【3】②
◇ ◇ ◇
「ねー、航ちゃん。これ、ちょっとわかんないんだけど。教えてもらえる?」
義兄の部屋を訪ねた雪音は、テキストを開いて質問する。
「どれ? あー、これ確かにパッと見はややこしく感じるんだよな。でも、一つ一つ丁寧に考えて行けば大丈夫、絶対解けるから」
「んー、こう、かな?」
航大の説明に、首を捻りながらもどうにか問題を解いた。
「そうそう、以前よりかなり飲み込みよくなったな。雪は来年受験だろ? もうちょっとだから頑張れよ」
励ましてくれる彼にも、自信なさ気な声が漏れた。
「そうなんだよ。もう高二だし、あと一年ちょっとしかないんだよね。……俺、ホントに大丈夫なのかな」
「気を抜かずに真面目にやってれば、雪なら大丈夫だって」
雪音は実のところ結構勉強ができる方ではあるのだが、航大は特別優秀なので比べる気にもならない。
何もわかっていなかった幼い頃は「航ちゃんとおんなじ学校行く!」と無邪気に口にできていた。
しかし航大と同じレベルを目指すのは到底無理だと中学の頃にはもう理解していた。
義兄の在籍する大学を知る教師も、そんな無謀なことは口にもしない。
そもそも両親は、航大にも雪音にも進路に関して本人の意思をまず尊重してくれていた。「いい大学へ行け」と強要するようなことは一切ないのだ。
雪音なりに自分に合った志望校を定めて合格できるよう努力はしているが、模試の判定などを見ても余裕と言えるほどの状況ではない。
そのため、どうしても不安が拭えなかった。
とりあえず引っ掛かっていた問題をすべて片付けて、一気に脱力した雪音は義兄のベッドに身体を投げ出す。
「こら、寝るなら自分の部屋で寝ろよ」
彼の咎める声にも、すぐには起き上がれなかった。
倦怠感もあるが、何より本気で怒っているわけではないくらいわかるので聞く気がないのもある。義兄に甘えている自覚はもちろんあったが、「兄弟」なのだから他人行儀な遠慮など不要のはず。
都合のいい言い訳で誤魔化して、雪音はそのまま彼のベッドから動く気はなかった。
「わかってる~」
「そんなこと言ってこの間もそのまま寝ただろ。俺が雪の部屋で寝る羽目になったんだからな」
つかつかと歩いて来た航大がベッドに手をついて、雪音に覆い被さるようにして文句をつける。
「あー、ごめーん。でも今日は大丈夫だから、ちょっとだけ。頭使って疲れちゃったんだよ」
「……」
無言の義兄。もしかして今日は本気で怒らせてしまったのか。
少し調子に乗り過ぎたかもしれない。起き上がろうとしたが、今度は逆に航大の身体に阻まれる形になってしまう。
「航ちゃん?」
きょとんとした表情で見上げる雪音に、航大は一瞬目を泳がせ躊躇ったように見えた。
……しかし止まることなく、そのまま見下ろしていた雪音の上に乗り上げながら抱き締めて来る。
「こ、ちゃ、……!」
何か言いかけたその口元を唇で塞がれた。
雪音の後頭部を抱えるように回した掌に力が入る。
突然のキスに驚き過ぎて硬直していた雪音が、そろそろと両手を義兄の背中に回した瞬間、彼がまるで雪音を突き放すかのように身を離した。
──何!? いまのは、いったいなんだった?
「……こう、ちゃ」
「ゴメン!」
雪音に何も言わせまいとするように、航大が目を逸らしたまま謝罪の言葉を繰り返す。
「ゴメン、雪。俺、……俺、どうか、してた」
「航ちゃん、俺は──」
ようやく口を開いた雪音に、義兄は言葉を被せた。
「雪、出てってくれるか? 部屋に戻って」
ベッドの端に腰掛けて雪音に背中を向けたままの姿勢で、航大は全身で拒絶する空気を醸し出している。
雪音はそれ以上何も言えずにのろのろと起き上がり、ベッドを降りてドアを開け部屋の外に出た。
自分の部屋のドアを開けて中に滑り込むのがやっとで、ベッドまで辿り着くこともできずに雪音はその場に座り込む。
頭の中では、航大の抱擁とキスと、そのあとの冷たい彼の声と背中の残像がぐるぐると回っていた。
ごく間近で見た義兄の顔。まっすぐ見据えてくるその瞳は、近すぎて焦点が合わなかった。
航大の力強い腕の感触が、今も雪音の身体から立ち去ってくれない。
……いや、きっと忘れたくないと感じているからではないのか。他の誰でもない、雪音自身が。
「──航、ちゃん」
ようやく零れた声に時間が動き出し、雪音は何とか立ち上がってベッドに倒れ込んだ。