~プロローグ~:音のない朝
朝の音は、この都市から姿を消して久しい。
目覚まし時計の電子音も、差し込む陽光の眩しさも、窓を開けたときのひんやりとした風の感触すらここにはない。
人工都市 《ゼーレ》
地表から7km上空に構築された浮遊型人工生活圏である。
第6構成区【ユーニアス・エリア】では、都市自体が巨大な生体システムとして設計されており、人間の睡眠、生活習慣、健康状態に至るまでが、最適化されたアルゴリズムによって丁寧に制御されていた。
エレナ・クロノヴァが目を覚ましたのは、午前7時02分14秒。
深層睡眠から浅いレム睡眠へと移行した瞬間を、ベッドに内蔵されたAIが正確に捉える。
床の温度がわずかに上昇し、天井が呼吸するように光を滲ませた。
肌が心地よく目覚めを感じるそのタイミングこそが、都市が導き出した“最良の朝”だった。
ゆっくりとまぶたを開くと、AIシステムの声が室内に淡く響いた。
まるで、空気が言葉を話しているようだった。
「おはようございます、エレナ・クロノヴァ様。
本日の健康スコアは98.2%。睡眠効率良好。
体温は36.4度、血圧は112の73。
ホルモンバランス、腸内環境ともに安定しています。
ユーニアス・エリアの現在の気温は21.3度。
湿度48%。
春から初夏にかけての、やや乾いた爽やかな空気が一日中流れる予測です。
推奨される活動時間帯は午前9時〜午後3時。
軽い運動が自律神経の活性化に効果的とされています。
本日のお勧め衣服:通気性に優れたリネンベースのロングシャツ。
心拍数と皮膚電位の状態から、ペールブルーの配色を選択いたしました。」
「朝から完璧でご機嫌ね、AIさん。」
「私の機能は、つねに平常です。ありがとうございます、エレナ様。」
彼女はベッドから足を下ろし、ゆっくりと立ち上がった。
床がやさしく体重を受け止め、彼女の体温に合わせて微細に調整されていく。
クローゼットが静かに開き、AIが推奨した衣服が宙に浮かぶように現れる。
それはペールブルーの軽やかなリネン素材で、彼女の肌にすっと馴染んだ。
まるで、彼女自身の一部であるかのように。
ダイニングに向かうと、テーブルにはすでに朝食が用意されていた。
食材の栄養構成、香りの強度、咀嚼リズム、そして嚥下のタイミングまで――
すべてが彼女の身体データに基づき、完璧に設計されている。
「昨晩の睡眠中、軽度の胃内停滞が確認されました。
また、昨日の夕食に含まれていた酸性食品が、やや胃酸の分泌を促進した傾向がございます。
本日の朝食には、消化吸収に優れた豆乳リゾットと、発酵野菜のコンポートをご用意いたしました。
ミネラル補正のため、微量元素を強化したスープも併せております。」
「はいはい、今日もご指導ありがとう。ほんとよく見てるわね、AIさん。」
「光栄です。私の役目は、エレナ様に“理想的な朝”をお届けすることです。」
彼女は苦笑しながら、スプーンを手に取った。
して、一口目を口に運んだ直後――手が止まった。
何かが、違う気がする。
味でもない。香りでもない。完璧なはずのその食事が、なぜか遠く感じた。
「……じゃあ、私は今日、何を“選んだ”んだろう?」
ふいに、頭の奥にノイズのような映像が走った。
白い空間-
不規則な音-
誰かの泣き声-
遠くから、自分の名前を呼ぶ声――
しかし、目を開けたときには、何も残っていなかった。
ただ胸の奥に、微かなざわめきだけが、残っていた。
目の前には、整えられた朝食。
耳の奥には、無機質でやさしい声。
「本日も、素晴らしい一日となりますように。」
エレナの一日は、いつもと変わらずに始まる。
――しかし、“何か”が、ほんの少しだけズレ始めていた。