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【暁の女神亭】企画小説  作者: 水上雪乃
肖像
1/30

セラフィン・アルマリック

 晴れ渡る空。

 繰り返す波の音。

 昇ったばかりの太陽が、無数の光の剣を投げかける。

 ゆらゆらと揺れる海面。

 少女がじっと水平線を見つめていた。

 小さな船窓の向こう側は、仲間たちの命を呑み込んだ海。

 不意に涙が溢れる。


「ぅ‥‥ぐ‥‥」


 みんな死んでしまった。

 殺されてしまった。

 ぽろぽろと。

 紅の瞳からこぼれる雫。


「また泣いていたのか」


 言葉と同時に、背後の扉が開く。


「‥‥お前には関係ない‥‥」


 戸口に立つ男を睨め付け、涙を拭った。

 手首につけられた鎖が、しゃらんと鳴る。


「なぜ、あたしを殺さない?」

「死にたいのか?」


 男が歩み寄ってくる。

 ネイビープルーの海軍服の胸に海鷹を意匠したバッジが煌めいている。


「生き恥を晒させやがって‥‥」

「生きること自体、恥を重ねるものだ」


 くい、と、下顎をつかまれる。

 赤の瞳から放たれる視線と、緑の瞳から放たれる視線。

 火花をあげて絡みつく。

 運命を拓く道標のように。




 少女の名を、セラフィンという。

 姓はない。

 彼女が生まれたのは、海賊船の一室だった。

 母親は海賊どもの慰み者にされている奴隷女。

 父親は特定できないが、候補者なら男性の船員全員だ。

 そのおかげといえるかどうか。

 一六になるセラフィンに手を出そうとする男は存在しなかった。

 セラフィンの方でも、別段、父親たちを嫌ったりしていない。

 というのも、彼女と同じ境遇の子供らは海賊船団にいくらでもいたから。

 一般社会から見て異常なことでも、彼らにはそれが常識だった。

 彼女の運命が変わったのは、ほんの数日前。

 海軍の大部隊に根城が急襲されたのだ。

 父親たちも、物知りのイタチ親分も、兄弟も、みんな殺された。

 シミターを縦横に振るって、最後までセラフィンは戦ったが、数も練度も違いすぎる。

 気がついたとき、彼女は縛られた状態で海軍士官の前に転がされていた。


「ずいぶんと勇戦したようだな」


 苦笑を含んだ声。


「殺せ‥‥」


 セラフィンは言った。


「お前らはいつもそうだな。

 どうしてそう死にたがる?」

「‥‥‥‥」

「まあ、簡単には殺さんよ。

 お前には部下を何人も殺されたからな」

「嬲り殺しってわけね‥‥」

「そうかもな」


 笑いながら士官が手を振る。

 引き立てられるセラフィン。

 以来、彼女はこの小さな船室に押し込められているというわけだ。

 しかしおかしいのは、


「なんで何もされないんだろ‥‥?」


 呟く。

 疑問符が頭の上を飛び交っていた。

 このままの速度なら、明日にでも海軍の艦隊は王都アイリーンに到着するだろう。

 にもかかわらず、誰も彼女に手を出そうとしない。

 あの海軍士官もだ。


「なんなのよいったい‥‥」


 やや理不尽な怒りを抱く少女だった。




 結局、セラフィンは、姦されも殺されもしなかった。

 それどころか、裁判の被告席にも立たされることもなかった。

 件の海軍士官が身元引受人となり、彼女の身柄を預かったからである。

 むろんセラフィンには他に行くところもない。

 疑問に感じつつも、士官の邸宅に居座っている。

 そして一ヶ月がすぎ、二ヶ月がすぎた。

 セラフィンは、その士官からいろいろなことを教わった。

 彼の知識量はイタチ親分などとは比べものにならなかった。

 文字を習い、世の摂理を学び。

 幾度もの夜を語り明かした。


「どうして、あたしを殺さなかった?」

「助けられるとわかっているのに、

 わざわざ殺す必要はないだろう」

「あたしは中佐の部下を何人も殺した。

 復讐したいとは思わなかったの?」

「セラを殺せば部下たちは帰ってくるのか?」

「それは‥‥」

「いいかい、セラ。

 命はけっして蘇らない。

 現世を去った魂が帰ってくることはけっしてありえない。


 だからこそ、命は貴重なんだ。

 かけがえがないんだ。

 無駄に失わせて良い命なんてひとつもないんだよ」

「‥‥うん」


 いつしか彼女は、この金髪緑瞳の士官に惹かれていった。

 命の恩人であり、知識を与えてくれた人であり、生活の面倒を見てくれる人だったから。

 というのが、彼女が自分でつけた理由である。

 本当はそうではない。

 人が人を好きになるとき、理由などはないのだ 

 恋を知らぬセラフィンには、まだまだわからないことだったが 

 わかっていることは、


「すごく痛かったけど、痛がる以外の抵抗はまったくしなかったよ」


 彼女の気持ちは固まっていた、ということだろうか。

 半年。


「しばらく帰れないよ」

「うん、お仕事がんばって」


 背伸びしたセラフィンが、日に灼けた愛人の頬に口づける。

 彼女が愛した男は、転戦を重ねる軍人だ。

 縛り付けておくことなどできない。

 自分は情人にすぎないのだから。

 準騎士叙勲を受けた男と、元海賊の女。


「つりあうはず‥‥ないじゃない‥‥」


 去ってゆく男の背中に、そっと呟く。

 あまりにも小さなその声は、彼の鼓膜を射程に捉えることができなかった。

 粉雪がアイリーンの空に舞っていた。

 冬が街を包もうとしている。

 そして、ひとつの別れが。




エピローグ


「ラスター・アルマリック中佐は、乗艦ムーンストーンとともに撃沈。

 名誉の戦死を遂げられました。

 マーツ陛下はこれを悼み、故人に二階級特進の栄誉を下賜されるものであります」


 淡々とした声で、使者が告げる。


「‥‥ありがとうございます‥‥。

 ラスターは陛下の慈愛に感謝し‥‥

 英霊となってこの国を守護したてまつるでしょう‥‥」


 セラフィンが応える。

 震える声。

 形式なのだ。

 幾度か、情人に練習させられた。

 もし自分が死んだとき、きちんと弔問の使者を迎えられるように、と。


「奥方には、お力を落としなさいませぬよう」

「‥‥あたしは妻じゃないです‥‥」

「いいえ。

 中佐‥‥准将閣下のご遺言です。


 セラフィン嬢をアルマリック籍に入れ、すべての遺産を贈与するとのことでした」

「‥‥いりません‥‥」

「そうおっしゃらずに。

 生きるためには金銭が必要です。

 閣下の心配りを無意味なものになさいますな。

 それに」

「それに‥‥?」

「失礼ながら、たいした額の金銭ではありません。

 一年も働かずにいればなくなってしまうでしょう」

「そうですか‥‥」


 二、三言、形式的な会話を交わし使者はアルマリック邸をあとにした。

 残されたセラフィンが壁を見つめる。

 この家も自分のものになるのだろうか。

 いらない。

 こんなもの、欲しくない。

 欲しかったのは妻などという形式などではない。

 一緒に見つめる未来だ。

 それなのに、さっさと別の航路に乗り換えてしまうなんて。


「だったら‥‥あたしが追いかけるしかないじゃない‥‥未来ってやつを」


 ぐっと涙を拭う。

 着てやろう。

 あのネイビーブルーの制服を。

 誇らかに掲げもってやる。

 海鷹の軍旗を。

 溶鉱炉で燃える石炭のような紅い瞳には、迷いはなかった。




 その年の四月。

 軍学校の入学者のなかに、セラフィン・アルマリックの名があった。

 二〇歳にして佐官に任ぜられる華麗な軍歴が、いまはじまる。

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