【6】②
「あのさ、俺と航ちゃんの関係についてお父さんやお母さんに言う必要なんかないんじゃない?」
「……それは、そうなんだけど」
一歩踏み込んだ発言をする雪音に、航大は簡単には頷けないようだ。
「航ちゃんはお母さんに黙ってるのが後ろめたいんだよね? それは俺もわかるよ。でももっと小さい時ならともかく、俺はもうお母さんに何でも話したりしないんだ。もし他の人と付き合うことがあっても、いちいち報告なんてしない。航ちゃんもそうじゃないの?」
「まぁ、な」
雪音の勢いに押されるように、しぶしぶ肯定を返す義兄。
「だからこっちからは何も言わないようにして、もし付き合ってるうちに気づかれることがあったらその時に考えようよ」
「雪──」
いつもいつも追い掛けていた、尊敬して憧れていた義兄が、ほんの一瞬まるで小さな頼りない子どもの姿に見えた。
それは単なる幻覚ではない気がする。
見えない傷跡を両手で抑えて顔だけは笑っている、幼かった航大は確かにいたのだ。現在と繋がる、どこかの時空に。
「……俺が子どもで考えが浅いのかもしれないけど、お母さんは頭ごなしに反対とかしないと思う。応援してくれるかまではわかんないけど」
ゆっくりと一言ずつ区切るように、雪音は考えをていることを話す。
「それしかないかな。なんとかバレないように願うよ」
航大は雪音の素直な気持ちを否定せず、苦笑と共に承諾してくれた。
「航ちゃん、前みたいに勉強教えてくれない? もちろん忙しいと思うからたまにで、暇のある時でいいから」
「そうだな。俺もこれからは定期的に家に帰るようにするよ。必ず事前に連絡するから、雪もそれまでにわからないこととか訊きたいこととか纏めといて」
軽く口にしてから、彼は表情を引き締めて少し硬い声を発する。
「だから雪、もうここには来ないようにした方がいい。会いたかったら今も言ったけど俺が家に帰るし、それこそ外で会ってもいい。でもここには」
「……あの、どうして? いや、どうしても来たいってわけじゃなくて来ないのは別にいいんだけど、なんでかなって」
純粋に疑問で尋ねた雪音に、義兄は真面目な顔を崩さない。
「雪、まだ高校生だろ? この部屋で二人きりになるのはよくないと思う。俺も、以前は結構自制心には自信あったんだけど、あれ以来結構揺らいでるし、だから」
航大が言い難そうに、それでも真剣に告げて来るのを雪音も真摯に受け止めたかった。
「……わかったよ。大学入るまでここには来ない」
「悪いな。でも、少なくとも雪が高校卒業するまでは、俺はこれ以上何もする気ないから」
こういうことを正面切って真顔で告げる義兄だから、きっとこんなに好きになった。
優しくて誠実で、……皆が思うほどには強くないこの人を。
「航ちゃん、握手して。それくらいならいいよね?」
雪音の申し出は想定外過ぎたのか、航大はしばし無言で固まっていたが、そのまま右手を差し出して来た。
その手を右手だけではなく、両手で包み込むように握る。
この温もりを抱いて、義兄のいない日々を耐えて過ごすために。
ふいに航大のもう一方の手が雪音の顔に伸びて来た。
「……もう二度と、お前を泣かせないって決めてたのにな」
ああ、自分は今、泣いているのか。
まるで他人事のように心のどこかで考える雪音に、航大の左手の指の背で目元を拭われた。
涙なんていつ以来だろう。
航大が出て行くと聞かされた時、実際に別れたあの日、彼を想って苦しんだ日々。
それでも涙は出なかった。心が乾ききっていたかのように。
そうだ。身のうちに潤いがなければ、涙さえも出ないのだ。
「こ、これは悲しいとか痛い涙じゃないから! ノーカウントだよ!」
航大が口にする「涙」が何を指しているのかくらい、雪音にもよくわかっていた。