幕間:始まりの因子
その空間は、PCPDの誰も記憶しない“階下の下”にあった。
かつて情報管理局が使用していた旧世代型の記録保管庫。
だが今では、図面からも抹消され、存在すら忘れ去られた遺構でしかない。
冷却装置はとうに停止し、管制灯も点かない。
冷えきった空気は、外界から切り離された“墓標”のように重く沈んでいた。
埃と劣化した電子素子の臭いが、沈殿物のように積もっている。
廃棄対象。封印済み。
──記録上は、そう処理されていた。
だが今夜。
その沈黙に、ごく小さな“亀裂”が走った。
低く呻くような起動音。
朽ちた配線の奥で、制御端末が不完全なプロセスを噛み合わせ、ゆっくりと再起動を始める。
「……コード:Nocturne-Ø13。
記録解除。管理者権限──《イージス=マクダネル》、確認完了」
無機質な合成音声が、氷のような空気に波紋を投げた。
そして──
黒い影が、闇の中から歩み出る。
漆黒のスーツ、無駄のない身のこなし。
知性を秘めた眼差しの奥で、口元だけがわずかに笑んでいる。
イージス=マクダネル。
PCPD情報管理局 局長。表向きには「上級特任補佐官」。
──だが、その真の役割を知る者は、組織の中でも数えるほどしかいない。
彼は迷いなく歩を進め、指先でホログラム端末を呼び起こす。
無数の光群の中から、一つの記録を選び出した。
「……やはり、削除は“未遂”だったか」
投影されたのは、ひとりの少女。
銀白の髪。眠るように閉じられた瞳。
タグ識別すら未付与。
本来なら存在すら消されていたはずの──失われた“実験体”。
その輪郭の周囲に、微細な粒子状ノイズが舞っている。
まるで映像を越えて、この場の空間そのものに干渉しているかのように。
コードネーム──《Echoエコー=ゼロ》。
イージスの視線が、淡く揺れる映像を射抜いた。
「……君が“表”に現れたか」
その声は、ただの観測者のものではなかった。
世界の盤面を読む、棋士の冷徹な呟き。
「ならば、この都市の均衡も……世界のかたちも……一段階、変わることになる」
ホログラムを閉じ、踵を返す。
闇の奥へと消えゆく背を、機器の光が一つ、また一つと沈んで見送った。
最後に、振り返ることもなく、彼は低く呟く。
「──“始まりの因子”」
再び、沈黙だけが残った。
PCPDの誰ひとりとして知らない。
この記録こそが──少女シャルトリューズの“真実”へと繋がる、
世界の輪郭を密かに歪める、“綻び”の起点であることを。