Episode 24:灰の果て、灯るは骸火《むくろび》
──夜明け前。
黒霧街には、まだ朝の匂いは届かない。
霧は色を持たず、
音も、温度も、感情すらも吸い取りながら、街に沈殿している。
その中でロックは、
屋敷の縁側にひとり腰を下ろしていた。
空は、まだ蒼くならない。
夜が終わる前、ただ一歩だけ後退した──
そんな“境目”の時間。
燃え尽きた灰の上に、
わずかな熱だけが残っている。
骸火のような刻。
風鈴が、かすかに揺れた。
誰かの吐息にも似た、頼りない音。
それは過去の残響のように、
ロックの胸を、静かに撫でていく。
「……もう起きてたのかい」
振り向かずとも、声でわかる。
煙草の代わりに煙管をくわえた女が、
音を殺して隣に腰を下ろした。
クラリス。
「眠れなかっただけだ」
「ふふ……そう言うと思ったよ」
「変わらないね、あんた」
「変わってねぇのは……そっちも、だろ」
言葉は、そこで途切れた。
だがそれは沈黙ではない。
多くを失い、
多くを見すぎた者同士だけが共有できる、
言葉を必要としない“安らぎ”。
「なあ、クラリス」
「ん?」
「……あんたが、あのとき拾ってくれなきゃ」
一拍。
「俺は、とっくに死んでた」
クラリスは紫煙を吐き、
眉ひとつ動かさずに言う。
「そうね。
ボロ雑巾みたいだった」
「腕も脚も折れて、
血で顔もわからなかった」
「それでもね……
ベッドの上で“もう一本ナイフがあれば殺せた”って、喚いてた」
「……記憶がねぇのが、救いかもな」
「いいや」
即答だった。
「忘れちゃダメだよ」
煙管の火が、赤く瞬く。
「自分が、どうやって壊れて」
「それでも、どうやって生き延びたのか」
「その“経路”だけは、
あんた自身が覚えてなきゃいけない」
赤い火に照らされるのは、
過去から逃げきれなかった者同士の横顔。
「……あの頃、私は死に慣れすぎてた」
クラリスの声は低く、平坦だった。
語りではない。ただ事実を並べているだけ。
「救った命が、
翌日には泥と血に塗れて転がってる」
「それを何度も繰り返して、
ようやく気づいた」
「私の“癒し”はね……治療じゃない」
「命を繋いで、
限界まで酷使する」
「……ただの、呪いだった」
ロックは、すぐに言葉を返せなかった。
頭の奥で、
誰かの叫びが、遠く反響する。
それでも、口を開く。
「……それでも、あんたは医者であり続けてる」
「忘れないためだよ」
クラリスは言った。
「地獄で死んでいった連中の顔を」
「私が生きてる限り──
“記録係”くらいには、なれるでしょ」
差し出されたのは、
血と泥に染まった一冊の手帳。
戦場で書き続けられた、
名もなき死者たちの記録。
──確かに、存在したという証明。
「だから、あんたも記録しな」
「自分が、
“なぜ生きてるか”を」
ロックは目を閉じ、
静かに息を吸い込む。
「……俺は、まだ救えると思ってる」
「たとえ一人でも……
意味はあると、信じたい」
クラリスは、その横顔を見つめていた。
測るように。
そして、かつてを思い出すように。
やがて、紫煙を吐く。
「──わかった」
「私が拾ってきた“灰”を、
あんたに渡す」
──
診療室。
端末を操作しながら、クラリスは言う。
「聖堂の地下」
「そこで、“因子”を混ぜた実験が行われてる」
「自然発現じゃない。
調合された異能よ」
「……調合因子」
モルトが低く呟く。
「投与された者たちには、共通点がある」
クラリスは続けた。
「人格の崩壊」
「記憶が混ざり、
他人の声が入り込む」
「“誰かの記録”を
焼き付けられたみたいな異常」
「それが──
ミラー=エーヴァレットの起点かもしれない」
ロックは、拳を握る。
「模倣じゃない……」
「人格を燃料にした、
情報の“再演”か」
「ええ」
「彼女は“自分”を削りながら、
他人を演じ続けてる」
「いつか、仮面の下に
何も残らなくなる」
「……でも、その前に」
「きっと、何人かは殺される」
「……俺の顔で、誰かが死ぬ」
背後で、モルトが息を呑む。
だがロックは、低く言った。
「……止める」
「俺が、責任を持って」
──
「私は、ここにいる」
クラリスが二人を見る。
「第七分室と手を組む」
「この街に、“意味”を取り戻すために」
「医者であり続ける」
ロックは、その手を強く握った。
「……あんたが味方でいてくれる」
「それだけで、十分だ」




