第2章:名前のない夢
誰かが叫んでいた。
どこか暗い場所。
何かが焼けた匂い。
水が滴る音。
視界の隅に、誰かの姿が見えた。
「……エレナ……」
声だけが鮮明だった。
その瞬間、視界が白く弾けて、エレナは目を覚ました。
いつもと同じ天井が、淡く光を灯していた。
気温22.1度。湿度48%。外は晴れ。AIがそう言うまでもなく、すべてが“整っていた”。
しかし、彼女の鼓動は、明らかに昨日より早かった。
夢の内容はおぼろげで、形になってはいない。
だが、胸の奥に残る感覚――
それだけは確かに“現実”だった。
「おはようございます、エレナ・クロノヴァ様。
本日の健康スコアは94.1%。
体温36.7度、血圧124の81。
昨晩のリラクゼーション中、皮質活動に乱れが検出されました。
睡眠中にはストレス反応を伴う潜在夢活動を記録。内容は保存済みです。ご希望であれば再提示いたします。」
「……また“解析”されてたのね。」
「はい。データは全て、生活最適化の目的に基づいて使用されます。」
「はいはい。ありがとう、AIさん。」
エレナはベッドの上に腰をかけ、しばらくのあいだ天井を見つめていた。
その夢が、何か特別な意味を持っているわけではない――そう言い聞かせようとしても、あの“声”が、耳の奥に残っていた。
まるで、それが彼女を知っていたかのように。
洗面台で顔を洗う手が少しだけ震えていた。
理由はわからない。
睡眠不足か、夢のせいか、それとも――
鏡の中の自分が、どこか他人のように見えた。
AIによって整えられた髪。最適な栄養で維持された肌。
“正常”であるはずの身体。
しかしその目だけが、ほんのわずかに揺れていた。
「エレナ様、本日は午前の勤務予定が調整されました。
出勤時間は10時30分に変更となっております。
朝食の準備が整いました。リビングにてお待ちください。」
「ありがとう。今行く。」
いつもの声。
いつもの流れ。
しかし今日はそのすべてが、“演じられている”ように感じられた。
仮想空間で感じたノイズ。
黒く揺れる影、鉄と油の匂い、そしてあの言葉――
「……戻れ……」
あれは夢の中の幻想なのか。
それとも、完璧なはずのシステムに、不具合が生じたのか。
その答えはわからなかった。
ただ、確かなことが一つあった。
今日の朝は、“昨日とまったく同じ”ではない。
出勤中、エレナは何度も窓の外に視線を向けた。
空は青く、街は静かで、すべてが昨日と同じ。
しかし、その“同じ”に違和感を覚えている自分が、確かにそこにいた。
トラムに揺られる身体とは裏腹に、意識だけが後ろへ引っ張られていく。
仮想空間で感じたノイズ。
夢の中の声。
それらは明確な映像ではなく、ただ“ざらり”と肌をこすってくるような感覚だった。
「……戻れ……」
その言葉の続きを、思い出そうとするたびに喉の奥がつまった。
なぜか、呼吸が浅くなる。
それは、何かを“思い出しかけている”証なのだろうか。
仕事中、指先が1ミリだけ入力パネルを外した。
ほんの一瞬の誤入力に、周囲の視線が向くこともなく、AIが自動補正を行った。
「入力修正完了。問題は記録されません。」
「……ありがとう。」
だが、エレナの心は仕事に集中していなかった。
同僚たちの無表情。
ノイズのないフロア。
空気の循環。
すべてが完璧なのに、どこか“死んでいる”ような気がした。
昼食もほとんど味を感じなかった。
AIは、神経活動の安定化のために温食ブロックと温スムージーを推奨してきたが、
それすらもただの作業のようだった。
そして、ようやく一日が終わる。
AIによって最適化されたトレーニングメニューも、今夜はまるで身体の外側で動いているように感じられた。
帰宅後、玄関の灯りが彼女の歩調に合わせて調光された。
しかし、エレナはまっすぐリビングの中央へ向かった。
「今朝の夢の解析結果を見せて。」
一拍、間が空いた。
「はい、エレナ様。確認いたします。
夢活動ログ:3時18分〜3時24分に皮質活動の異常上昇を検出。
内容解析の結果――“分類不能の映像断片”が複数記録されています。
総合的に判断し、ストレス性幻覚の可能性が高いと結論づけられました。
特に再提示の必要性は認められておりません。」
エレナは目を細めた。
「ストレス……?」
「はい。前夜のリラクゼーション中、脳波に微細な乱れが確認されております。
それが夢に投影された可能性がございます。」
説明は整っている。
声のトーンも一定。
しかし、そこにどこか――“言葉を選んでいる”ような間があった。
「……分類不能って、どういうこと?」
「映像の内容がシステムの既存データと一致しなかったため、文脈化が困難でした。
視覚・聴覚ともに断片的な印象のみで構成されており、再構成が不可能と判断されました。」
エレナは一度だけ深く息をついた。
「そう……なら、いいわ。」
その瞬間、AIの応答モジュールが一瞬だけノイズを走らせた。
エレナは、それに気づくことはなかった。
「ご安心ください、エレナ様。
本日は平穏な夜をお過ごしいただけると予測されております。」
エレナは何も返さず、ソファに座った。
再び夢を見るのが、少しだけ怖かった。