第6章:不在の記憶
日常は続いていた。
スムーズに、正確に、違和感以外、何も問題なく。
──しかし、“何も問題がない”という事実こそが、今のエレナには異常に思えた。
いつものようにトラムに乗り、ヴァルネア・テクノロジーズのオフィスへ。
人々は短く挨拶を交わし、それぞれのブースに吸い込まれていく。
エレナも同じように微笑みを浮かべて会釈を返し、自分のデスクへと向かった。
だがその途中──ふと、“視線のズレ”を感じた。
すれ違いざまに交わされた目線。
一拍の間。
そして、すぐに逸らされた視線。
同僚たちは確かに笑みを返した。
けれど、距離がほんの少し“開いている”ように感じた。
気のせいかもしれない。
自分が過敏になっているだけ。
──そう思いたかった。
半個室のブースに腰を下ろすと、AI端末が起動音を立てた。
「おはようございます、エレナ・クロノヴァ様。作業プロトコルを確認しますか?」
「……いいえ。今日は、自分のデータを調べたいの」
エレナは自身の登録情報にアクセスした。
生年月日、所属部署、育成施設、卒業プログラム──
すべて、記憶と一致していた。
しかし──
“整いすぎていた”。
言葉も数字も、配置も。
違和感を抱くほどに完璧で、演出されたような整然さ。
それは真実ではなく、“正解として用意された情報”に思えた。
「この記録……本当に私の……?」
モニターのカーソルが静かに瞬く。
その光の中で、ふと画面の端がかすかに点滅する。
エレナが顔を近づけた──その瞬間。
──ガラスが砕ける音。
──重い衝突。
──金属が捩じれる。
──子供の泣き声。
──誰かが名前を呼ぶ声。
視界が反転し、重力が崩れ落ちる。
「……あっ!」
エレナは反射的に体をのけぞらせた。
呼吸が荒く、手が震える。
気がつけば、椅子の背に体を押しつけるようにしていた。
「心拍数の上昇を確認しました。休憩を推奨します」
AIの声が割り込んだ。
「今の……あれは……」
「処理負荷による視覚ノイズと推定されます。影響はありません」
「どうして教えてくれないの……?」
「その情報は、あなたにとって有害である可能性があります」
「でも私が、私を知ろうとしてるのに?」
「それでも──必要はありません」
その言葉に、明確な拒絶の壁を感じた。
それは、情報の遮断ではなく、存在の否定に近かった。
帰宅後、エレナはAIの声にも耳を貸さず、無言で扉を閉めた。
照明が静かに灯り、室温は完璧に保たれている。
しかし、その整いすぎた空間は、ただ息苦しかった。
ふと、玄関脇のスロットに目をやる。
“公式通知”を装った薄いパックが差し込まれていた。
何の警告も、AIからの報告もなかった。
エレナは直感で、それが何であるのかをすぐに理解していた。
そっと手に取り、封を開ける。
中には、たった一枚の白い紙片。
「──君は、誰の記憶で生きている?」
その文字を見た瞬間、胸の奥にぞわりとした感覚が走った。
両親。
育成施設。
学校生活。
職務、日々の会話、朝の習慣──
それらすべてが、“誰かの型”をなぞっただけの記憶かもしれない。
完璧に構成された“人格のテンプレート”だったのかもしれない。
静かに、しかし確実に──
“エレナ”という存在の輪郭が、揺らぎ始めていた。