Episode 10:揺らぐ静寂
焦げついた鉄の匂いと、燃え尽きた硝煙の残り香が、まだ肌にまとわりついていた。
第七分室の面々は無言のまま、見慣れた扉をくぐる。
──だが、先ほどの戦いは忘れられるものではなかった。
ヴァルカン=アッシュ。
“憤怒”の異名を持つ七罪の使徒との交戦は、もはや「事件対応」の枠をとうに逸脱していた。
「……シャルの様子、見てくる。お前らは先に休んでろ」
短く言い残し、ロックは静かに歩き出す。
向かう先は、第七分室奥の検査室──。
⸻
検査室には、昼白色の光が淡く差し込んでいた。
電子機器の作動音が、規則的に空間を満たしている。
中央のベッドには、銀白の髪を持つ少女──シャルトリューズが眠るように横たわっていた。
その傍らで、白衣の影が振り返る。
「戻ったのね、ロック。……随分と派手に暴れてきたじゃない」
「……見てたのか」
「因子反応のモニタ越しにね。シャルちゃんの数値が乱れた瞬間、現場の映像が一部重なって見えたわ」
「なら、あんたも来ればよかったろ」
「冗談。私は検査官、戦闘は専門外。それに──誰かが、ここで帰りを待っていなきゃね」
エレノア=ヴェイル。
第七分室に籍を置く医療技師であり、シャルトリューズの因子管理を任された女性。
その視線が、端末の波形に向けられる。
「……彼女の脳波、戦闘中に異常な乱れを見せたの。
たぶん“プラスミドの残響”──あの男の因子が、無意識に干渉したんだと思う」
「……巻き込んじまった、ってわけか」
「否定はしないわ。でも──それだけじゃなかったの」
エレノアは画面を指差す。
「一瞬だけ、彼女の因子が“共鳴”しようとした。
外因に反応して、彼女の内因が揺れたの。……まるで、閉じ込められた力が、呼応しようとしてるみたいに」
ロックの目が、ベッドの少女へと落ちる。
戦場を知らぬ者のような、穏やかな寝顔だった。
「……目を覚ましそうか?」
「時期にね。今は状態が安定してるわ。……あなたが声をかければ、きっと」
エレノアは薄く笑い、皮肉っぽく付け加える。
「女の子に慕われる事は、悪い事では無いわよ?」
「……からかうな」
短く返しながら、ロックはベッドの傍らに膝をつく。
──そのときだった。
少女のまぶたが、かすかに震えた。
「……ロック……さん……?」
「……ああ。戻ったぞ、シャル」
ゆっくりと開いた瞳。
怯えを滲ませながらも、確かに彼を見据えていた。
「……こわい夢、みたの……。炎のなかで、誰かがずっと叫んでて……それで……」
ロックは言葉を探しながら、ゆっくりと応じる。
「……もう大丈夫だ。全部終わった。お前の傍に、あんな奴はいねぇよ」
シャルの指先が、そっとロックの外套の裾を掴む。
「……また、変な音がしたの……頭の中で……ぐるぐるして、苦しくて……でも……ロックさんの声が、きこえて……それで……少しだけ、安心できたの……」
その言葉に、ロックの表情がわずかに緩んだ。
「……安心していい。お前は──俺たちが、必ず守る」
それは命令でも慰めでもなかった。
ただ一人の少女に向けられた、無骨な男の静かな約束。
やがて少女は、安心したように目を閉じる。
今度は、微かな笑みをたたえて。
──静寂が訪れる。
だが次の瞬間、端末が低くノイズを走らせた。
モニタに奇妙な波形が現れ、警告灯が一瞬だけ赤く点滅する。
「……今の、見た?」
エレノアが眉をひそめる。
「外因じゃない。彼女自身の因子が、応えようとしている……」
その沈黙を破るように、足音が扉の向こうから近づいてきた。
そっと扉が開き、モルトとリリスが顔を覗かせる。
「……彼女、無事そうでよかったですぅ」
「ほんの少し……“安心”が芽生えたのでしょう。けれど──上の連中は、きっと彼女を“資源”と見做します」
「……資源、ね」
ロックの声は低く濁った。
言いかけた言葉を、彼は飲み込む。
その“ただ”の続きを、自分自身でまだ見つけられていなかった。
けれど確かに、少女の中に芽吹いたものがあった。
それは、“人”としての輪郭を取り戻すための、かすかな灯。
焦土の記憶が癒えぬうちに、次の波が──静かに、音もなく、迫りつつあった。