6.ありがとう
「が、はっ……エリーナ!」
口の中に溜まった血痰を抉れた地面に吐き出して、ヴィクトリアは駆け出していく。エリーナは彼女が背中を打ちつけた巨木の反対側に倒れており、額から血を流して意識を失っていた。
横転した運搬用の魔動機械が、強い衝撃を受けた魔紋石の誤動作により発火。火の手がラベンダーの花々にまで広がっていった。炎の赤色と血の赤褐色が混ざり合い、それらを黒煙が塗りつぶす。
「返事をして、エリーナ! エリーナ!」
抱き上げた肌はゴムのように無機質な触感で、灰色に染まりきった死人のような感覚がヴィクトリアにした。息はある。ちゃんと治療すれば回復するはず。そう思い、何度も呼びかける。しかし意識は戻らなかったので、そのまま背負っていこうとした。
ヴィクトリア自身、先ほど背中を打ち付けた時に、左腕と左足を擦りむいていた。オマケに左足のヒールが折れてしまっている。エリーナのように神官らしい真面目な服装であれば……と後悔する時間もない。ただ、煙で途切れそうな意識を必死に繋ぎとめる。
先程飛び出してきた同僚の神官たちは何か様子が変だったとか、負傷した騎士はなぜ突然エリーナに襲い掛かったのかとか、そもそも今この王国でなにが起こっているのだとか、考えている暇がなどなかった。エリーナを無事に教会まで送り届け、処置を受けさせること。ただそれだけをヴィクトリアは考えていた。
「こんなところでくたばるんじゃないわよ、エリーナ」
返事はなかった。
「あんたがいないと、私もっと不真面目になっちゃうわよ」
返事はなかった。
「クレープだってまだ食べてないじゃない」
返事はなかった。
「どっちが先に恋人作れるかレースも、まだ決着ついてないじゃん」
すると返事がした。
「先、パイ……」
「エリーナ! そうよ、先に恋人作ったほうが焼肉奢るって―――」
「アァアアぁァアッ!」
しかしすでにエリーナは〝彼女〟ではなかった。獣のような声を上げて、ヴィクトリアの背中で暴れ始める。ヴィクトリアは思わず体勢を崩してしまい、ラベンダーの花々のもとに転がり落ちた。そのままエリーナは馬乗りになってヴィクトリアの両肩を掴む。割れた爪が肉に食い込み、裂けて血が流れていく。
「エリーナ! どうしちゃったのよ、やめて!」
ヴィクトリアは両肩を掴んできた手を離させようと、必死に呼びかける。
「どうして! これじゃまるで……」
非力だったエリーナとは思えないほど、両肩に食い込んできた握力は万力のように強く感じた。まるで動かない。
城門の前に殺到していた暴徒や、負傷した騎士、飛び出してきた同僚たちと同じ―――しかし、エリーナに病気の兆候は見られなかった。なにが原因か。
「噛まれた……そうか!」
万力に押さえ込まれて抵抗できないまま、ヴィクトリアは一つの結論に達した。おかしくなった人間に噛まれると、噛まれた人間もおかしくなる、と。
「あなたは噛まれたからおかしくなったのかも……! でも、治療法を必ず見つけてあげる! だからそれまでッ……」
どんな病気にだって治療法はあるはずだ。エリーナは決して死んだわけではない。脈もあるし、出血量もまだ助かる範囲だ。
「少しでいい! じっとしていて! お願い、私の声が聞こえるなら!」
「アァアァァァァアアァァアぁッ!」
ヴィクトリアの呼びかけも虚しく、エリーナは口を開けて噛みついてこようとした。しかしエリーナはヴィクトリアの首元の寸前で止まると、すぐ横に落ちていた柵の木片に噛みついた。
「エリーナ……!?」
そこには彼女の〝意志〟を感じられた。理性を失ってもなお、ヴィクトリアを守ろうという。
「ァァァアァァァああぁァアァァッ!」
エリーナは木片に噛みついたまま歯ぎしりを始めた。木片に突き刺さった前歯は、深くまで木片に食い込んだようで外れなくなっている。
「こんなときに、恩なんて返さなくていいから!」
だがエリーナの腕はヴィクトリアの両肩から離れようとはしなかった。木片に狙いを変えただけで精一杯だったのだろう。
このまま終わりになんて、していいはずがない。
一年後、恋人が先にできたほうが焼肉を奢って、どこまでヤッたのか下世話な話に花を咲かせて。五年後、二人のうちどちらかが先に結婚しやがって、少しだけ淋しい思いをして。二〇年後、心も体もすっかり丸くなったねと言いながら、あの日食べたクレープ屋に足を運んで笑いあう。
「ずっと、ずっと、あんたと一緒だとあたし、これから先も楽しいんだろうなって思えたのに……こんなの嫌よ。絶対に嫌!」
まだなにかあるはずだ。感情が爆発し、まともな思考が成立しないような脳内を必死に掻き分けて、今自分のできる最大限の解決策を探し始める。
切除するべき部位が分からない以上、外科手術で解決はできない。
回復魔法は……未知数の部分が多い。そもそも魔法自体どのような原理で体に作用しているのか、完全に解明はされていないのだから。だが、そうならば。
その未知数の部分が、エリーナを蝕んでいる病気を治してくれるかもしれない。
『魔紋展開―――』
他に方法はない。ヴィクトリアはエリーナの腹部に右手を押し当てて、
『光の回復魔法【メディク】!』
直後、エリーナの腹部に広がった緑色の光が、反転し赤色へと変化した。エリーナの腹部は膨張し、やがて勢いよく弾け飛んだ。彼女の血飛沫が、ヴィクトリアの全身を真っ赤に染め上げる。
治したのではない、殺した。
信じられない光景に、ヴィクトリアは後悔する間もなく、吹き飛んでいったエリーナのほうへと駆け出す。
嘘だ、嘘であってくれ。
幻覚であってくれ。
できれば今までの全てが夢であってくれ。
「あ、っ、あぁあっ!」
だが目の前に倒れていた、上半身だけになったエリーナはそれ以上にないほど〝現実〟であった。目は虚ろのまま、胸元から下は赤黒い血がとめどなく流れているだけで、そこから先の部位は肉片となり、ラベンダーの花々の中に飛び散っていた。
「エリーナ! エリーナぁ!」
上半身だけになったエリーナを抱き上げる。体の各所が見えない力で切り刻まれたように破壊されており、頭部の半分が損壊していた。
なにか救う方法はないか。ヴィクトリアは思考を回転させ続けた。だが救える方法など思いつくはずもない。水の中に溶けてしまった生命の粉を、掬い上げることは誰にもできないのだから。
「あぁあっ、ごめん、ごめんなさい……私が、救う、はずだったのに」
回復魔法が相手を傷つけるなど、想像できるはずもない。
「どうしょう、エリーナが死んじゃう……エリーナ、エリーナ!」
頭が真っ白になった。
ヴィクトリアはあたりに散らばるエリーナのだったものを掻き集めて、なんとかしようとする。冷静さなど既にどこかへ行ってしまっているし、思考なんてものは目の前の異常現象に跡形もなく破壊されてしまっていた。
このまま自分も死ぬしかない、罪を償うべきだ。
意図していないのに、エリーナを殺してしまったから。
「―――せン、パい」
だがエリーナの口から漏れ出した声が、ヴィクトリアの冷静な思考を微かに蘇らせた。
「エリーナ!?」
ほんの一瞬だけ理性が戻ったのか。エリーナは確かに口を開き、ヴィクトリアに語りかけていた。
「は、私ノ、憧レです……」
喉の奥から絞り出すように、その声は続いていく。
「あり、が、と―――――う―――………………」
彼女が最期にした表情は、笑顔だった。