クライム・クライマー
およそ、視覚を必要としない動物はいない。
ごくわずかな、目を退化させて他の感覚を手に入れたもの以外は。
人間は、目と耳にその感覚のほとんどを委ねているといっても良いだろう。
だから、
「ほわぁぁぁぁっ!?!?」
盛大な音を立てて、階段を転げ落ちる少年は、ある意味で当然の帰結なのである。
目隠しなどをしているのだから。
「Q~~」
思う存分転がった後、床にのびる。
彼の名はクライム・クライマー。
信じてもらえないかもしれないが、べつに変な趣味の持ち主ではない。
けっしてけっして、目隠しプレイを楽しんでいるわけではないのだ。
「いいかげん、階段くらい降りられるようになれ。
家が傷む」
「しくしくしく‥‥僕の心配はしてくれないんですか‥‥」
冷然と投げかけられた声に、哀れっぽく応える。
少しハスキーな、女の声だ。
女王さま、ではなくて、クライムの師匠に当たる人物である。
名前はセンカ。
かつてはルーンの魔法学院で学んでいたらしい。
約束されたようなものだったエリートの道を捨て、どうして北方大陸になど流れてきたのか、むろんクライムは知らない。
詮索をしようとも思わない。
人それぞれの事情というものだからだ。
それに、クライム自身にも人に知られたくないことがあったりする。
「これからずっとそれをつけてるんだからな。
視力に頼らないってのをおぼえないと」
「はぁ‥‥」
ゆっくりと身を起こす少年。
彼は、生まれついての盲目、ではない。
それどころか、いま現在でも視力を失ってなどいない。
にもかかわらず目隠しをしているのが、その知られたくない事情というやつである。
邪眼。
イーヴルアイ。
言い方はいくらでもあるが、ようするにメデューサなどがもつ呪いの瞳だ。
これがクライムに科せられた十字架。
名も知らぬ親から受け継いだもの。
魔の眷属をしめす、紫色の瞳とともに。
幾度、自分で目を抉ろうとしたかわからない。
物心も付かぬうちに捨てられ、虐げられ、寒さと飢えを友として育った。
絶望などという言葉を改めて感じたことはない。
それはいつも隣にあったから。
生きるためには何でもやった。
人生が変わったのは、センカに引き取られてからだ。
教会のマザーのように優しかったわけではない。
ぶっきらぼうで、無愛想で、だが、それでも彼女は優しかった。
なにより、クライムの持つ邪眼について、充分な知識を与えてくれた。
忌み嫌うのではなく、ともに解決の方法を探ってくれた。
やがて時が流れ、クライムはいつしかセンカの望む道を歩もうと決意する。
それは、人形使いという道。
夢を売る仕事。
楽しい物語を、美しい叙事詩を、勇敢な冒険譚を、人形を使って人々に見せるのだ。
もう、自分の人生を他人の責任にするのは終わりだ。
「決意は立派だが、その目では大道芸もできんぞ」
「がーん」
当時の二人の会話である。
まあ、邪眼をギラギラさせて、街で芸をするわけにはいかない。
客が集まるどころか、衛兵が飛んできてしまうだろう。
そこでセンカが考え出してくれたのが、この目隠しだった。
特殊な繊維で作られ、邪眼の力を封じ込んでくれる優れ物である。
が、当たり前の話だが、目隠しなどしていたら視界がゼロになるのは当たり前だ。
「いやあ。盲点だったよ」
けらけらと笑うセンカ。
この人についていくのが正しいのか、ときどき疑問に思うこともある少年だった。
すったもんだしつつもときは流れて。
それは、クライムが一八歳になる歳の、冬のことである。
一人の旅人が、センカの工房に運び込まれた。
大怪我を負った少年。
どう見ても致命傷だった。
街の魔法医も匙を投げてしまい、ほとんど死体処理に近い恰好でセンカに委ねられたのである。
実際、放っておけば少年は確実に死に至るだろう。
どこの馬の骨ともわからぬ旅人だ。
べつに放っておいたからといって、誰も文句はいわない。
仮に助けてやったとして、たいした報酬が期待できるわけでもない。
だが、センカは手を抜かなかった。
見捨てることができるような人間なら、そもそもクライムを拾ったりもできないのである。
ただし、完全に元通り、というわけにもいかなかったが。
少年の肉体は、ほとんど死んでいたのだ。
救う手立ては多くなかった。
彼女が選択した方法は合成による回復である。
いわゆるキマイラ化だ。
数週間に渡る治療の後、意識を取り戻した少年は、変わり果てた自分の姿を鏡に見出して半狂乱になって叫ぶ。
「いっそ殺してくれ」
と。
鏡には、蛇と同化し、醜い鱗が生えた己がうつっていたのだ。
少年が絶望するのも無理はない。
というよりむしろ、この状況で、命だけでも助かって良かった、と、思える人間は多くはないだろう。
化け物になってまで生きたいとは思わない。
そういうものだ。
だが、少年が考えを改めるのには、そう時間はかからなかった。
クライムと知り合ったからだ。
生まれついて呪われているクライムが背筋を伸ばして生きている。
せっかく拾った命。
拾ったからには、力の限り生きてやろう。
もう生まれ育った村には帰れないし、帰らない。
いまのでの通り名も捨ててしまおう。
「そういえば、お名前はなんと言うんですか?」
訊ねるクライム。
「‥‥‥‥」
一瞬の沈黙ののち、
「俺はスネーカー。
蛇のスネーカーとでも、呼んでもらおう」
にやりと刻まれる不敵な微笑。
なにかを吹っ切ったように。
むろんそれは、クライムの目には映らない。
映らなくてもわかるものがある。
そのことにクライムが気づくのも、もう間もなくのことだった。
少し離れた場所。
ちらりとふたりを見遣るセンカ。
「ようやっとわかるようになってきたか。
旅立ちの時も近づいてるようだね」
呟き。
やや寂しげな微笑。
窓の外には、万年雪をいただいた山嶺が、無限の連なりを見せている。