【2】②
帰りが遅くなったら迎えに行くのも、義弟に告げた通り航大はまったく負担に感じてなどいなかった。
帰宅途中に前を通るマンションの敷地内の植栽に隠れて、雪音を狙う人間がいるかもしれない。
実際に、しばらく前にも近所で子どもに声を掛けたり中学生や高校生を追いかけたりする不審者が出たそうだ。
地域コミュニティを通じて注意喚起する知らせが回って来たと義母が顔を顰めていた。
雪音に万が一のことがあったら悔やんでも悔やみきれない。
「なぜあの時少しの手間を惜しんだのか」と一生苦しむことになるくらいなら、往復二十分足らずの道程などなんということもないのだ。
身体の傷もだが、それ以上に心の傷も心配だった。
──もう二度と、雪が泣くような羽目にはならないように。どんなことでも。
緒方家が以前に住んでいたマンションは2LDKだったので、一部屋は両親の寝室、もう一部屋を子ども二人の部屋として使っていたのだ。
ごく一般的な広さの洋室に二段ベッドと勉強机を二つ入れて本棚を置くと床にはほとんど空きスペースがないような状態だった。
しかし物理的にも他の方法はなかったので仕方がない。
ただ航大も雪音も小さい頃は特に、二段ベッドが秘密基地のようで結構楽しかった覚えがある。
それをわかっている親がそれぞれのベッドにライトをつけてくれたので、勉強以外はわざわざ二段ベッドの自分のスペースにいることも多かった。
そう、あのときも。
雪音の『事故』は、家庭内では今は一種の笑い話として話せるくらいにはなっていた。深刻な後遺症なり、目立つ傷が残らなかったからこそではあるものの、航大には今でもただの悔恨を伴う痛みでしかない。
表面的に合わせてはいても、どうしても笑い飛ばせなかった。
あの雪音の血、涙。
生々しい暗い赤と、透明な雫のコントラストが、航大の脳裏から消える日はきっと来ない。
哀しく、痛々しい、……どこか背徳的で美しいあの光景が。
その後、一家は雪音が中学に上がるのに合わせて転居した。
両親の通勤と子ども二人の通学も考えて、義弟が入学する予定だった中学校の学区内である今の3LDKのマンションへと。
部屋数も増えたので、航大と雪音はそれぞれ個室を与えられることになった。
航大にとっては高校三年生でようやく得た個室、ということになるが、それまでも義弟との同室生活を不満に思ったこともなかった。
むしろ常に雪音の動向に気を配れる環境がありがたかったくらいだ。
口に出したら少し、いやかなり危ないので、さすがに表に出さないだけの分別はある。
義弟の方も航大と一緒が嫌だったわけではなさそうとはいえ、やはり初めての自分だけの部屋は嬉しいようだった。
ただ、雪音はそれまで一人きりの部屋で寝たことがない。
中学生男子として恥ずかしく思うのか決して言葉にはしないものの、少し寂しいと感じる日もあるらしく用もないのに口実を並べては航大の部屋に居たがったりもした。
おそらく世間一般の男兄弟と比べれば少し異質な関係だったのかもしれないが、二人ともそれを変えたいとも変えようとも思ってはいなかった。