【1】①
「ただいま。お母さん、雪は?」
アルバイトを終えて帰宅した航大の問いに、ソファに座ってテレビをみていたらしい涼音が答える。
「航ちゃん、お帰りなさい。雪ちゃんは今日塾だから、もう三十分もすれば帰って来ると思うけど」
「え? 今日だった?」
寝耳に水で驚く航大に、彼女の返答はなんともあっさりしたものだった。
「今月から少し変わったのよ、科目と曜日が」
「曜日だけで時間はそのままなんだよね? 俺、駅まで迎えに行くよ」
話しながら、肩に掛けたバッグから早速スマートフォンを取り出そうとする。
「もう、航ちゃん。迎えなんていいわよ、山奥の一軒家でもあるまいし。家まで駅から歩いて十分もかからないのに」
彼女の呆れたような言葉にも頷けなかった。
「でも、塾の日は雪が帰って来るの十時過ぎるだろ? 駅前通りから逸れたら急に人通りなくなるし、途中大きなマンションが並んでて死角も多いから数分でも安心できないよ」
傍から聞いていれば、まさしくくだらない言い分なのだろうこともわかっている。
「ホントに航ちゃんは雪ちゃんに甘いんだから。もうあの子も高校生よ」
涼音の苦笑いは受け流して、航大は雪音にメッセージを送る。
《今日、塾だったんだな。迎えに行くから着く時間わかったら知らせて。》
いつものことなので、雪音もあっさりと最寄り駅に着く予定時間を送信して来た。
雪音は航大の義理の弟だ。
十二年前、航大が十歳の時に両親が結婚した。
航大の父は所謂「バツイチ」だが、雪音の母は未婚のシングルマザーだったため初婚になる。
五歳で親が離婚して実母が出て行って以来、祖父母の手助けはあったものの父と二人暮らしだった航大には、いきなり『お母さん』と四歳の『弟』ができたのだった。
子連れ同士での結婚ということもあり、双方の親はとにかく「子どもの意志」を尊重しようとしてくれたようだ。
相手の親子との相性を確かめる意図だったのだろうが、半年ほど二家族四人での交流を続けていた。」
あちこち遊びに出掛けたり、食事をしたり。
遊園地に行ったことも何度かあった。
あるとき雪音がメリーゴーラウンドに乗りたいと言い出したため、義母が「じゃあママと一緒に」と促すのに彼は「航ちゃんとがいい!」と航大の手を掴んだ。
「航ちゃん、もう大きいのにメリーゴーラウンドなんて嫌じゃない? 小母さんが行くから無理しないでね」
気遣ってくれた彼女に否を返し、雪音の手を引いて馬ではなく彼の希望で馬車に乗ったのだ。
少し驚きはしたものの、嫌だとは考えもしなかった。
特に幼い子の扱いが上手いわけでもない、自分でも「いいお兄さん役」を演じられていたとも思えない航大に、素直に懐いてくれる雪音をただ可愛いと思った。
それは涼音も同じくだ。ともに過ごす中で、「この人は信用できる」と肌で感じていた。
終わって見守る母の元へと駆け出した雪音を、「走っちゃ危ないよ!」と慌てて追い掛けたのを覚えている。
「雪ちゃんは転んで膝擦りむいたくらいじゃ全然泣かないのよ。保育園でも先生が驚かれるくらい」
捕まえた彼と手を繋いだ航大に、義母がそう言って笑っていた。
明るく感情豊かな雪音は、むしろ「すぐに涙を零すが、気がつくと笑っている」ようなイメージさえ受けるのに。
遠くてどこか甘い、懐かしい記憶。
義母の涼音のみならず、父の隆則にも雪音のことを知る友人たちにも。
周囲の人間に例外なく過保護と言われる航大の行動や考えの元には、過去の後悔があった。
今も耳の奥に残っている気がする、泣き声。
そして、目の奥に焼き付いたかのような、色彩。