9.黒いセーラー服は返り血が目立ちにくい
あれから何年が経過しただろうか。
ようやく死ねた気がした、そんなとき。
記憶は曖昧になり、ぼやけた視界の中で真っ白なドレスを着た金髪の女性を見た。女神様……その言葉がしっくりくるような人だった。異世界、なんて言葉を話していた気がする。他にもなにか重要なことを話していた気もしたが、呆然とした状態だったので大部分は聞き逃していた。
―――ここは天国?
だが、悪夢は続いていたようだ。
自分よりも前に来た男に女神は首元を噛みつかれて、彼女自身もゾンビとなり……。
やがて視界は暗転し、いくつかの悲鳴と絶叫の後、再び意識が途切れた。
「うッ!」
次の瞬間、少女は個室トイレで目覚めた。
起き上がった衝撃で木製の便座が鋭い音を立てて割れた。ペンキの禿げた木の扉が目の前にあり、足元には黄ばんだ白のタイルが広がっている。あまり掃除されていないのか汚れが目立つ。臭いもキツい。もっとも、今までサバイバル生活を送っていた少女にとっては大した問題ではないのだが。
だが奇妙なことに、記憶はその殆どが消えていた。知識と感覚は嫌というほどハッキリ覚えているのに、記憶だけが欠如していたのだ。例えるならば、鉛筆の使い方は知っているし、手も馴染んでいるが、具体的に鉛筆をどのような場面で自分が使っていたのかは覚えていない……そんな感じだ。
今ある記憶は自分の名前と、親友を救えなかったこと、そして〝中年男性〟にゾンビが蔓延る世界での生き方を教わったことぐらいだ。
少女は奇妙な感覚が渦巻く頭を抱えながら、個室から出て行く。小便器が無く、個室が連なっていることから、ここが女子トイレであることに気づき胸を撫で下ろす。トイレには自分以外の人間はいないらしい。
洗面台へと向かい、蛇口を捻る。日本のように蛇口を捻ってすぐに水が出るようではないのか、数秒待ってようやく水が出てきた。その水を両手で掬い、水を顔面にぶつける。
冷たい。生きている感覚がした。
「織田 明日音―――」
鏡の中にいる自分と向き合い、少女は脳裏に浮かんだ自分の名前を口にした。
肩まで伸びた艶めいたセミロングの髪と吸い込まれそうなほど深みのある瞳は、両方とも黒だった。それに対して肌は白磁のようで、背丈も女子高生の平均から二回りほど大きい。胸元の僅かなふくらみと腰から下の丸みがなければ、美少年と見間違えるぐらいだ。
黒のセーラー服は多少汚れていたものの、身体に馴染んでいる分、新品よりも動きやすさはあった。スカートも太ももの四分の一ぐらいも隠せていないぐらい短かったが、これも同様に動きやすさを考えれば有難かった。
記憶の中にあった日本刀は、今はどこにもない。どこかで落としたのか、刃こぼれして使い物にならなくなったのか。いずれにせよ武器がない今の状態が、妙に落ち着かない。
「異世界とか言っていたが、本当にそうだとすれば……」
この世界にゾンビはいない。
地球上にそのような場所があるとは信じがたい。しかし別世界となれば話は違ってくる。ゾンビが蔓延っていたのはあくまで明日音が生きてきた地球であり、ここが異世界とするならばゾンビはいないと考えて間違いない。
この世界にゾンビが転移してこない限りは―――。
あとは失った記憶を取り戻すだけ。自分が自分である確証がなければ、いつまでもこの宙に浮いたような感覚が皮膚の裏に張り付いたままだ。
そう感じたときだった。
「アァァァアァァァッ!」
聞き覚えのある獣のような咆哮が、明日音の左耳の鼓膜を揺らす。
トイレ入口のドアを突き破って、両手を前に出した男のゾンビが明日音に襲い掛かってきた。淡い希望は即座に否定されたようだ。
明日音は舌打ちを一つ。
それで気持ちは一瞬で切り替わる。ゾンビが突然現れるのは日常茶飯事だっただろうし、淡い希望が打ち砕かれるのも初めてじゃないはずだ。感覚で分かる。
「顔色の悪さは万国共通か」
血色を失った灰色の肌が、明日音の目の前で蠢いていた。
彫りの深い顔立ちは日本人からかけ離れており、年齢は四〇~五〇ぐらい。服装からして聖職者、それも教会の神父だろうか。真っ白な司祭服は既に大勢の血と肉片で真っ赤に染まっており、右腕には他人の腸まで絡ませていた。
「ファッションセンスは最悪……と言っても聴かないだろうな」
ゾンビの腕に掴まれたら振りほどくのは難しい。まずは回避に専念するべく、明日音は上体を右に逸らしてステップを踏んで後退し、ゾンビの腕の範囲から逃れる。
次にどう倒すかだが、素手では厳しいだろう。ゾンビの力は人間の何倍もある。余程優れた武闘家でない限り、殴り殺すことはできない。ならば武器を使うしかない。武器がないのなら、その場に武器になりそうなものを探す。鉄則だ。
明日音は即座に個室トイレのドアを蹴り破り、吹き飛んだ木片のうち一番大きいものを握り締めて武器にした。
「神父サマ、ここは」
明日音は迫ってくる男のゾンビに向かって、蹴りを放つ。狙うは身体を支えている右足首。ここを狙ってバランスを崩して転倒させた。
「女子トイレだ!」
転倒した男のゾンビに向かって明日音は馬乗りになると、鈍く動き出すゾンビの両腕よりも先に、右手に持った鋭い木片を首筋に突き刺す。抉るように捻り、首の中の血管を次々と切っていく。ゾンビは頭部を破壊するか、首を切るか、どちらかをしなければ殺し切れない。
男のゾンビは数回、明日音の体を掴もうと両腕を振るが空を切り、
「……ソウサク、ケ、ッセイ……」
そう呟いて、男のゾンビは完全に活動を停止した。
ゾンビはたまに生前の記憶を思い出したかのように口にする。それは本人のときが多いが、ごく稀に捕食した人間の記憶を見ているのか、本人以外の記憶を口にすることもあった。今、男が発した言葉は本人の記憶によるものだったのだろうか。それを知る者は、もうこの世にはいない。
「安らかに眠れ」
明日音は活動を停止したゾンビに向かって、せめてもの祈りを捧げた。
「せっかくゾンビのいない世界に行けたと思ったのにな……」
タバコの一つでも吸いたくなった。生憎、このポケットを漁ってもタバコは見つからなかったが。ゆらりと立ち上がり、明日音は独り言を吐き出した。
明日音は足で入口のドアを蹴破り、外へと出た。廊下を抜けて医務室らしき場所を通り過ぎると、広大な空間へとたどり着いた。
目の前に広がるは、ゾンビと化した異世界の住民たちが蠢く教会。搬送されてきたのだろうか、手当を受けていた騎士は包帯の巻き付いた体で治療していた神官に襲い掛かり、その肉を喰らい続けていた。
折り重なるように倒れた神官たちの死体がゆらりと起き上がり、生者の肉を求めて彷徨い始める。その足元には縫いぐるみを抱いた小さな両腕が転がっていた。教会のタイルの床は真っ白なキャンパスに赤茶色の絵の具をぶちまけたように汚れており、そこかしこに人間の内側にあるものが散乱している。
地獄がそこにはあった。
生にしがみつく者たちの命が、虚しく食い荒らされていく様子があった。
正義とか、道徳とか、誇らしさとか、そんなものを抱ける者はいない。
恐怖と絶望が人々の心を支配し、慟哭が空に巻き上がる。
「ああ、慣れ親しんだクソッタレな世界だ」
明日音はあくまでも冷静に、近くに転がっていた騎士の体に視線を向けた。どこかを噛まれたようで、既に痙攣を起こしてゾンビと化す直前の状態だ。
騎士が腰に備えていた剣を明日音は手に取る。諸刃の刃に左右に伸びた鍔、ファンタジーのゲームなんかに出てくる西洋剣と同じものだろう。
「すまない」
それをゾンビ化しつつある騎士の首筋に突き立て、一気に押し込む。起き上がろうとしていた騎士の体から頭部が零れ落ちて、そのまま動かなくなった。
明日音はあくまでも作業的に淡々とやるべきことをこなしていく。周囲に他のゾンビがいないか確認した後、騎士がつけていた鉄の鎧を剥がし始める。
手先から肘の部分までをガードする鎧部分―――ガントレットを自分の腕に装着。同様に膝から足首までのグリーヴ(すね当て)を、自分の足に取りつける。これでゾンビに噛まれやすい身体の箇所はおおかたガードできる。残りの部位は重くなるので廃棄しつつ、右手に持った剣の刃を見た。
おそらくは儀礼用か、もしくは手入れを怠っているのか。刃はそれほど鋭くはなかった。使われた痕跡もない。この世界ではあまり剣は使われないのだろうか。
ただ重さはしっかりとあったので、戦闘時は鈍器のように使えばいいだろう。
「あとは避難するかだが……」
その頃には既に明日音の存在に複数のゾンビが気づいたらしく、瞬く間に包囲されてしまう。
「ここは無理そうだな」
明日音は剣を構えて、駆け出す。なんてことはない、一〇体ぐらいのゾンビの包囲網なら容易く抜けられる。剣を振りかぶり、目の前の神官のゾンビの頭部を叩き潰す。頭部を破壊されて力が抜けたゾンビの体を蹴飛ばし、他のゾンビにぶつけさせる。ドミノ倒しのように複数のゾンビを巻き込むようにして倒れ込んだ隙に、空いたところを駆け抜ける。
包囲網を抜けた明日音は、足元を蠢く上半身だけのゾンビの頭を踏み潰し、教会の出口へと向かう。しかし出口部分には複数のゾンビがおり、このままでは前後から挟み撃ちになってしまう状況だった。
なので、明日音は地面を蹴って左方向へと進路を切り替えると、その先にある窓を蹴り破って教会を脱出した。芝生の上に転がり、着地の衝撃を緩和させ、すぐに起き上がって走り出す。
あたり一面にラベンダーの花が広がっていた。どうやら教会の庭園に辿り着いたらしい。ゾンビの影はいくつか見えたが、どれも生者を見つけられず彷徨っている奴らばかりだった。
ゾンビはある程度人を食べたら、休眠状態となる。休眠状態となったゾンビの動きは鈍重になるため、その時に一気に移動を済ませれば比較的安全に移動できるはずだ。それまでは身を隠せる場所でやり過ごすのも手だろう。
そう思い、明日音はラベンダーの花々に紛れるように姿勢を低くしようとしたときだった。
一人の少女を見つけた。
黒いシュシュを付けていた。
―――今年こそ全国大会、一緒に行くわよ!
親友の記憶が蘇る。髪色こそ違うものの、どうしても彼女に重なってしまった。似ている。幼さの残った顔立ちは瓜二つだった。彼女といれば何かまた思い出せるかもしれない。明日音の中で根拠のない、直観的な確信が生まれつつあった。
「救わないと……」
あのとき渋谷で救えなかった親友の姿を、明日音は思い出してしまった。
少女は項垂れて動こうとはしない。今この状況に絶望しているのか。そんな彼女に気づいたゾンビが静かに歩み寄ってきている。このままだと親友と同じ結末を辿ってしまう。
気づけば足が前に出ていた。
少女を助けたところで、親友を救えたことにはならないはずなのに。
なにより、明日音は〝親友が誰なのか〟さえ覚えていないのに。
「君は……君は救われなきゃならないッ」
このクソッタレな世界で一番やってはいけないこと。
それは誰かを救おうとすること。結局は無駄に終わることが多いうえに、周りの人間も巻き込む非常にリスキーなことなのだ。
明日音もそう思っていた。今この瞬間までは。
だが死んだ親友と瓜二つの少女が目の前にいたとき、正しい判断は心の中の衝動に押し負けてしまった。今まで誰かを救おうとして無駄死にした者たちと同じように。
「生きてくれ!」
明日音は少女に向かっていたゾンビを横から剣で斬り伏せて、彼女に手を差し伸べた。
「今度こそ私が君を守る!」
失った自分の記憶。
救えなかった後悔の感情
差し伸べた手の先に答えがあると信じて、明日音はそう言った。