3.回復魔法と小さな異変
市場には国内外から買い集められた特産品や、日用雑貨など多種多様な商品がずらりと並んでいた。焼きトウモロコシを売っている屋台から香ばしい匂いが一面に漂っており、商人たちの言葉巧みな営業話術がそこかしこから聞こえてくる。
「玉ねぎ一個で五〇クレジット、割高ね……」
ヴィクトリアは野菜売りの店の前でタマネギとニンジンを見つけると、値札を見て呟いた。それを聞いた野菜売りは、機嫌よくヴィクトリアの目を見て語り始める。
「こいつは西のエルデン王国から取り寄せた特別な品種のタマネギなんだ。甘味の詰まった、上品な口当たりが特徴的で……相場より高いのは当たり前って話さ」
「ふーん」
だが、ヴィクトリアの視線はタマネギではなく、野菜売りの男性の右足首に向いていた。
「オジサン、足首怪我しているわね。大丈夫?」
「え? ああ、朝の仕入れのときに落とした木箱をぶつけちゃってね」
そう言った瞬間、野菜売りの男性は顔を歪ませた。仕事上、立ち仕事が多くなる以上、怪我をしたからといって休ませておくわけにはいかない。今まで、我慢し続けていたのだろう。真っ赤に腫れあがった右足首は、見ているだけでも痛々しい。
「よし、じゃあ」
と、ヴィクトリアはその場にしゃがんで、野菜売りの男性の右足首に優しく触れると、
『魔紋展開―――』
ヴィクトリアの手の甲に天使の羽のような紋章が浮かび上がり、輝きを放ち始めた。
人間の体には血液が流れている。そして血液は魔力と呼ばれるエネルギーに変換することができる。そのエネルギーを人体の末端部分―――両手に集中させ、エネルギーがどのような形で出力されるか、しっかりと脳内でイメージして、
『光の回復魔法【メディク】』
魔法を詠唱するのだ。
ヴィクトリアが唱えた魔法は人体の傷ついた細胞を活性化させ、再生を促す回復魔法だ。野菜売りの男の右足首は緑色の光に包まれ、腫れが少しだけおさまっていく。男の表情から察するに痛みもだいぶ緩和されたようだ。
「お嬢ちゃん、魔法士なのかい!? あ、それ神官服なんだな……随分セクシーな……」
「お洒落に目覚めた神官なのよん。どう、楽になった?」
「ああ、楽になったとも。ありがとよ!」
魔法士とは魔法の使える人間の総称である。魔法士は資格制で、これがないと無許可で魔法を使ったこととなり牢獄行きだ。
「これから夜市で売る野菜の仕出しがあったんだ。助かったよ……」
そう言って野菜売りの男はタマネギの値札を取り換えて、
「親切にしてもらったお礼だ」
「どういたしましてっ。それじゃあ、買い物を続けましょうか」
結果的に、タマネギは相場以下の値段で買うことができた。ついでにニンジンも同じ店で買うことにしたヴィクトリアは、両手にタマネギとニンジンの入った袋を抱えて、エリーナのもとへと戻っていく。
「先輩、値段交渉が上手ですね」
「え? してないけど」
「だって、足首を治して……」
「あーそれ? ただの親切心よ。あの後、値段交渉して相場以下で買えなかったら、安物が売っている店で値段交渉しに行くつもりだったの」
「一番高そうな店から攻めるんッスね。じゃあ本当に……」
「ええ。恩を売りつけるのは好きじゃないし。それに回復魔法よ? 大した効果はないわ」
回復魔法はあまり使われることのない魔法の代表格だ。傷を再生させるのではなく、あくまでも対象者の自己治癒力を増強させるだけだ。騎士たちが実戦で使うには即効性に欠けるし、冒険者たちが旅先のダンジョンで使うには心許ない効果である。
「神官たるもの、無償の愛をもって万人に救いの手を差し伸べるべし、ってね」
ヴィクトリアの使える魔法は全て回復魔法だ。
人は生まれつき両手に魔紋を持つ。魔紋はその人の使える魔法の種類を示しており、右手に炎の魔紋があれば、その人は右手から炎の魔法を発動できるということになる。両手それぞれ別の魔紋を持っていることがほとんどだが、ヴィクトリアの場合は違った。両手ともに、使える魔法が回復魔法しかない光の魔紋だったのだ。
「先輩の魔法の発動時に出ていた光、とても綺麗でした……」
「これでも昔は、騎士を目指していたからね。でも挫折して、今は神官として騎士様の股間を蹴り上げる仕事やっているってわけよん」
人生いろいろあるもんサ……、と遠い目をして空を見上げるヴィクトリアだった。
そんなこんなで買い出しを終えたヴィクトリアたちは〝外側の城門〟まで向かうことにした。市場からそう遠くないところに東の外側の城門が存在する。城門の向こう側には農業地帯が広がっていることから、市場に仕出しに来た農業者や、仕事を終えた工員が一杯飲んで行く酒場が点在している。そのためちょっとした居酒屋街となっていた。
特にこの時間帯は賑わいを見せ始めているはずだが、それでも今日は一段と人が多い。
「今日はやけに騒がしいわね」
「クレープ屋が人気なんですかね……」
「売り切れていたら、酒飲んで帰りましょうか!」
「だから仕事中ですよ!?」
そんななか、完全武装の騎士たちが緊迫した面持ちでヴィクトリアたちの隣を駆け抜けていく。
城門前まで行くと、台車に車輪が付いた運搬用の魔動機械がいくつも立ち往生していた。魔動機械とは魔力を用いた道具の総称である。魔紋石―――血液以外の魔力の源となる鉱石――を動力として、そこに刻まれた単純動作を行う魔法を出力させる機能を有しており、特別な技能が無くとも誰でも簡単に扱うことができる。この国の主要産業はこれら魔動機械によって成り立っていると言っても過言ではない。
「おい、まだ戻れねぇのか?」「騎士たちは何やってんだ!」「こちとら忙しい時期なんだ。分かってくれよ!」
立ち往生している運搬用の魔動機械の前にいた人々が、門番の騎士たちに詰め寄って文句を吐き出している。
いくつかの運搬用の魔動機械の上には、農作業で使用する肥料や器具が積み重なっていた。肥料の生成や器具のメンテナンスは農業区では行えないため、こうして長距離を運搬することも多い。逆に何も乗せられていない運搬用の魔動機械は“帰り”のものだろう。新鮮な農作物を市場に仕入れてきたところらしい。
「ですから、安全が確認できていない以上、城門を開くわけにはいかなく……」
門番の騎士は必死に状況を説明するも、人々の怒りが収まることはなく、早く帰りたいという感情を表情に滲ませていた。どうやら城門が封鎖されていて、外に出られなくなっているようだ。
固く閉ざされた城門の向こう側でなにが起こっているのか、想像もできない。
気になって、ヴィクトリアは近くにいた若い農業者の青年に尋ねた。
「なにかあったの?」
「東の農園地区で大規模な暴動が発生したのだとさ」
「暴動?」
「最近じゃ隣国との関係の悪化から、軍用魔動機械の生産ライン確保のために税金が上がったしな。それに三ヶ月前に起きた地震被害の補償金もまだ支払われてねぇって話だ。色々と鬱憤が溜まっているんじゃないかねぇ」
「にしても、いきなりすぎない?」
税金が上がったのは二ヵ月も前のことだし、地震も大規模なものではなかった。
「だが、実際に暴動で怪我人もたくさん出ているらしいし、東地区の騎士様が総動員される事態になっているわけだ。こりゃちょっとした戦争かもな」
「そう……ま、お互い気をつけましょ」
ヴィクトリアは青年に礼を言うと、エリーナのほうへと戻り、
「暴動らしいわ。今夜は忙しくなりそうね」
「うへぇ……」
怪我人が沢山出る日は、神官の稼ぎ時だ。もちろん病人から金を毟り取るわけではない。治療した人数に応じて、評議会から臨時の寄付金が入ってくるのだ。もちろんそれらが末端のヴィクトリアやエリーナに分け与えられることはなく、ただ単に忙しいだけであるが。この前、工業地区で事故が起きた際は、二日間ベッドの上で寝ることを許されないほどの忙しさであった。
「あれって有名な騎士様じゃ……?」
エリーナが指差した先には、赤い鎧を身に纏った騎士がいた。
「ジークフリードっていう騎士だっけか」
城門の前で話をしていた上位の騎士たちは、赤い鎧を身に纏った騎士を見るや否や、へこへこと頭を下げ始めた。燃え盛る炎のような赤に、淀み一つない水面のような透明な青色のラインが引かれた、何とも独特なデザインの鎧。竜の顎のようなフェイスガードに、騎士団の鷹の紋章が描かれたマントが揺らめいている。腰には真っ赤な刀身の剣が備えられていた。
彼こそが、王国最強の騎士と称される男、ジークフリード。人々はその姿を見るやいなや、一斉に歓声をあげた。
「孤児院の子どもたちが、よく〝ジークフリードごっこ〟をしているのよね。それで少しは知っているわけよ」
「ヴィクトリアさんって、子どもたちとも遊んでいるんですね」
「ええ、ジークフリード役をしているわ」
「子どもたち、やられ役ですか!?」
「敗北を知って、男の子は強くなるのよ……」
大人げないな、この人。エリーナはそう思うのだった。
「にしても、すごい人気ですねぇ」
ジークフリードは、若干二五歳で騎士団長に就任した天才である(これは歴代の騎士団長の中でも最年少とされる)。毎年開かれる騎士の決闘大会では三年連続優勝の実力者で、彼の繰り出す攻撃魔法の威力は王国内に長く残り続けた記録をやすやすと塗り替えた。そのうえ鎧の内側は絶世の美男子なので、これで人気が出ないわけがない。
そもそも騎士という存在自体が、この国では英雄のような扱いを受けている。剣や大砲よりも魔法が最大の武力とされている現代において、その存在は絶対的だ。魔法を行使し、人々を悪の魔の手から守り抜く存在―――ゆえに、大人たちは騎士を尊敬し、子どもたちは憧れの眼差しを向ける。
「さすがにアイツの股間は蹴り上げられなさそうね」
ヴィクトリアは息を呑んでその光景を見る。
やがて、鋼鉄の城門が轟音とともに開き始めた。