」


モルトが少し意外そうな表情を見せる。


「では、“シャルトリューズ”というのはどうでしょう。曖昧で、中性的な色の名前。

緑がかった白、だったかと。あなたが好みそうな、少し皮肉めいた響きも含まれています」


ロックは思わず吹き出した。


「なんだそりゃ……最高だな。“シャルトリューズ”。──仮でいい。今日から、そう呼ばせてもらうぜ」


少女──シャルトリューズは、数秒の沈黙のあと、そっと、小さく頷いた。

モルトはタブレットに入力する。


仮称:シャルトリューズ


仮りの名。仮りの居場所。

だが、“名を持つ”ということは、この世界に影を落とすということ。


それは──誰かの記憶に残るための、最初の“輪郭”だった。



午後。第七分室には、珍しく穏やかな空気が流れていた。


シャルトリューズはソファの端で、ロックの外套を抱きしめながら、モルトが差し出したカップをためらいなく受け取っている。


「検査の後、身体に異変はありませんか? 寒気、視界のちらつき、あるいは……妙な音が聞こえるなど」


モルトが穏やかに問いかけると、少女は静かに首を横に振った。


「……ならば結構。“今のところ”は」


「おい、余計な不安を煽るなよ」


ロックが眉をひそめる。


「事実です。彼女の因子反応は依然として常軌を逸している。

通常のタグドなら、あの数値で無事なわけがない」


ロックは黙ってシャルトリューズを見た。

数日前、検査室で見た“揺らぎ”。

あふれ出しかけた因子の奔流。

あの時、ロックの《抑止》がかろうじてそれを封じた。偶然だったのか、それとも──


「なあ、シャル。……お前さ。自分が何か“できる”って、思ったことあるか?」


問いかけに、少女はまた、ゆっくりと首を横に振った。

それは“否定”というより、わからないという色合いに近かった。


ロックは息をつき、苦いコーヒーをすする。


「……まあ、いい。今はまだ、何者でもねぇ。

そんくらいが、ちょうどいい」


ふと、モルトが口角をわずかに上げる。


「あなたが“誰でもない者”に優しいとは。少し、意外ですね」


「犬だからな。怯えてる奴の傍に寄り添うくらいはできるさ」


ロックは視線を窓の外に向けた。


「……だからこそ、噛みつく相手は、間違えねぇようにしてる」


分室の空気は、ぬるいコーヒーの苦味とともに、少しだけ温まっていた。

その苦味の向こうで、なにかが小さく芽吹いていた。


それは──この街の片隅。

最も不確かな場所に生まれた、“奇妙な三人”の、最初の形だった。


仮りの名と、仮りの場所。


それでも、それが、始まりだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ