ルシア(ルシフェーラ・ウェイトリィ)
空けゆく空。
煌めく剣火。
稲妻のように。
暁闇の靄の中を、騎影が駆ける。
二騎。
黒髪が闇に溶けるようになびく。
ただの速駆けではない。
左手だけで手綱を操りながら。
トリエラ・ウェイトリィと、ルシフェーラ・ウェイトリィの右手に握られた剣は、すでに人血に染まっている。
決死の逃走劇だ。
「姉さん‥‥」
ルシフェーラが言った。
「大丈夫。
夜が明けて街道に出れば、連中は諦めるわ」
トリエラが応える。
虚言ではない。
敵は現段階で目立つわけにはいかないのだ。
人気の多い場所まで駆けて目撃者を増やせば、彼女ら姉妹の勝ちである。
ただし、それができれば、の話ではあるが。
トリエラとルシフェーラは、セムリナ公国の軍人である。
といっても、華やかな槍働きをもっぱらにする騎士などではない。
影に生きる諜報部員だ。
功績を称揚されることもなく、歴史に名を刻むこともない。
影働きという。
そのような諜報部員のなかでも、彼女らは特殊な存在だった。
双子だからではなく、家柄が良すぎるからである。
名門ウェイトリィ伯爵家の令嬢だったのだ。
それが、どういう契機が家出同然に家を飛び出して、軍に身を投じた。
余程の事情があることは、想像に難くない。
むろん、何不自由なく育った貴族の娘にとって、軍の訓練は過酷を極めた。
だが、姉妹は互いを励まし合いながら、ついに一人前の諜報部員となる。
その後、同一の任務に従事することは少なかった。
目立つから、というのが最大の理由である。
たしかに、双子の間諜など人目をひきすぎることおびただしい。
仲の良い姉妹だけに、あまり会えないのは寂しくはあったが、それでも休暇が重なる都度、一緒に買い物に出掛けたり芝居見物に行ったり。
普通の少女として過ごしたものである。
そして、ふたりが一七になったとき、ひとつの命令が下る。
『ルアフィル・デ・アイリン王国に潜入し、同国において蠢動している主戦派の動向を探れ』
ついにきた、と、ふたりは思った。
セムリナ公国の主戦派の領袖といえば、彼女らの父ダズルである。
尊大で、自己中心的で、暴君で、母を自殺に追いやった唾棄すべき男。
トリエラとルシフェーラが軍に入った理由の一つに、あの男の野心を挫く、というものがある。
「絶対に暴いてやる‥‥」
「‥‥ええ。
戦争なんか起こさせない」
視線を交わしあう姉妹。
決意を込めて。
当初、諜報活動は上手くいっていた。
なにしろ双子である。
コンビネーションは完璧であった。
順調に情報を集め、武器の横流しなどの情報を掴んでゆく。
「やっぱりフレグが一枚かんでるのね」
「航路の利権が欲しいんでしょ」
「そのあたりの分析は、参謀部にやってもらいましょう」
「ええ、いまはこれを本国に持ち帰るの‥‥」
言いかけて、ルシフェーラが表情を引き締める。
トリエラも剣を掴んでいた。
「囲まれてるわね‥‥」
「三〇ってところかしら‥‥」
「か弱い女ふたりに大げさね」
拠点にしている安ホテルだ。
不敵に笑った姉が、視線で指示を送った。
最も薄い部分を突破して、相手の馬を奪って逃走する。
三〇対二で勝負になるはずもないのだから、当然の選択である。
「行くわよっ」
「了解っ」
窓を蹴破って飛び降りるふたり。
ひさしで一転し、勢いを殺して地上に降りる。
怒号が追ってくる。
「はぁっ!」
「とぉっ!」
白銀の剣光が途中から深紅に変わり、鞍上から男が転がり落ちる。
どさりどさりと、音がふたつ。
一瞬後、トリエラとルシフェーラが
馬に拍車をくれ、猛然と駆けだしていた。
このとき、姉妹は自分たちの失敗にまだ気づいていない。
アジトにするなら人里離れた安ホテルなど選ぶべきではなかった。
また、逃走の際、宿に火をつけるべきだった。
そうすれば、その火でアイリン王国軍を呼び寄せることができる。
もちろんホテルの人や他の泊まり客には、大迷惑だろうが。
「はぁっ!」
「はいやぁ!!」
風車のように鞭をくれ、激しく手綱をしごき、漆黒の闇を駆ける。
駆ける駆ける。
駆け抜けてゆく。
遠くの街明かり。
弱々しい月光を頼りに。
風のように。
閃光のように。
背後には追っ手の気配。
すっとトリエラが体勢を入れ替え、ルシフェーラの馬の後背についた。
敵が弓矢を使う可能性を考慮したからである。
二騎が横に広がっていては、的を増やすことになってしまう。
そして自分が妹の盾となるのはトリエラにとって当然のことだった。
暗闇でそうそう当たるものではないだろうが、用心するに越したことはない。
ないはずだが‥‥。
哀しげな嘶きを発して、トリエラの馬が横転する。
とっさに宙を舞った少女。
危なげない着地。
これだけでも彼女の体術の非凡さが伺えるだろう。
「姉さんっ!?」
ルシフェーラが駆け戻ろうとする。
馬が一頭だけになってしまった。
二人乗りで追っ手を振りきれるだろうか。
然らず。
トリエラの頭脳が解答を導く。
このような事態になってしまった以上、
ひとりが囮となってもうひとりを逃がすしかない。
「‥‥三パーセントくらいかな?」
内心で呟くトリエラ。
生きて帰れる確率だ。
それでも、彼女が敵を引き付ければ、
ルシフェーラが脱出できる可能性がぐっと高くなる。
「ルシア」
「はい」
「元気でね」
何の緊張もなく、気負いもなく。
トリエラは剣の腹でルシフェーラの馬の尻を叩いた。
竿立ちになったあと、猛然と駆け出す。
「姉さんっ!?
姉さん!!!」
遠ざかってゆく妹の声。
「さて‥‥あの世への旅は一人じゃ寂しいからね。
できるだけたくさん付き合ってもらうわよ‥‥」
刻まれる微笑。
怒りよりもなお凄味のある。
青い月が、夜叉と化す少女を照らしていた。
エピローグ
猛然と駆けていた馬がいななく。
口角から吹き出す泡。
疲労の限界を越えていたのだ。
どう、と、倒れ込む。
ルシフェーラは、前方に投げ出された。
普段の彼女であれば、受け身くらいは取れたかもしれない。
だが、後方で消えた姉の気配に気を取られていた彼女は、大きく空中で弧を描き、頭から石畳に落ちる。
二度、三度。
壊れた人形のように、バウンドするルシフェーラ。
常人ならば、死んでいてもおかしくない。
「ぅ‥‥」
ふらふらとでも立ちあがることができたのは、日頃の訓練の賜物だろう。
「石畳‥‥街の中‥‥?」
周囲を見回す。
とうやら、街に逃げ込むことはできたようだ。
「これで‥‥逃げ切れる‥‥?
逃げる‥‥?」
ぽつりと呟く。
誰から逃げるのだろう。
そもそも、どうして自分はこんなところにいるのだろう。
答えを求めるように視線を走らせる。
遠くに灯りが見えた。
看板だろうか。
よろよろと。
自然にルシフェーラの足がそちらへ向かう。
巡礼の聖者のように。
答えを探す探求者のように。