理沙の過去とエリーナの決意
2日後、ライナス様は深夜に蟲狩りの任務より戻られていた。朝に挨拶に部屋に向かうと扉の前に立つ使用人から「旦那様はまだお休みでございます」と断られた。
その後、昼過ぎに部屋で本を読んでいると馬にまたがり、屋敷を後にする旦那様姿を見た。
こうして輿入れしてからあっという間に10日が過ぎ、ライナス様と顔を合わせることなく食事を一人で取るのが当たり前になっていた。
「おや、奥様こちらでしたか」
「アール。今日もここで本を選んでいたの。ここは様々な本があるからついつい入り浸ってしまうわ」
アールはそんな私を少し複雑そうな顔で見ていた。
多忙かつ私を寄せ付けない旦那様。必然、当然一人の時間が長くなる。
その多くの時間を、孤独から逃げるように図書室で過ごしていた。
いく場所なんてない。
結局私はどこで生きても、檻の中なのだ。
ひら・・・ひらひら・・・。
本の前を蝶が横切る。驚いて顔を上げると、部屋の中をひらひらと蝶が飛んでいた。白い蝶だった。
どこからか迷い込んだのだろうか。
部屋の中をしばらく自由に飛んでいたが、やがて窓際に飾られた花瓶の花に吸い寄せられるようにとまる。
近づいてみると、花の蜜を吸っていた。
「お前は自由なの?」
答えなどないとわかっていたが、つい尋ねていた。
私は前世でも、囚われの身だった。
母は今でいう毒親だった。小さい頃から私は常に母の言いなりで、母は私たち兄弟が自分の望み通りにならないと激しいく叱責し、何時間も怒り、何日もの間不機嫌を隠そうともしなかった。
そして「この裏切り者!!」と泣くのだった。
だから早く家を出たかった。兄は実家から飛行機の距離に就職をし、妹は逃げるように大学中にアメリカへと留学をした。一人逃げ遅れた私は大学在学中、母の支配下にいた。
大学卒業後、憧れの広告業界に就職し上京した。初めて母の支配から離れ、手に入れた自由。呼吸が楽だった。自分に決定権があるのが嬉しかった。母の顔色を窺わない生活がこんなにも開放感があるとは知らなかった。
が、ある日母から電話があった。嫌な予感がした。その予感は的中。
「戻ってきて地元の市役所に勤めろ」と迫ってきたのだ。いやだった。あの面白味のない片田舎も、母のそばにいることも嫌だった。この自由を手放したくなった。
少しの間だったが母の呪縛から解かれていた私は勇気を出して断ると、「この裏切り者!!」と電話口で母は叫んだ。
ガチャ。
一方的に電話を切ると部屋を飛び出した。母の声が頭から離れなかったから。
呼吸が苦しい。胸が痛い。
自由になりたかった。やっと地元から逃げてきても、母からは逃げられないという絶望がのしかかる。
街灯の少ない住宅街をあてもなく彷徨い、そしてあの事故にあった。
「お前は自由なの?」
もう一度、声をかけると蝶はその問いに答えるかのように、開いていた窓から大空へと羽ばたいていった。
あんな風に私も自由に飛べたら。自由に行きたいところへ行くことができたなら。
だがすぐに馬鹿な考えだと、考えるのをやめる。決して叶うことがないのだ。
前世では母に縛られ、自由になりたいと転生した先でも罪人の娘という囚われの身。そういう運命なのだ。
「旦那様とお会いしなくなって、かれこれ一週間は過ぎております」
いつもは無駄話をしないシイラから「奥様!よろしいでしょうか」と突然詰め寄られ、何かと思うとこの話題だった。
そうね、最後に顔を合わせたのは旦那様が朝出かけるところだった。
おはようございます、私の言葉に「ああ、おはよう」と一言。情のない挨拶を交わして、振り向くことなく足早に出かけていった。
「差し出がましいかと思いますが奥様、旦那様と顔を合わせ些細なことでも良いので言葉を交わしてください」
言いたいことはわかっている。
「わかっているわ。でも旦那様はお忙しいし、何より私に情がないのよ」
「だからこそ会わなければいけないのです」
と食い下がらない。
「今しつこくしても疎まれるだけよ」
誰だってそうだ。興味のない人間に親しげにされても、余計に疎ましいだけだ。塩対応をされて終わり。
シイラは、いいえと首を振る。
「自分を歓迎してない人と言葉を交わすより、一人でいる方が楽なのはわかります。今晩お会いになっても見向きもされないでしょう。厳しい言葉に冷たい視線、辛いことと存じます。でも会わなければなりません」
わかっている。私は嫁入りしたのだ。
妻としての役割を果たさなければいけない。世継ぎなき結婚は解消されることもある。
だとしても、あの方は私に露ほどにも興味がなく、またお飾りの正妻であることを望んでいるようだった。
そんな人に笑顔を振りまいても、追い出されるだけだろう。
「だとしても会わなければいけないのです」
?
どうしたのかしら、侍女であるシイラが主人にこんなにも強く意見を言うなんて。
「よろしいですか、顔を合わし言葉を交わすからこそ情が湧くのです。エリーナ様、私たちに必要なのは旦那様の情なのです」
愛はいらぬ。情で良いというの?
確かに私の立場はとても弱く陽炎のようだった。誰も知り合いのいない異国に嫁ぎ、主人の寵愛もない。そして祖国の後ろ盾も何もない。
辛うじて正妻という肩書があるだけで、それも消えかけの焚き火みたいに、今すぐに新しい薪をくべないと炎が消えてしまいそうだった。
「エリーナ様、最初から諦めておいでではございませんか」
心を見透かしたような台詞にギュッと心臓が痛くなる。
「例え愛がなくても、情があればいざという時に守ってもらえます。エリーナ様が旦那様をどう思っていようとも、ライナス様はここの主人なのです。私たちの運命など彼の方の一言で決まるのです。ライナス様が主人だと心に刻むべきです」
いつになく真剣な彼女の言葉が頭を離れなかった。
その通りだった。
私は甘えていた。
ぞんざいな扱いをうけ、こちらが歩み寄っても冷たくあしらわれる。それであれば一人で自分の時間を過ごす。その方がずっと楽だ。
でもいつまでその生活を続けれられる?
今は従順な使用人たちもいずれ横柄な態度になるだろう。それに宮殿で幾度となく目にした、皇帝に忘れられた妃たちの末路。
正妻の皇后以外の複数の側室たち。寵愛がなければ、側室という立場であっても陛下と話すことも会うことさえない叶わない。寵妃の楽しそうな笑顔の陰で、寂しく長く続く無限の夜をひたすらに過ごすのだった。後ろ盾も、運もなければ生涯陛下とは縁はない。
いずれ遠からず訪れる私の未来でもあった。
本心は別にこのまま朽ち果ててもいいと思っていた。
現世ではやっと母から逃げたと思ったのに、死んでしまった。そして転生先もバッドエンドが確定した悪役令嬢、ハズレくじそのものじゃない。何をしてもどうせダメだと、既に諦めていた。
一度死んだ身、未来の幸せを神に祈る気も無い。
どちらでもよかった。流刑先で死ぬのも、異国の地で朽ち果てるのも。行く末は同じ。どうせ死ぬのならばせめて貴族の身分で・・・それだけの思いだった。
後から思えばこの時のシイラが必死なのは当たり前だった。付き人と主人は運命共同体。
主人が厚遇されていれば、自分の待遇もよく、主人が失脚すれば共に流刑の地で貧困生活。下手をすれば共に処刑されてしまう。
シイラは遠い異国の地で自分の身を守るのに必死だったのである。
とはいえ、私も目が覚めた。
拒絶、拒絶、罵倒、罵倒、無関心。
例えそれが続こうとも、私は旦那様に会い続けなければいけない。
わかってる。これから先、旦那様が私を寵愛することなんてないのは、初めてあった時からわかっている。でも、この命綱が切れないように可能な限り旦那様の心に私が存在しなくてはいけない。
私が生き延びる、それはあの人たちへの慰めにもなるかもしれない。
ならば、生きよう。ここで。誇り高く━━━。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。
シイラは大丈夫だろうか。
「へいき?」と尋ねると少し眠そうな顔をしてはいたが、「もちろんです。私のことはどうかお気になさらず、ご自身のことだけお考えください」
そんなやり取りを少し離れたところで、ハラハラした表情でアールが見つめたいた。小さいため息をついて。
今日からライナス様のお帰りを部屋の前で待つことにしたのだった。
ライナス様は蟲狩りであり、隊長であり、領主でもある。
多忙ゆえに家を不在にすることも多く、数日の間不在にすることも珍しくないようだった。
シイラに説得されて顔を合わせようとしても、ライナス様は気がつくと出かけていて、いつの間にか戻っている生活。
ライナス様は気まぐれで出かけることもあるようで、一通りにスケジュールを把握しているアールでさえ、その行動の全てを把握しているわけではないようだった。
特に今宵のように蟲狩りに出向いた日は、帰りはいつになるかは検討もつかないよう。
だからこそ、出迎えのタイミングを逃さないためにも旦那様の部屋の前で待つことにした。
見送りも考えたけど、私も一応この屋敷の主人なので日中は何かと目を配る必要もある。またそれは使用人たちに、私がこの屋敷の女主人であるという存在感を強めるためでもあった。
アールは当初ここで旦那様の帰りを待つと言うと驚き焦り、何とか私を部屋に戻そうとしたけれど私の意思が固いと見ると諦めたように近くで待機していた。
まあアールとしてはどうせお姫様の思いつきだ、1、2時間も経てば疲れて部屋に戻るだろうとたかを括っていたのかもしれない。
残念ながら私はそこら辺のお姫様とは違う。
流刑の身で、水汲みから薪集めまで肉体労働をしていたのだ。雨風凌げる家の中で何時間も立つことくらい何でもないのよ。
最も、前世の私なんて大学時代に時給に釣られて宅配センターで働いてたんだから。重い荷物持って一日7時間勤務してたのよ。ま、そのおかげで卒業旅行に憧れのヨーロッパへ行けたんだけど。まさか、中世ヨーロッパのような世界に転生するとはね。
やがて、屋敷がわずかに騒がしくなる。
振り返ると旦那様が使用人を従え、廊下の向こうからこちらに向かっていた。
「旦那様っ」
ライナス様は仮面越しでもわかるように、夜中に出迎えた私に驚いていた。
歩みさえ止めなかったが、困惑しているのがわかる。
「おかえりなさいませ、ライナス様」
「おいアール何事だ。屋敷何かあったのか」
当然ながら私ではなくアールへ尋ねる。
「いえ、何もございません。平穏そのものでございます」
「ではなぜこの者が・・・・」
すかさず答える。
「ただの出迎えの挨拶でございます。何日もちゃんと顔を合わせておりませんでしたので、今宵はご挨拶をと思い待っておりました」
アールへ向けられていた視線が、こちらに向く。
「おい、本当にそれだけか?」
試すような低く鋭い言い方だった。
「はい。ただ挨拶と旦那様の無事のご帰宅を確認したかっただけです」
「くくくっ、そうかそうか、俺の出迎えをな・・・」
旦那様は茶色の外套を外す。受け取ろうと手を差し出した。
が、旦那様の外套は私ではなくアールに渡された。宙に放り出された空の私の手。
「命乞いか。この屋敷で優雅な生活を送るために俺に媚を売り始めたのか」
口元を歪め、いじわるい口調で言う。私が傷つくとわかっていて、言っているのだ。
おあいにくさま。ライナス様の期待には応じられません。
「いいえ、命乞いではございません」
その言葉にわざとらしくニヤついていた表情がスッと消える。
「真の妻となり、ライナス様のご尊顔を拝するためです」
そう言い切った。
懐にもぐり込むような甘さはいらない。この人に甘さやまあるっこい癒しは不要。
強さだ。
強く凛々しく、クイット顎をあげて歩くような女。
睨まれれば睨み返すような女。
上目遣いでもしたら、蹴り飛ばされそうだ。
「ハハハハッ。よい」
深夜の屋敷に響く笑い声。
「よいぞ。勇ましい、さすが血塗られた罪人の娘だ。それでこそ我が花嫁だ」
それだけ言うと、下がれと合図を送る。
しばらくその場に留まっていたが、アールの「お下がりください」という視線を感じて部屋を後にした。
部屋に戻る道中、私は下唇をギュッと噛んだ。
そうよ、生き延びるのよ。
例え罵倒されようとも、身を落とそうとも。
前世では若くして死に、そして祖国では一度は死んだようなもの。
これは三度目の人生なのだ。
だからこそ、私はクエルで生きる。
なんとしてでも生き延びで、人生を変えてやる。腹の奥がぐっと熱くなるのを感じた。
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