Episode 2:抑止に報せるは犬の咆哮
「……変わらねぇな。この街の空気も、人も」
ロック・フォレスターの低い呟きが、誰もいない闇の中へと消えていく。
鼻を刺すのは──
腐食した鉄と重油、そして焦げた肉のような異臭。
空気は淀み、風さえ届かない。
ここはネオ=アクアリウム最下層。
《ロウアー・リング》第三区画──通称。
かつては物流の要だったこの場所も、いまでは封鎖された廃墟。
天井に吊られた蛍光灯の半数は砕け落ち、
残された非常灯だけが、青白く明滅していた。
「HQより通達です。タグドによる破壊活動、および死傷者多数。容疑者はCブロックに潜伏中」
隣を歩くモルト・クライスが、淡々と告げる。
眼鏡の奥の視線は、焼け焦げた床や潰れたローダーの痕跡を読み解いていく。
「この破砕痕……かなりの質量で踏み抜かれてますね」
「強化型か。単純なパワー頼みってのは──始末が早ぇ」
ロックは外套の内側から、ナイフを逆手に抜き取る。
──そのときだった。
ガアアアアッ!!
金属を裂く轟音。
隣接するコンテナが、内側から膨れ上がり、
歪み、裂け、破裂した。
ねじ切れた鉄板が宙を舞い、
その破片の中から“異形”が飛び出す。
──それは、ヒトの形をした“何か”。
筋繊維が剥き出しになった表皮。
血走った眼、涎を垂らして吠える顎。
もはや理性も言語も存在しない。
「ラァアアアアッ!!」
「……おいおい、話の通じねぇタイプかよッ!」
ロックが前に出る。
真正面から、突っ込む。
「──抑止」
ナイフから迸る、青白い光の鎖。
不可視の力が異形の両腕を十字に拘束した。
だが──
バキィンッ!!
異形は力任せに鎖を軋ませ、叩き斬る。
ただの拘束では、止まらない。
「チッ……出力が足りねぇか」
「ロック、後方へ!」
モルトの警告。
同時に、異形の拳が地面を砕いた。
火花、粉塵、破砕されたコンクリートが飛び散る。
「動きは直線的です! 私が誘導します、まずは右から!」
「了解!」
ロックは左から滑り込む。
死角へ。ナイフを構え直す。
「──二重抑止」
今度は脚部に、二重の鎖が絡みつく。
ぎりぎりと金属音が軋む。
異形の動きが鈍る。
「今です!」
モルトの声。
すかさず、ロックの肘打ちが真下から顎を貫いた。
「──終わりだッ!」
ゴンッ!!
異形の身体が宙を舞い、
背後のコンテナに激突。
金属の壁がへこみ、崩れ落ちた。
……静寂。
数秒ののち、モルトが歩み寄る。
「……超常因子、沈静化。意識喪失を確認。制圧完了です」
「はぁ……脳筋バカはわかりやすくて助かるぜ」
ロックはナイフをホルスターに戻しながら、息を整える。
だが、表情は晴れなかった。
「……なぁ、モルト。今の“ヤツ”、様子がおかしかったよな」
「ええ。おそらく因子暴走です。
意思はなく、ただ力に呑まれていた。
それに──」
彼はわずかに目を細めた。
「先ほどの彼から、“別の因子の残滓”も検出されました」
「つまり……“操られてた”ってわけか」
「ええ。その可能性が高いですね。
単なる突発的な暴走ではなく、何者かの意図が事件の裏にある」
ロックは天井を見上げた。
非常灯が、頼りなく明滅を続けている。
「……きな臭くなってきたな」
「ええ。最近の超常事件、明らかに数が増えています。
もしかすると──」
モルトが言いかけた言葉に、ロックは何も返さなかった。
ただ静かに、闇の奥へと歩き出す。
この街で起きているのは、ただの“超常事件”なんかじゃない。
何かが蠢き始めていた──
それも、都市全体を覆う“異常”の胎動だ。