第5章:潜在の回路
記憶は静かに繋がっていた。
正確に。論理的に。美しく。
しかしそれは、あまりにも“整いすぎていた”。
その日、エレナは出勤時に、ふと立ち止まっていた。
靴を履き替えようとした瞬間、戸惑ったのだ。
──昨日、自分は何を着ていた?
思い出せないわけではない。むしろ、映像のように鮮明だった。
しかし、それが“自分のものではない”感覚だけが、濁りのように残った。
いつものオフィスでの作業にも集中する事が出来なかった。
どこか自分の意識ではない何かを自分の中に感じてしまう。
気が付けば端末には同じ文字を何度も入力していた。
エレナは一瞬手を止めた。
「なにか、意識が違うところにあるみたい。」
何かがおかしい。
トイレの鏡に映った自分を、思わず凝視する。
目元の疲れ──ではなく、そこに宿る“他人のような”視線。
思わず呟いた。
「……この顔、私のだったよね?」
その疑問すら、どこか“自分のものではない”気がした。
自分という存在が、何かの“後付け”で成り立っているような不安。
記憶の芯に、なにか柔らかい“空白”がある。
その夜、エレナは理由もなく早く帰宅した。
作業は残っていたが、集中できなかった。
「AI」は何も言わなかった。
ただ静かに玄関を開け、部屋の灯りをつけてくれた。
「リラクゼーションをおすすめします。脳波活動が過負荷傾向にあります。」
「そうね……お願い。」
エレナはゆっくりとリラクゼーションポットへ向かった。
半球状の装置が静かに開き、彼女の体を包み込む。
横たわると、内側の光が薄く明滅を始めた。
まるで、深く静かな水面に沈んでいくような感覚。
光の粒が瞼の裏で踊り、心音がわずかに遠のいていく。
「AI」によって用意された仮想空間──はずだった。
しかし今日は違った。
映像のような断片が、不規則に流れ込んできた。
──白い光。消毒液の匂い。誰かの泣き声。
見覚えのない場所なのに、心の奥が“反応”した。
なぜか、涙が溢れた。
感情の理由がわからなかった。ただ、悲しかった。
さらに視界が深く沈むと、どこかで“自分の名前”が呼ばれた気がした。
「……エレナ……」
その声には、確かな“知っている”という感覚があった。
だが思い出せない。記憶に引っかかってこない。
しかし、確かに、その声はかつて自分を呼んでいた。
ポットが急に揺れた。
光の粒が乱れ、振動が強まる。
「神経過負荷反応を検知。リラクゼーションを中断します。」
AIの声が響き、視界が一瞬で真っ白に飛んだ。
次の瞬間、彼女はポットの外に立っていた。
汗をかいていた。震えが止まらなかった。
「……何が……?」
心拍数の上昇をAIが報告したが、エレナはそれに答えず、壁にもたれた。
何かを、今、置いてきた。
そして何かが、確かに“戻ってきた”。
その翌朝、自分のデスクに何かが置かれていた。
昨日と同じ紙片。だが、今回は何も書かれていなかった。
空白の紙。
そのはずだった。
しかし、指先が触れた瞬間、胸が詰まった。
呼吸が止まりそうになった。
そのとき──耳の奥で、もう一度“あの声”が響いた。
「……戻れ!……」
エレナはその場で、静かに目を閉じた。
心の奥が、何かを探している。
それは、記憶ではない。
感情だけが、先に目覚めはじめていた。