Episode 23:女帝の刃、鏡を裂くとき
黒霧が、さらに濃くなる。
夜ごとに、この街を包み込む闇。
善も悪も。生も死も。記憶ですら──
境界を失わせ、同じ色へと溶かしていく。
だからこそ、この街は
**黒霧街**と呼ばれる。
──
刃が閃き、砕けた鏡片が宙を舞う。
女帝と使徒。
クラリスとミラーの斬り結びは、なおも続いていた。
“誰か”の顔を被り、
“誰か”の声を借りて迫るミラー。
だがクラリスは、それらすべてを
無駄のない剣筋で切り捨てる。
煙管をくわえたまま、低く言い放った。
「……で?
次は、どの顔で来るつもりだい」
紫煙が揺れる。
「あたしの真似。
そろそろ、飽きてきたんじゃないかい」
「じゃあ……これは?」
ミラーの肉体が、
ひしゃげた鏡のように歪み、崩れ──
現れたのは。
──若き日の、クラリス。
血に塗れた軍装。
包帯だらけの四肢。
死体の山の中、泣くことすら忘れていた、あの戦地。
彼女自身が封じ続けてきた、
“過去の亡霊”。
「……戦場で泣いてた“あなた”よ」
囁きが、記憶を抉る。
「誰にも縋れず、
独りで死者を看取り続けた、惨めな女」
一瞬、空気が張り詰める。
だが──
クラリスは、わずかに口元を緩めた。
「……そりゃあ、あたしも人間だ」
低く、淡々と。
「恥の一つや二つ、
背負ってないわけがないさ。けどね──」
──シュン。
居合の一閃。
空気が裂ける音。
だが刃は、幻影を掠めただけだった。
ミラーの“若きクラリス”は、
霧のようにするりとかわす。
「……実体を持つ幻像、かい」
クラリスは小さく息を吐く。
「手が込んでるね」
直後。
背後から、鋭い殺気。
“本物”のミラーが、飛びかかってきた。
「──《撫命〈ぶみょう〉》」
だがクラリスは、振り向きもしない。
後方へ伸ばした掌。
青白い光が、脈動する。
──本来は、癒しの因子。
だが。
過剰な再生は、
破壊と同義だ。
ミラーの腕が異様に膨れ上がる。
肉の擬態が耐えきれず、崩壊を始める。
皮膚が裂け、
血管が暴走し、
骨の軋みが、空間を震わせた。
「な……に、これ……!
やめ……やめてッ……アアァァ──ッ!!」
悲鳴。
虚ろな瞳。
剥がれ落ちる擬態の奥から現れたのは、
醜悪なほど空虚な“模倣”の怪物。
「……厄介な能力だよ、あんた」
クラリスは、ゆっくりと歩み寄る。
「姿形だけじゃない。
記憶を覗き、心を引っ掻き回す」
紫煙の向こうで、視線が鋭く光る。
「……でもね」
「年季が違うんだよ」
静かに、しかし断言する。
「年増の女ってのはさ、
そんな程度で折れやしないもんでね」
──ズバッ。
再びの一閃。
《紅椿》の刃には、
撫命の因子が絡みついていた。
切って、癒やす。
癒やして、壊す。
慈しみの皮を被った、
確実な死。
「グ……アアアアアアアアッ!!」
ミラーの肉体が、悲鳴をあげる。
耐えきれず、崩れていく。
ロック。
モルト。
クラリス。
そして、無数の“誰か”。
彼女が羨み、奪い、成り替わろうとした
すべての“他者”の顔が、次々と剥がれ落ちていく。
──それは、
彼女が欲しかったすべての人生。
羨望。
嫉妬。
執着。
破壊衝動。
感情の残骸が、
霧の中へ溶けていく。
──
「…………退く」
声には、もはや自我がない。
感情の抜け殻のような、
乾いた囁き。
ミラーの肉体は、霧と共に掻き消える。
まるで鏡の奥へ、
“帰っていく”かのように。
次に現れる時は、
また別の顔で。
また別の誰かの心を借りて。
──
クラリスは静かに、《紅椿》の血を拭い、鞘へ収めた。
「……この街は、あたしの庭だ」
低く、しかし揺るぎない声。
「あんたみたいな化け物が、
土足で踏み荒らしていい場所じゃない」
そこにあったのは、威圧ではない。
“覚悟”だった。
「クラリス!」
ロックとモルトが駆け寄る。
「無事かよ、あんた……!」
「クラリスさん……あれを、たった一人で……」
クラリスは、ふっと笑い、煙管に火を点ける。
「平気さ」
紫煙が、ゆらりと立ち昇る。
「……あたしも、
まだ老いぼれる歳じゃないんでね」
その姿は、まさしく──
黒霧街の女帝。
「……いいかい、坊や。死神くん」
煙の向こうから、低い声が落ちる。
「ミラーって子はね、
“模倣”なんて可愛いもんじゃない」
「本気で“成り替わる”んだ。
姿も、声も、記憶も……心の奥まで、丸ごとさ」
「……じゃあ、どうすりゃ……
あんなの、止められんだよ」
ロックの問いに、クラリスは即答した。
「“自分”を持つことさ」
一拍。
「誰よりも、強くね」
「でなきゃ──
あんたも、いずれ喰われる」
──
再び、黒霧が街を覆う。
だが、その中心に立つ女の背は、揺るがない。
闇が深ければ深いほど、
その存在は、より鮮烈に際立つ。
毒華は咲いた。
黒霧街に、ただ一輪。
血と煙の香を纏いながら。




