幕間4:死神の記憶
湯気の立たなくなったコーヒーが、白磁のカップの底でわずかに揺れていた。
モルトはそれを両手で包むように持ち、ゆっくりと口元へ運ぶ。
苦味。
それだけが、今の現実を確かに繋ぎ止めてくれる感覚だった。
――どうして、思い出すのだろう。
ふとした瞬間だった。
特別な匂いでも、音でもない。ただ、仕事の合間に飲むいつものコーヒー。それだけで、記憶の扉はあまりにも容易く開いてしまう。
タグドとして生まれ、超常能力【記憶の糸】を持っていた。
それは死体に残された記憶の断片を“読む”力。
断ち切られた人生の最期を、糸を辿るように再生する能力だった。
生前の恐怖。
痛み。
後悔。
そして、犯人の影。
多くの者が目を背ける死の記憶を、冷静に、正確に読み取った。
検死官として、私は優秀だったと思う。
数多の事件、事故、不可解な死――その裏に隠された真実を、彼は幾度も暴き出してきた。
「死神」
陰でそう呼ばれていたことも、知っている。
それでも私は誇りを持っていた。
死者の声を、無駄にしないために。
仕事を終えて帰る家には、いつも灯りがあった。
唯一の家族――姉のアンバーが、私を待っていたからだ。
他愛のない会話。
仕事の愚痴。
少し冷めた夕食と、温い笑顔。
平凡で、穏やかで、かけがえのない日常。
それが、永遠に続くものだと。
どこかで、疑いもせずに信じていた。
――あの日までは。
アンバーの死体が発見されたとき、私は検死官として現場に立っていた。
職務上の立場でありながら、そこに横たわるのが“姉”であると理解した瞬間、世界は音を失った。
死体は、酷く荒らされていた。
人の形を保っているのが奇跡と思えるほどに。
それでも【記憶の糸】を伸ばそうとした。
真実を知るために。
犯人を突き止めるために。
だが――
糸は、紡がれなかった。
視界を埋め尽くしたのは、断片的な悲鳴と、耐え難い感情の奔流。
恐怖と絶望、そして、身を引き裂くような喪失。
それ以上、私の心は耐えられなかった。
あの日を境に、死体の記憶を読むことができなくなった。
能力そのものが失われたわけではない。
ただ、死者に触れた瞬間、拒絶するように意識が閉ざされる。
代わりに芽生えたのが、物や場所に残る記憶を読む力だった。
床に染み込んだ時間。
壁に残る視線。
無機物に絡みついた、人の痕跡。
生きているものではなく、残された“場”の記憶。
それは逃避だったのかもしれない。
それでも、前に進むための、自分なりの形だった。
アンバーを殺した犯人は、まだ捕まっていない。
その事実だけが、胸の奥で冷たく沈んでいる。
検死官としての立場では、もう限界だった。
だから自ら願い出た。
超常対策課――
第七分室への転属を。
真実に、より近づくために。
姉の死を、無意味な過去にしないために。
そしてカップに残っていたコーヒーを一息に飲み干す。
喉を通る苦味が、ゆっくりと消えていく。
「……行きましょうか」
誰にともなく、静かに呟いた。
死神はもう、死体の声を聞かない。
それでも彼は、記憶を辿り続ける。
――奪われた命の、その先へ辿り着くために。




