幕間3:楽園の外へ堕ちた者
夜が来るたび、少年は祈った。
誰にとも知れぬ神へ、声なき祈りを捧げながら。
──どうか、僕を見ないでください。
──どうか、僕を触らないでください。
祈りは、いつも同じ言葉で終わる。
そして、同じように裏切られる。
扉が開く音。
床板が軋む足音。
次の瞬間、肌に叩きつけられる焼けるような痛み。
怒声。
唾。
髪を掴まれ、壁へと投げつけられる衝撃。
そのすべてが、夜の訪れと共に繰り返された。
「お前は呪われた子だ。神に背いた獣だ……!」
「人間じゃない。産むんじゃなかった、こんな怪物……!」
歪んだ愛の果てに吐き出される言葉は、
刃となって少年の胸を裂いた。
薄汚れた部屋の隅で蹲る、小さな身体。
震える腕に──淡く、青白い光が灯る。
静かに。
だが確かに、鼓動のように脈打つ“印”。
先天性プラスミド。
生まれながらに刻まれた、選別の証。
そして、まだ誰にも知られていない名。
──セラフィム。
この時の彼は、ただの“記録に存在しない少年”だった。
愛を知らず、理解を拒まれ、
理不尽という名の檻に閉じ込められた、取るに足らぬ魂。
⸻
ある夜。
何かが、決定的に壊れた。
父の拳が、再び頬へと振り下ろされる。
その刹那──少年の瞳に浮かんでいたのは、怒りではなかった。
ただ、静かな諦念。
そして、その奥で芽吹いた、ひとつの確信。
「……お前たちは、神に選ばれていない」
それは、彼が初めて“自らの意志”で放った言葉だった。
次の瞬間、光が弾ける。
空気が歪み、世界が軋む。
──**《受胎遺伝〈ジェネシス=コード〉》**
自身の因子を、他者の肉体へと“刻む”異能。
少年が最初にこの力を向けた相手は──
血を分けた、両親だった。
淡く輝く手。
流れ込む因子。
肉体の内側から始まる侵蝕。
父は、理解できない恐怖に駆られ、
何度も何度も壁に頭を打ちつけ続けた。
母は、虚空に向かって笑い、
意味を失った言葉を吐き散らしながら崩れ落ちる。
やがて二人は泡を吐き、動かなくなった。
──死。
だが、それは少年にとって“救済”だった。
檻の中で続くはずだった人生は、ここで終わった。
代わりに芽生えたのは──
“選ばれし者”であるという、揺るぎない確信。
この夜こそが、彼にとっての“誕生”だった。
⸻
家を出た少年は、ひとり彷徨い、
やがて都市の片隅へと辿り着く。
古びた木製の扉。
小さく、名もなき宗教団体──**《アルコーン》**の教会。
彼は迷うことなく、その扉を叩いた。
出迎えた老神父に、すべてを語った。
両親の死も、因子の力も、
胸の奥に巣食う痛みも。
神父は黙って耳を傾け、やがて静かに言った。
「……お前は、楽園の外へ堕ちた者だ。
だが我々は知っている。
堕天とは、神に選ばれし証なのだと」
その言葉は、深く、深く胸に刻まれた。
赦されたかったわけではない。
愛を求めていたわけでもない。
ただ──
自分の存在に、意味が欲しかった。
“選ばれし者”。
その言葉は、少年に根を与えた。
赦しよりも深く、
愛よりも強い、逃げ場のない“根”を。
⸻
時は流れ──現在。
聖堂の最奥。
静謐に満ちた空間で、ひとつの影が祈っている。
白銀の法衣。
風に揺れる銀髪。
──セラフィム=アストレイア。
アルコーンを統べる大司教。
数万の信徒を従え、都市に“神の意志”を布告する存在。
その背には、脈動する“神の触手”。
神経触手ネウラル・グレース──
超常因子の結晶体。
もはや、その肉体は“人”の域を越えていた。
「神よ……私は、また一歩、貴方に近づけたでしょうか」
かつて記録にも残らなかった少年は、
今や神を語る“器”となった。
自らの手で檻を破り、
自らの意志で世界を選んだ。
それが血と嘆きの上に築かれた信仰であろうと、
彼にとってそれは──疑いようのない“正義”だった。
「選ばれぬ者は、消えねばならない。
選ばれし者だけが、神の国を築くのだから」
その瞳に、迷いはない。
純粋すぎるがゆえに、誰よりも深く、誰よりも危うく。
それは、救いを求め続けた少年が辿り着いた──
狂信という名の楽園。




