8.【東京渋谷にて 女子高生Aさんの場合】
【 記憶 1 】
〝私〟は日本刀を持ち、立ち尽くしていた。
半分以上が崩壊して歪なオブジェのようになったビル群、割れた電光掲示板から黒煙が立ち上っている。ところどころで火災が起きており、人の肉が焼けている臭いがそこかしこからした。スクランブル交差点に折り重なって倒れている肉塊は最早人のかたちを保ってはおらず、肉片は鮮血を纏って周囲一帯に飛び散っていた。
今はただの地獄だが、かつてこの場所は渋谷と呼ばれていたらしい。
「……右肩、噛まれ、た」
そんなスクランブル交差点の真ん中で、折り重なった死体の山から這い出した一人の少女は、肉が抉れてとめどなく血が流れ続ける右肩をおさえて言った。肌の内側を流れる血液の色がどんどん濁っていき、灰色の肌に変貌していくのが分かる。
少女の着ている真っ白なセーラー服に、濁った血の赤褐色が広がっていく。
彼女の背中あたりまで伸びた黒髪は、夏休み初日に渋谷で買ったお揃いのシュシュで束ねられていた。ちょっと大人っぽいのにしなよ、と〝私〟が選んだ黒色のシュシュだった。
剣道部のマネージャーだった彼女は、部活中にゾンビ災害に遭って〝私〟と一緒に逃げ延びていた。今日、この日まで。
「どうしょう、私……」
困惑というよりも、もはや結末の決まった絶望めいた顔を向けてくる。だが、〝私〟はどう動くこともできなかった。右肩から侵入したウィルスは、既に脳まで達しているだろう。手遅れだ、殺すしかない。
「助けて……」
ああ、助けたいさ。〝私〟は歯噛みした。
「嫌……いやァ……アァアァ……」
親友の声が人間の掠れた声から、血と肉を求める獣の声に変わりつつある。
殺さなきゃ。日本刀を握り締める手に、力がこもった。
「……アァァア、ァァア……」
親友は血の色を失った顔で、必死に手を伸ばしてきた。
―――今年こそ全国大会、一緒に行くわよ!
ふと脳裏に浮かんだのは、平和だった頃の部活の光景だった。
まだ朝日が昇り切っていない頃から走り込みをする、正直面倒だった朝練も。
放課後、ひたすら打ち込みの練習をして、汗と制汗剤の臭いでいっぱいになったロッカールームも。
地区予選の決勝で負けて、二人で大泣きしたあの日も。
なによりも尊く、かけがえのない日々だと今になって気づいた。
あの日に戻りたい。
なんとかして救いたい、彼女を。
気づけば〝私〟は日本刀を握る手に力を込められず、ただ茫然とゾンビ化した親友を見つめてしまっていた。
結論から言うと、〝私〟はゾンビ化した親友を殺せなかった。代わりに横にいた中年男性が鉈で彼女の首を切り落としたことで、〝私〟はゾンビ化した親友に襲われずに済んだ。
「噛まれた奴はもう助からない。たとえそれが身内であっても、容赦なく殺せ」
髭面の中年男性は慣れた手つきで鉈についた血を払うと、茫然としていた〝私〟にハッキリとそう言った。
「いいか、俺のことを恨むんじゃねぇぞ。俺はお前を助けたんだ」
きっと彼が親友の首を鉈で切り落とさなければ、〝私〟も感染していた。だからこそ責める気にはならなかったし、怒りの感情も抱いてはいなかった。
「メロドラマの男女みたいに見つめ合って葛藤をするな。感傷は捨てろ」
この世界に希望は無い。
はじまりは小さなニュースからだった。麻薬中毒者が凶暴化しただの、反政府デモだの、迷惑行為をして動画の再生数を稼ごうとしているだの、その程度のことだと思われていた。しかし世界で同時多発的に災いは既に起こっており、やがて人々はその全貌を知ることとなる。自分の目の前で人が凶暴化―――生ける屍、ゾンビと化すことで。
未曽有の感染症を前に人々は無力だ。死者の数が生者を越えるのはもはや時間の問題だった。政府は対策予算を閣議決定する前に崩壊し、法律は六法全書の中に書かれた文字の羅列に成り下がり、道徳心は生き残るうえで切り捨てるべき考えの代名詞になった。
「今からお前に、このクソッタレな世界での生き方を教えてやる」
そうして中年男性は語り始め、〝私〟は覚悟を決めた。
この世界で生き延びるという、覚悟を。