第3章:世界に綻びが走る
健康スコアは96.8%。
体温は36.4度、血圧は123の80。
AIの声は、今日も変わらず静かに響いた。
「本日も体調は良好です。深層睡眠の安定が確認され、脳波も回復傾向にあります。
朝食には、神経伝達物質の生成を補助するオーツプレートを推奨いたします。」
「……ありがとう。ほんと、よく見てるわね。AIさん。」
エレナは椅子に腰を下ろし、朝食に目を落とした。
整った色味、均一な温度、美しく並んだ皿。
しかし、その整いすぎた景色に、今日はどこか“冷たさ”を感じていた。
フォークを取る手が、わずかに遅れた。
自分でも理由はわからない。
ただ、心の奥で何かが“引っかかっている”のを感じていた。
通勤トラムの中。
窓の外を流れるユーニアスの街並みは、人工の秩序に満ちていた。
しかし、なぜか今日のエレナには、それが“薄い膜”のように見えた。
誰もが黙っている。
端末に目を向けたまま、感情の起伏を見せることなく揺られている。
まるで、そこにいる全員が一つのシステムの一部に思えた。
ふと、自分だけが浮いているような錯覚に陥る。
「……こんなに静かだったっけ……?」
小さくつぶやいて、目を閉じた。
だが耳の奥で、わずかな“ノイズのような音”が一瞬だけ走った。
誰の声でもなく、どこから来たのかもわからない微かな震え。
ただ、それが“本物の異常”であるような気がした。
オフィスフロア。
端末を起動すると、作業用インターフェースが自動で立ち上がる。
いつも通り、何の問題もなく。
――そう思った、瞬間だった。
「ELANA_07-R」
画面の端に、見慣れないファイル名が一瞬だけ浮かび上がった。
それはまるで、自分に呼びかけるような文字列だった。
「……エラナ……?」
その名前を呟いたとき、胸の奥がざわついた。
意味はわからない。だが、身体が勝手に反応した。
そして次の瞬間、ファイルは何の警告もなく削除された。
「そのデータはアクセス権限外です。自動修正を実行しました。」
端末の音声ガイドが冷たく響く。
画面はすぐに元の状態へ戻り、何もなかったかのように作業が再開された。
「……はい。」
エレナは短く答えたが、胸のざわつきは消えなかった。
あれは偶然だったのか、それとも――
自分自身に何かが訴えかけていたのか。
昼休憩。
配膳された昼食を前に、エレナは無意識に周囲を見渡していた。
全員が黙って、同じように食事をとっていた。
会話も、笑い声も、目の動きすら、どこか抑制されているように感じた。
そのときだった。
一人の男が、音もなく彼女の横に現れた。
名札はなく、表情もなかった。
そして、無言のまま、小さな紙片をテーブルに置いて、すぐに去っていった。
エレナはゆっくりと手を伸ばす。
指先に触れたその紙は、古びた質感を持っていた。
こんな手触りのものに、最後に触れたのはいつだっただろう。
彼女は紙を折りたたんだまま、静かに胸元へとしまった。
中を読むことを、なぜか“今はしてはいけない”と感じていた。
それが何故なのかはわからない。
しかし、何かが確実に変わりつつある。
世界がほんのわずかに軋み、音のしない亀裂が生まれているような、そんな予感があった。