フィランダー・フォン・グリューン
誰も死なない戦争というものはありえない。
戦う以上、犠牲が出るのは当然だ。
そして動員数多くなればなるほど、戦死者の数も増えてゆく。
その結果として、勝った方も負けた方も人材が払底する。
戦が愚行である良い証左であろう。
ガズリスト・バール帝国がルアフィル・デ・アイリン王国へ侵攻したジャスモード平原会戦。
アイリン軍は六万人を越える死者をだした。
前哨戦から数えると、損害は一〇万近くに達する。
かろうじてバール軍を追い払ったものの、再建の苦労は想像を絶するものがあった。
六八万を数える陸軍全軍のうち一五パーセントが失われれば当然である。
大規模な再編成が必要だった。
とくに青の軍。
主力として、最大の功績をたてるとともに、最大の損害を受けた最精鋭部隊だ。
開戦時一二万五千名だったこの部隊は、戦闘終結時には八万足らずまで打ち減らされていたのである。
損失率三六パーセントという数字は、軍事評論家たちを驚愕させる、だが完全な事実だった。
激戦を極めたジャスモード会戦で、彼らがどれほどの勇戦をしたのかという証拠であろう。
「大陸一の強兵」
名誉に満ちた異称が与えられたのも当然だ。
とはいえ、名誉では腹は膨れないのも、現実だったりする。
フィランダー・フォン・グリューン中佐は二七歳。
涼しげな目元が印象的な青年騎士で、フォンの称号が示す通り準騎士ではなく正騎士だ。
軍学校を優秀な成績で卒業して九年。
二七歳の若さで中佐。
まず順風満帆といって良い軍人人生を送ってきた。
ある辞令を受領するまでは。
『フィランダー「大佐」に、大本営幕僚本部作戦課勤務を命ずる』
昇進と異動。
それ自体は珍しくもない話だ。
珍しいのは新しい赴任先である。
「大本営‥‥」
すみれ色の瞳にわずかに不審の色をたたえるフィランダー。
大本営とは王国軍の心臓部だ。
そこに招じられるとは。
名門グリューンの嫡男だということを差し引いても破格の待遇である。
まして軍では実力がすべて。
家柄や血統は関係ないのだ。
「大変な名誉だと思いますが‥‥これはどなたかの推挙なのでしょうか?」
「いけばわかるさ」
当然の質問をするフィランダーに、白の軍司令官たるサラディン中将が笑ったものだった。
そして、初出勤の日。
彼は大本営の入口で小柄な女と出会った。
年の頃ならフィランダーより五、六歳年少だろうか。
黒く長い髪をポニーテールにして、猫のように挑戦的な黒い瞳がよく輝いている。
ただ、軍服は着ておらず、ラフな恰好だ。
おそらくは下働きか、アルバイトの事務員かなにかだろう。
「おはようー」
「ああ、おはよう」
軽く挨拶を返し、敬礼すらせずにすれ違う。
まあ、わりと当たり前の反応だ。
だがこれは一生の不覚といってほどの失敗だったことに、いまの彼はまだ気がついていない。
「‥‥失礼なヤツ」
ぼそり。
後ろから声が聞こえる。
「うん?
どうしたの?」
振り向いたフィランダーの目に映ったのは、両手を腰に当てて憤慨する女性だった。
なんだか、小さな身体に覇気が満ちあふれている感じだ。
「普通、同僚に行きあったら敬礼をするものではないのか?
白の軍あがりにはその程度の常識もないのか?」
「これは失礼」
くすくすと笑いながら敬礼してみせるフィランダー。
すっと返礼してみせる女。
一部の隙もない完璧な敬礼だった。
あまりの美しさに、一瞬、青年の呼吸が止まる。
周囲の空気すら変わったような気がした。
「‥‥間抜け面だな‥‥人選を誤ったか‥‥」
なにやら女がぼそぼそと言ったが、青年騎士の耳には届かなかった。
ぼーっと、見つめている。
「いつまでそうしているつもりだ?」
「あ、いや‥‥あまりにもキミが美しかったから」
「世辞でも嬉しい。
素直に喜んでやろう」
顔色も変えずに受け止める。
なかなかの胆力だ。
あるいは、言われ慣れているといったところだろうか。
勝手に推理しながら、ふとフィランダーが心づく。
「そういえば、どうしてキミは私が白の軍からきたとわかったんだい?」
「当然だ。
これから同じ職場で働くのだからな」
「え‥‥?」
「そんなにおかしいか?」
「だって軍服も着てないし‥‥」
「あんなものは仕事中だけ着ていれば良いのだ。
出勤の時まで服装を決められてたまるものか」
言って、すたすたと歩き出す女。
「どこにいくの?」
「そなたはバカか?
作戦課オフィスに決まっている」
ようするに、案内してやるからついてこい、と、言っているのだ。
えらくひねくれた物言いだが、厚意なのだろう。
「あ、そうか」
苦笑しながら、フィランダーが続いた。
明るい室内。
それぞれのデスクで仕事をしていた者たちが、一斉に立ちあがり敬礼する。
入ってきた二人、つまりフィランダーと女に向かって。
女が軽く返礼し、やや遅れて青年騎士もならった。
「おはようございます、閣下」
士官の一人が言った。
敬称が間違っている。
フィランダーは大佐であり、閣下の称号で呼ばれる資格はない。
訂正しようと口を開きかけたとき、
「ん、おはよう」
何事もなかったかのように女が口元をほころばせた。
フィランダーの目が点になる。
記憶が正しければ、アイリン軍全軍に閣下と敬称される女性は、ただひとりしかいないはずだ。
しかし、その女性は彼より三歳ほどの年長で‥‥。
「後ろで冷や汗を流してる小僧が新入りですか?
木蘭将軍」
「ああ、噂のフィランダー大佐だ。
かなり優秀だときいていたので引っ張ってみたが、どうやらわたしの顔も知らないと見える」
ぐらりとフィランダーの視界が揺れる。
間違いない、目の前にいる小柄な女性は「常勝将軍」花木蘭大将だ。
どうして大将閣下ともあろう方が、
ジーンズ生地のミニスカートにパーカー姿で立っていたのだろう。
将官というのは、もっと重厚なものではないのだろうか。
混乱の小鳩が舞い踊る。
思考の迷宮へと転がり落ちる。
「将軍‥‥新入りをからかうのやめたらどうです?
大佐の意識、べつの宇宙に飛んでいってしまった感じですよ」
フィランダーの目前で、士官がひらひらと手を振る。
むろん、金髪の大佐どのはなんの反応も示さなかった。
「べつにわたしはからかってないぞ。
普段通りに行動してるだけだ」
「将軍の普段ってのについていける人間なんて、滅多にいないですよ」
「酷いことを言うヤツだ。
まいなす一〇四点」
「そろそろ小官のマイナスポイントも一〇万点に達しそうですね。
約束通り酒おごってくださいよ」
「わかったわかった」
ぼんやりと。
誰かの話し声が聞こえる。
どこからだろう。
なんとなく呼んでいるような気がした。
いけない。
そっちにいっちゃいけない。
戻れなくなるぞ。
理性の声が必死に留める。
だが、フィランダーの足は、話し声に吸い寄せられるように動いていた。
帰れない道と知りつつ。
エピローグ
大本営幕僚本部には、青赤白黒緑の各軍との情報を連結するために参謀がおかれている。
フィランダー大佐は青の軍担当の参謀である。
青の軍から届けられる報告や資料を、毎日、上司である王国軍最高顧問に届けるのも彼の重要な仕事だ。
「定例報告をお持ちしました。
閣下」
フィランダーが敬礼する。
「ご苦労」
相変わらず完璧な美しさをもった返礼。
幾度見ても、どきりとする。
「あ、フィランダー」
「はい?」
「空腹だ」
「出前でも取りましょうか?」
「そんな味気ないのは嫌だ。
外に食べに行く」
「お気をつけて‥‥」
「なにを言ってるのだ? そなたもくるんだ」
「‥‥小官はまだ仕事が残って‥‥」
「なるほど。
わたしの相手より、仕事を優先するわけだ。
軍人としては正しい判断だ」
にやり。
木蘭の笑顔。
にっこりと表現したいところだが、どう見てもにやりだ。
フィランダーの頬を汗が伝う。
「士官クラブ(ガンルーム)で‥‥いいですか?」
財布の中を思い浮かべながら、おずおずと訊ねる青年騎士。
花が咲くように上司が笑った。
「また誰かにたかられて金がなくなったのだな。
仕方のないやつだ」
「ううう‥‥」
「今日はわたしがおごってやる。
感謝するがよい」
歩き出す木蘭。
「はいっ!
ありがとうございますっ」
嬉しそうについてゆくフィランダー。
すでにこの段階で、自分が無理に誘われたのだということを忘れてしまっている。
いつもの情景。
太陽が、夕刻を示す長い影を作っていた。