episode1:第七分室《ドッグ・ハウス》
夜明け前の月光が、さざ波に揺れていた。
その水面の奥──
墨を垂らしたように沈む、巨大な影。
鉄とガラスが複雑に絡み合い、
無数の層が積み重なって築かれた超構造体。
それは天を穿つ塔。
光が差す都市──
海上多層都市《ネオ=アクアリウム》。
外殻に触れた東雲の光は、鈍く、冷たく反射していた。
だが、どれほどの輝きも。
必ず、影を孕む。
*
《アッパー・リング》。
ホログラムの広告が夜空に咲き乱れ、
飽和した色彩が都市の上層を塗り潰していく。
洗練されたスーツ。香水。過剰な装飾。
優越と虚飾をまとった者たちが、
光に照らされながら、無表情に通り過ぎていった。
そしてその、何百メートルも下──
《ロウアー・リング》。
打ち捨てられた工業地帯。
黒霧が立ち込める路地に、
腐臭と油の匂いが混ざり合って沈殿している。
錆びたコンクリート。
どぶ川と化した排水。
重苦しい空気が、肺にべったりと張りつく。
瓦礫に腰を下ろした老兵が、
頭上を飛ぶ警備ドローンを見上げながら、ぼそりと呟いた。
「……またタグドの犯罪かよ」
その刹那、スラム唯一の大型ビジョンが点灯。
機械の声が、通りに響いた。
「本日未明、ロウアー・リング第三区画にて、タグドによる超常事件が発生。
容疑者は現在も逃走中。PCPDは、周辺住民に警戒を呼びかけています」
雑踏に、怨嗟の声が混ざり込む。
「またかよ……最近、タグドの事件がやけに増えてねぇか」
「“超常”? あんなもん、ただの呪いだろ」
「……うちの娘、“才能開花プログラム”に通ってるんだけどさ……最近、笑わなくなってさ……」
そのときだった。
街の静寂を切り裂くように、警報音が鳴り響く。
【PCPD指令室】
「第七分室、現場へ急行せよ。標的はタグド。第三区画にて逃走中」
【無線官】
「……また犬小屋に処理させるんですか?」
【指令室】
「構わん。どうせ吠えるしか能のない連中だ」
*
ロウアー・リング──
PCPD第七分室。通称:犬小屋。
廃棄された業務用エレベーターが、軋む音を立てて地下へ沈む。
到着したのは、油と鉄錆にまみれた格納庫。
蛍光灯の灯りはチカチカと不安定に瞬き、
床には埃と染みがまだらに広がっていた。
その壁際に、一人の男が背を預けている。
ロック・フォレスター。
茶色の外套。
腰に黒革のナイフホルスター。
眠たげな双眸の奥に、燻るような殺気を宿していた。
彼は“タグド”。
超常の力を内に宿す、変異の者。
ロックの能力は、《抑止》。
──拘束によって、暴力をねじ伏せる。
「……またか。超常事件ってやつは、ほんとに退屈しないな」
その声に応えるように、階段の奥からもう一人、姿を現す。
白いワイシャツにグレーベスト。
眼鏡の奥の眼差しは、どこまでも静かだった。
モルト・クライス。
PCPD第七分室の検死官。
そして、“視る者”。
彼のプラスミドは《知覚》。
痕跡を読み、思念を辿り、死者の声すら拾い上げる──
この街で唯一、“死者と会話する男”だった。
「……だからこそ、我々PCPDがいるんじゃありませんか」
「犬は犬らしく、吠えるべきです。たとえ──誰にも耳を傾けてもらえなくてもね」
その皮肉めいた台詞に、ロックは小さく笑う。
「確かに。吠えなきゃ骨も投げてもらえねぇしな。
……さっさと終わらせようぜ」
重いブーツが、床を鳴らす。
背後の装甲車が、低く唸るようにエンジンを始動させた。
この日もまた、
第七分室は“タグド犯罪”の現場へと出動する。
いつも通りの、報われぬ任務──
……の、はずだった。
──だが、この夜。
二人の運命が、音を立てて動き出すことになる。