2.騎士の股間を蹴り上げろ
大陸の中央にある大国、フェース王国。その城下町にある教会の一室に、男の怒鳴り声が響き渡った。
「またヴィクトリアがやらかしたのか!」
神父は顔面を歪ませ、腕を組んで憤慨していた。
そんな彼の怒声に怯えつつも、神官の女性は報告を続けた。
「はい。予後治療担当の神官だったヴィクトリアが、療養中の騎士様に暴力行為を……」
「具体的には?」
「こ、こ、股間を蹴り上げ……」
「ひっ……」
思わず神父は自分の股間に手をあて、絶句した。
「明日で現場に復帰されるはずだった騎士様の療養期間が、一週間延長となりました」
「子種は?」
「ぶ、無事だと思いますが……」
とても〝えぐい音〟がしたので確定ではありません……と、神官の女性は視線を逸らしながら、遠慮しがちにそう言った。
騎士に対する暴力行為、しかも〝生死〟に関わる大怪我をさせたとならば、大問題だ。騎士団からなんと言われるか分からない。
教会とは信仰する《女神》に祈りを捧げ、迷える人々に救いの手を差し伸べること、傷ついた者や病に倒れた者を助けることを目的としている場所だ。その活動は王国の評議会からの寄付金、という名の予算によって成り立っていた。いわば国営の社会福祉団体なのである。
「城下町のど真ん中にある教会だからって、活動資金が潤沢にあるわけじゃないんだ……ッ。この前だって医療器具の買い替えにいくら使ったと思っているんだ。クソックソックソッ! また頭を下げるのか、私は! 役人どもに対して!」
王国の領土内にある教会は宗教施設である以上に、病院としての役割もある。だからこそ蔑ろにされる立場でもない。だがそれでもふんぞり返っていられるほど高い地位にあるわけでもない。ましてや国土を守る騎士に乱暴を働いたとなれば、タダでは済まない。
神父は天を貫かんばかりの声を張り上げて、叫ぶように言った。
「い、今すぐ彼女を! ヴィクトリアをこちらに呼び出せェッッ!!!」
「それが……。彼女は買い出しに行くと出て行ったきりで……」
「探せ! なんとしても見つけ出すのだ! そして、その腐った脳ミソが詰まった奴の首を、私の前に持てこい!」
「殺すのですか!?」
「比喩表現だ!」
「か、かしこまりました!」
神父の怒りに気圧されながらも、神官の女性は後ずさりするように退出していく。
部屋の外では「またヴィクトリアか」「今度は誰のナニを潰したんだ?」「おっかねぇ……神父様もヴィクトリア嬢も」「騎士様が羨ましい……」なんて話題をする、同僚の神官たちで賑わっていた。出てきた神官の女性は彼らの上司らしく、大きな胸を張りだしてこう叫んだ。
「皆さん! ヴィクトリア・アンジェベルクの捜索隊を今ここで結成いたします!」
「報酬は!?」
同僚の神官の中でも背の高い、そばかす顔の青年が訊いた。
「見つけた者には、今月のヴィクトリアの給与をそのままボーナスとして支給いたします!」
「聞いたか、お前ら。今すぐ探し出すぞ!」
欲にまみれた神官たちは、瞬く間に散っていく。かくして、ヴィクトリアという少女は教会のお尋ね者となるのであった。
背中まである翠色の髪を黒色のシュシュで束ねた少女は、上機嫌にこう言った。
「あー、スカッとしたわぁ」
ヴィクトリアは城下町から空を見上げて、そう言った。今なら空がこんなにも青く美しい色をしている理由が分かる気がする。それぐらい晴れ晴れとした気持ちで、コツコツとヒールの踵を鳴らしながら歩き出した。
金色の瞳は大きく、十八歳というには幼さが残った顔立ちであった。唯一、年相応以上なのは大きく突き出た胸ぐらいで、それ以外は身長顔立ちともに二次性徴を終えたばかりの少女にしか見えない。
それでも精一杯、大人っぽく見せようとしているのか、黒色の神官服は本人によって肌の露出が増えるように改造がなされていた。肩口から肘にかけては布が切り取られており、股上ギリギリのところまで短く切られたスカート(その切れ端は黒いシュシュへと生まれ変わったようだ)のおかげで、少しだけ脚が長く見える。
もちろん、こんな改造は教会では認められていない。
だが、ヴィクトリアは自分を貫いた。たとえどんなに周囲から否定されても、自分の気に入った服装でお天道様の下を歩くことを最優先に考えているのだ。
「ようやくあのクソ騎士に一矢報いてやったわ……ざまぁねぇわよ」
あの騎士は他の療養者に対して横暴な態度を取り続けていたし、ヴィクトリアの後輩に対しては性的な言葉を何度も吐いていたし、なにより自分の尻を〝無料で〟触ろうとしてきたのが、ヴィクトリアには許せなかった。
「私は自分自身に価値があると思っている。だから、つまみ食いするような感覚で手を出されることに心底腹が立つの……分かる?」
ヴィクトリアは自分の後ろをつけている少女に対し、振り返りながら言った。視線が合うと少女はビクッと肩を震わせ、申し訳なさそうにヴィクトリアを見上げながら返事をする。
「いつから気づいていたのです……?」
「あんたが私を見つけて、尾行を開始したところから」
「うぅ……ほぼ最初からじゃないですか」
「コソコソしていると逆に目立つわよん、エリーナちゃん」
そう言うとヴィクトリアは少女の額を、人差し指でピンッと弾いた。
エリーナはショートボブの赤髪に瓶底のような眼鏡をかけており、ヴィクトリアよりもさらに一回り小さな体で怯んでいる。胸元では魔紋石と呼ばれる半透明の結晶を埋め込んだペンダントが揺れていた。
ロングスカートの神官服は足首まで伸びており、地面スレスレだった。むしろそれが正しい神官服の着こなし方なのだが、少女の場合はサイズに合っていないせいか不格好に見える。
「神父様がお怒りになられていましたし、教会では捜索隊まで結成されていましたよ……? はやく帰ったほうが……」
「は? 私はなにも悪いことしてないんだけど。それに買い出しという正当な理由で外出しているだけでしょ? それで捜索隊って大仰な……」
「はうぅぅ……そうですけどぉ」
エリーナが狼狽えると、ヴィクトリアはヒールの踵でカッと地面を叩き、立ち止まった。
「私は自分を最高級の宝石だと思っているの。除菌をしっかりして香水をつけたうえで新品の手袋をして、国家予算並の大金を支払って……それではじめて撫でることの許される、最高級のお尻なの」
「…………ヴィクトリア先輩は凄いです」
自信なさげに俯くエリーナの右手を掴むと、ヴィクトリアは自分の尻に当てさせて、
「うりゃうりゃーっ、触れ触れ~」
「ひぁうっ! なにするんですか、先輩ぃ!」
「国家予算の尻だぞ、よーく味わえ~」
「や、やめてください! 外ですよ、外ッ!」
傍から見れば、神官二人が怪しい動きをしている、非常に滑稽な光景となっているだろう。だが、ヴィクトリアはそんなこと気にする様子もなく続ける。
「エリーナも、もう少し自分を大切にしなさい」
「は、はい……そう、ですよね……。騎士様に嫌なこと言われても、言い返さずに笑っているのは良くなかったです」
「ま、あのクソ騎士ガタイだけは妙に良かったからね。怖気づくのも分かるけど」
「……ありがとうございます、先輩」
「いいってことよ、可愛い後輩のためだもの」
自分の尻を触られたのはあくまできっかけであって、その理由の大部分は後輩のエリーナのためにあった。彼女は自分とは違ってお人好しだ。黙っていれば調子に乗られるのは目に見えていた。きっと尻を触ってこなかったとしても蹴り上げていただろう、股間を。
「この恩はいつか返さないと……」
「そー重く考えるなっ。タダで貰った恩と思って、ありがたく受け取っておきなさい」
自分は神官として立派な存在とは言えない。好きに生きている代償として、敵もたくさん作っている。それを後悔している気持ちは微塵もないが、先輩として正しい神官の在り方を誰かに教えられるはずもない。
なにかひとつ、エリーナのためにできることと言えば、彼女の代わりに股間を蹴り上げることぐらいだった。
エリーナの頭に温かい手が置かれ、優しく撫でる。涙目になる彼女の瞳を、ヴィクトリアはハンカチで拭ってやり、真剣な表情で言った。
「あのクソ騎士のイチモツ、めっちゃ小さかった」
「先輩、ここは公共の場ァ!」
「蹴ったから分かるの。親指ぐらいの感触しかなかったわ。ありゃ大したことないわね」
「はぁ……」
なんと言われようが、ドヤッとした顔を見せつけて上機嫌に語り続けるヴィクトリアを見て、エリーナはついに諦めたように溜息をついて話を聞いてあげることにした。
「で、これからどうします? 素直に帰るつもりがないなら……」
「デートしましょ」
「はぁ!?」
「買い出しよ、買い出し。タマネギとニンジンが足りなくなったらしいから、それをちょちょいと市場で仕入れて、余ったお金でスイーツ食べましょ」
ヴィクトリアは得意げにそう言い放つと、困惑するエリーナを置いて歩き出した。
「お金なんて余るんですかぁ~?」
「市場のオジサンと値段交渉すれば余裕よん」
「だからって、スイーツなんて……」
「東の城門前に新しいクレープ屋さんができたらしいけど……」
フェース王国の都市部は周囲を城壁で囲まれている巨大な城郭都市だ。中央が王城となっており、それを取り囲む城壁のことを〝内側の城壁〟と呼ぶ。そして貴族たちの住む屋敷や城下町、人々の住む居住区、工業地帯や歓楽街と広がっていく先にある、城郭都市全体を取り囲む城壁のことを〝外側の城壁〟と呼んでいた。
「エリーナは真面目だから余ったお金はお行儀よく神父様にお返しになられるのよねぇ。偉いわねぇ。でもクレープは食べられないわよねぇ。新しいところなのにねぇ」
わざとらしく、エリーナから視線を外してヴィクトリアは言った。エリーナは毎月給料が入ったその日には、街の甘味処を一周する筋金入りの甘党だ。こう言えば大抵は、
「クレープ食べられないなぁ~」
「うぅ……今回だけですよ」
エリーナは落ちた。ちょろい後輩だ。
「そうと決まれば、パパッと買い物済ませましょ!」
ニィッと笑顔を浮かべたヴィクトリアはエリーナの手を引いて、市場まで向かった。