ディアナル
深い深い森の奥。
木々のざわめきと、風の音だけを友とする世界。
人知れず。
社会から隔離された人々が住まう場所。
魔女たちの村。
「ディアナル。
ディアナル。
どこにいるの?」
張りのある女の声が響く。
集落の一角。
歴然たる美貌をもった女が歩く。
グラードラという。
「お師匠さま。
ここです」
屋根の上から落ちてくる声。
若い娘の声だ。
「なにかご用ですか?」
ぴょこ、と、ひさしから顔が覗く。
小さな眼鏡と赤い瞳が印象的な少女。
ディアナルと呼ばれた娘だ。
彼女は、捨て子だった。
赤ん坊の頃、この樹海に捨てられていたらしい。
拾ってくれたのが、師匠でもあるグラードラだ。
「今夜は満月。
集会よ」
「わかってますよ」
「わかっているなら、水浴びをして着替えてしまいなさい。
大事な日なのだから」
「はーい」
ディアナルの顔が引っ込む。
はやいものだ、と、グラードラは思った。
あれから、もう一六年になろうとしている。
小さかったディアナルが、ついに一人前の魔女になる。
このときのためにさまざまなものを教えてきたのだ。
妖艶な魔女の唇が三日月を形作る。
膝が震える。
歯の根が合わない。
「あ‥‥なに‥‥これ‥‥?」
広場を飛び回る悪霊。
魔女たちを姦してゆく異形の悪魔ども。
焚かれた麝香の煙が、薄い膜のように広場全体を包む。
「こんなところにいたのね」
「ひゃうっ!?」
不意に肩を叩かれ、声を上げてしまう。
振り向いた先にはグラードラの顔があった。
「お師匠さまぁ‥‥」
この恐怖から救ってくれるかもしれない、と、ディアナルは思った。
だが‥‥。
「あのお方が、あなたの相手よ」
淫靡な笑みを浮かべて、少女を押しやる。
中央部へと。
鎮座するものへと。
「それ」が、ゆっくりとこちらを向く。
白く秀麗な顔。
長い黒髪。
つきだした二本の角。
背中に生えた蝙蝠の翼。
爛々と輝く金色の瞳。
異形の手がディアナルの身体を掴む。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
少女の悲痛な叫びが、夜の森に響き渡った。
のろのろと。
草むらの上に身を起こす。
「ぅ‥‥」
全身を疼痛が襲った。
ぼろぼろの衣服。
ぼろぼろの身体。
一滴、二滴。
涙が溢れる。
「な‥んで‥‥?」
信じられなかった。
優しいグラードラが、親切な村人たちが、あんなことをするなんて。
「‥‥‥‥」
ふらふらと泉に向かう。
穢れた肉体を洗うために。
どうしてこんな事になったのだろう。
あんなに楽しみにしていたのに。
「う‥‥ぐ‥‥」
拭っても拭っても溢れだす涙。
だが、ディアナルの悲劇はそれで終わらなかった。
「なにこれ‥‥なんなの‥‥?」
泉に映る自分の顔。
尖った耳。
口の端から覗く犬歯。
人間のものではない。
「なんなの‥‥なんなの‥‥?」
ばしゃばしゃと水面を乱す。
むろん、そんなことをしても現実は逃げ去ってくれなかった。
「アタシ‥‥どうなっちゃったの‥‥?」
呟き。
答えるものもいないはずだった。
しかし、
「魔族との契約だ」
背後から声が響く。
同時に、衣服とタオルが岸辺に投げられた。
「後ろを向いているから。
水浴びしたらそれに着替えろ」
ぶっきらぼうな。
だが、優しい声。
「ジハード‥‥」
子供の頃、よく遊んでくれたお兄さん。
何年か前に村を捨て、出て行ったのではなかったか。
いつ戻ってきたのだろう。
それに、どうして知っているのだろう。
「‥‥もういいよ‥‥」
「そうか」
それでも振り返らずに、ジハードと呼ばれた男が頷く。
「アタシ‥‥」
「すまん。
間に合わなかった」
「なんで‥‥なんでこんなことに‥‥?」
「最初からグラードラは、そのつもりだったんだよ」
ぽつりぽつりと青年が話し始めた。
ディアナルは捨て子などではなかった。
彼女の師匠が、後継者とするために赤ん坊を誘拐してきたのである。
「じゃあ‥‥じゃあ‥‥?」
「いや‥‥残念ながらディアナルの両親は見つからなかった。
方々を探し回ったが‥‥」
「そう‥‥」
溜息。
現実感がなかった。
今まで信じてきたことが、すべて崩れ去ってしまったのだから。
嘘だと叫びたかった。
しかし、昨夜起こったことは紛れもない事実。
身体に残る痛みが証拠だ。
「ディアナル。
逃げるんだ。
もうこんな場所にいちゃいけない」
「でも‥‥アタシは森の外なんかしらない‥‥」
「こいつが道を知っている。
あとについて行けばいい」
躊躇う少女の目の前に、緑色のインコが現れる。
『イクヨ。
イクヨ』
なんだか生意気そうな声だ。
くすりとディアナルか微笑んだ。
ずいぶんと久しぶりに笑ったような気がする。
「森を出たらアイリーンという街を目指すんだ。
そして花木蘭という人に会え。
必ず力になってくれるから」
そう言ったジハードが小さな革袋を手渡す。
ずっしりと重かった。
「これは‥‥お金?」
「ああ、何をするにも金がいるからな」
「勝手なことをしてもらっては困るわね。
裏切り者ジハード」
突然、第三者の声が割り込む。
驚く二人。
四つの瞳から放たれる視線を受けて立っていたのは、
「お師匠さま‥‥」
「グラードラ‥‥」
絞りだすような声。
妖艶な笑みが、女の顔に刻まれる。
「余計なことを吹き込まれると困るのよ。
せっかく上手くやってきたのにさ」
「貴様にこの娘の人生を弄ぶ権利はないっ!!」
「もう、ヒトじゃないけどね」
くすくすと笑うグラードラ。
ディアナルの顔が蒼白になった。
この期に及んで、師匠を信じる気持ちがまだ幾ばくかはあったのだ。
「そんな‥‥そんな‥‥」
立ちすくむ少女を庇うようにジハードが立ちはだかる。
「ディアナル。
走るんだ」
小声。
「‥‥‥‥」
「ここは俺が引き受けた。
アイリーンで会おう」
「‥‥うん」
脱兎のように駆け出す少女。
それでいい、と、青年は思った。
一日。
たった一日、救出が遅れてしまった。
これからディアナルは、魔族の血と戦わなくてはならなくなってしまった。
「責任‥‥とらないとな」
一部の隙もなく剣を構える。
「ふふふ‥‥私とやり合うつもりか‥‥」
グラードラの微笑。
「俺じゃアンタに勝てないが‥‥足止めはできるからな」
相打ち覚悟。
否、自分が死ぬのは良い。
ただ、その前に少しでも時間を稼いでやる。
覚悟を決めた笑いが、青年の顔に刻まれた。
エピローグ
小汚い少年がアイリーンに辿り着いた。
どこからきたのだろうか。
顔は垢じみて、着ている服も粗末だ。
よろよろと。
人にぶつかり、よろけながら、訊ね歩く。
「花木蘭という人をしりませんか‥‥?」
雑踏。
大陸一の大都会が、少年の恰好をしたディアナルを飲み込んでいった。
邂逅の時が、近づいている。