Episode25:残穢に潜む写身
黒霧街での激闘から、一夜が明けた。
朝と呼ぶには、まだ早い。
薄墨を水に落としたような時間帯。
街は再び濃霧に沈み、路地も高層も、その境界を曖昧に溶かしている。
昨夜、確かにここでは血が流れ、叫びが響いた。
だが今、霧の中を行き交う人々の足取りは、あまりにも平然としていた。
屋台には火が入り、
運送ドローンは低空を滑り、
この街は何事もなかったかのように“日常”を再起動している。
まるで──
惨劇そのものが、街に吸い込まれて消えたかのように。
「……街ってのは、便利だな」
PCPD第七分室の簡易詰所。
安物の椅子にもたれ、ロックは窓の外を眺めながら呟いた。
「一晩経てば、全部なかったことにできる」
ガラス越しに見える霧は、
濁っているのか、澄んでいるのか──判別がつかない。
「“できている”のではなく、“忘れている”だけですよ」
書類端末を操作するモルトが、視線を上げずに応じる。
「黒霧街は特にそうです。
死も異変も、日常に埋没する速度が異常に早い」
「……それで助かる命もある」
ロックは、かすかに肩をすくめた。
「でも、見捨てられる命もある。
便利な話だよな」
モルトの指が、一瞬だけ止まる。
だが彼は何も言わず、再び画面を滑らせた。
その沈黙を裂くように、足音が近づく。
「……待たせたかい?」
低く、落ち着いた声。
クラリスが部屋の奥から現れ、壁に背を預けた。
煙管をくわえ、腕を組んだその姿は、
医者というより、戦場帰りの傭兵に近い。
「これが、アルコーン関連の内部資料だよ」
彼女は端末を操作し、ホログラムを展開する。
「……あんたたちが、知りたいはずの“女”についてね」
ロックとモルトの視線が、自然と宙に浮かぶ映像へ集まった。
「アルコーン幹部の一人――イグナ」
映し出されたのは、柔らかな笑みを浮かべた若い女性。
白を基調とした服装。
穏やかな視線には、敵意の影すら感じられない。
「……彼女が、どうかしたのか?」
ロックが問う。
「知り合い、だったね。あんたたち」
クラリスは淡々と言った。
「ただし、それは“表”の顔だ」
ホログラムが切り替わる。
「孤児を保護し、衣食住と教育を与える慈善家。
寄付金は潤沢、市民の評価も高い」
「……“表”ってことは」
モルトが、静かに続きを促す。
「当然、裏がある」
クラリスは一度だけ頷いた。
「彼女の本名は、イグナじゃない。
元は巨大医療・バイオ企業――《オルガ社》の令嬢さ」
企業ロゴ。
株価推移。
踊るように並ぶニュース見出し。
《オルガ社、資金不正疑惑》
《突如の経営破綻》
「セラフィム=アストレイアへの狂信。
それが、すべての始まりだった」
怒りも、哀れみもない声。
ただ事実だけを積み上げていく、乾いた調子。
「社の資金を、アルコーンへ横流し。
研究設備、被験データ、人材……」
「……家ごと売った、ってわけか」
ロックの声が、低く沈む。
「結果、オルガ社は倒産。
責任を問われる前に、彼女は失踪した」
画面に、《行方不明》の文字が浮かぶ。
「そして数年後。
名前を変え、顔を変え、“イグナ”が現れた」
モルトが、嫌な予感を押し殺すように口を開く。
「孤児院……ですね」
「そう」
次に映し出されたのは、
子どもたちの笑顔、清潔な施設、整えられた寝室。
絵本を読む大人。
はしゃぐ子ども。
ロックの眉が、わずかに歪む。
「一見、理想的だろ?」
クラリスは続けた。
「でも実態は、子どもを“器”として扱う実験施設。
超常因子の適合試験。
副作用、精神崩壊、死亡例……」
伏せ字だらけのデータが、次々と表示される。
モルトは唇を噛み締めた。
「……倫理も、安全基準も、存在しない」
「アルコーンにとって、子どもは“素材”だからね」
クラリスは煙を吐き、言い切った。
「壊れても、消えても、
社会は誰も気づかない」
沈黙が落ちる。
ロックは、ゆっくりと視線を落とした。
――孤児院。
――怯えた目。
――助けを求める声。
これまで見てきた、
救えなかった子どもたちの顔が、
一つ、また一つと重なっていく。
「……冗談じゃねぇ」
それだけが、ようやく口からこぼれた。
黒霧街で感じていた違和感。
説明できなかった嫌な感触。
それは確かに、
“ここ”へと繋がっていた。




