とある伯爵令嬢の恋物語 〜ルイ編〜
※この短編は、現在連載中の「悪役令嬢はお姉様と呼ばれたい!」の作中に登場する乙女ゲームのシナリオストーリー(ルイルート編)となります。本編とは違いシリアスな恋愛ものです。
※本編を読まなくてもまったく問題なく、単品としてお読みいただけます。
が、読んでいただけると更に面白さがアップします。
ミラが伯爵家に引き取られたのはまだ九歳の頃だった。
その日のことをミラは昨日のように覚えている。
レトナーク領地を治めるローランド家の邸宅は、今まで住んでいた母の実家よりずっと立派な格式高いお屋敷で、今日からここに住むのよと言われた時は夢のようだと思った。
初めて対面した父親は想像よりもずっと若々しく美しい人だった。
自分と同じエメラルドグリーンの瞳と金の髪色が嬉しく、一目でこの人の血が自分に流れているのだと分かった。
そしてローランド家にはミラより二つ上の姉がいた。
姉と言っても母親は違う。
けれど、自分に血の繋がった姉がいると聞いた時は、本当に心が踊ったものだ。会う前から、まだ見ぬ姉と仲睦まじく遊ぶ姿を何度も想像していた。
母親こそ違うものの、仲良くなりたいと思っていた。
しかし、ミラがローランド家に訪れた日から、姉のグレースはミラに心を開くことはなかった。
「――貴女を妹だなんて認めないわ」
開口一番、キツい口調で言い放つグレースにミラは面を食らった。
グレースは父親には似ておらず、ダークブロンドの髪に濃い茶色の瞳の少し目つきの鋭い少女だった。
そんな彼女が眉尻を上げると、鋭い目つきがより険しくなる。
ミラは初対面でそんな怖い顔を向ける姉に戸惑った。
「……お、お姉様」
「私をお姉様なんて呼ばないでちょうだい!」
グレースは叫ぶようにミラに宣言すると、挨拶もそこそこに部屋を飛び出してしまった。
その様子を見ていた使用人も困った顔で首を振るのみ。
母に助けを求めたが、母もまた困惑した様子でいた。
何故、グレースが自分を忌み嫌うのかミラには分からなかった。
仲良くなろうと試みる度、反対に何度も虐められた。
お気に入りの人形を取り上げられ、理由もなく無視され、使用人の目の届かないところで髪を引っ張られたり、足を引っ掛けられたり、暴力を振るわれることも一回や二回でない。初めて参加したお茶会では作ってもらったばかりの新品のドレスを汚された。
自分の何がそんなに気に食わないのか、途方にくれては母に泣きついた。
その度に、優しい母はいつもミラの髪を撫で、「グレースはまだ戸惑っているの。いつか、きっと仲良くなれるわ」と慰めてくれた。
ミラの十歳の誕生日が近づき、母がプレゼントとして、王都で行われているお芝居を観に行こうと提案してくれた。
それは前々からミラが行ってみたいと口にしていたものだった。
王都に出かけると聞いて、流石のグレースも大人しくついてくることとなった。
父親は残念ながら仕事のため一緒に来ることが出来なかったが、王都への短い旅は想像以上に楽しい時間を過ごせた。
その時だけはグレースも珍しく癇癪を起こすことなく、本当の姉妹のように過ごせたのを覚えている。
だが、その帰り道。
山道で、突然の大嵐に馬車が巻き込まれ、崖から転落するという大事故が起こった。
その事故の所為で、最愛の母は亡くなってしまった。
幸せだった日々は本当に短く、その日からミラの人生は不幸のどん底へと堕ちていった。
その事故でグレースは足を怪我をして、「こんなことになったのは貴女の所為よ」とミラを責めた。
幸い、彼女の足の怪我はすぐに治ったが、一時は仲の良い姉妹になれると思った関係はそれ以降縮まることなく、大きな亀裂を生んだままとなる。
ミラが不幸になる原因はそれだけではない。
母が亡くなって半年も経たないうちに父親が再婚をしたのだ。
新しい再婚相手はパトリシアという平民の女性だった。
どうやらパトリシアは前妻である母のことをよく思っていなかったらしく、屋敷に残っていた母の遺品は悉くパトリシアの手によって捨てられてしまった。
そしてパトリシアはその娘であるミラも毛嫌いし、何かにつけてはミラを虐めた。
父はその新しい妻の行動を見て見ぬ振りをして、ミラを庇うことは一度としてしなかった。
姉のグレースと継母のパトリシアの二人によって、ミラは伯爵家の中で肩身の狭い思いで過ごすことになる。
一緒の食卓につくことも許されず、いつも食事は一人部屋で取っていた。
与えられる物も最低限のものだけで服一つ満足に買ってもらえなかった。グレースの着古したドレスを手直しし、着たこともあった。
パーティなどの社交の場に出ることも許されず、家族が出かけるときはいつもミラだけ留守番だった。
そんな毎日を嘆き、優しい母を思い出しては涙して過ごした。
しかし、そんなミラを屋敷の使用人達は可哀想に思い、パトリシアやグレースの目の届かないところでいつも助けてくれた。
彼らがいなかったらミラはもっと悲惨な人生を過ごしていたかもしれない。
――そしてもう一人。
パトリシアにはミラと同い年のルイという息子がいた。
継母と共に伯爵家にやってきた彼は、家族の中で唯一、ミラの味方だった。
血の繋がらない弟は、表立ってパトリシアやグレースに歯向かうことはできないものの、迫害されているミラを陰でいつも慰めてくれた。
それは孤独に苛まれたミラの心を優しく包み込んでくれる暖かい火のようなもので、ミラは何度もルイに励まされた。
こうして、ミラは屋敷の使用人と義弟のルイのおかげで何とか今日まで過ごしてこれた。
そして十六歳になったミラは屋敷を出て、王都にある学園へと入学する。
――――――――
貴族の令息令嬢が通う学園は全寮制をとっており、ミラはそこで初めて自由の身となることができた。
最初は多くの生徒が在籍する学園に物おじするミラだったが、幸いなことにルイが同じクラスであり、人見知りするミラを助けてくれた。
そればかりではない。
授業が終わった後、教室で残って復習をしているミラに勉強を教えてくれることもあった。
「そろそろ授業には慣れた?」
「ええ。ルイのおかげね」
家では満足な教育をしてもらえなかったミラは、最初なかなか授業についていけず、苦労していたが、こうしてルイが勉強を見てくれることもあり、今では随分とクラスに馴染めていた。
「ミラが物覚えがいいからだよ」
そう言って優しく笑うルイは、家にいた頃と変わらずに、いつもミラを励ましてくれる。
そんなルイにミラは心から感謝をしていた。
サラサラの艶のある黒髪に、細面の白い肌。
大きな瞳の可愛らしい顔つきは母親のパトリシアとはあまり似ていない。
時々女の子と間違えられそうになる華奢な体つきだが、ペンを走らす手は骨ばっていて男らしかった。
熱心にノートを書くルイを見つめていると、眉のところで切り揃えられた前髪からルイの黒い瞳が優しく覗いた。
「どうしたの?」
「ううん。ちょっとルイが大人っぽくなったなって思って」
「え、何? 急に」
突然のミラの言葉にルイは目を見開いて、耳を赤くさせた。
「だって、前は私の方が背も大きかったじゃない。なのに、どんどん越されるんだもの」
「いつの話をしているのさ。僕だって成長するよ。……でも、周りに比べたらまだ小さい方だけどね」
「そんなことないわ」
「別に庇わなくてもいいよ。気にしてないから。でも、それを言うならミラだって大人っぽくなったよ。……ちょっと、心配するくらいに」
「えっ?」
ルイが複雑な顔でミラを見つめていた。
「ルイ?」
「……何でもない」
ルイが目を伏せて、教科書に視線を落とす。
一瞬、ルイが全然知らない男の子になったようで、胸の奥が騒ついた。
何だか見てはいけないものを見てしまったように感じ、ミラは慌てて話題を変えることにした。
「ねぇ、ルイ。最近、授業が終わるとすぐどこかへ消えちゃうけど、何をしているの?」
ミラが訊ねると、ルイは一瞬驚いた表情を浮かべ、すぐに照れたようにはにかんだ。
「えっと。実はね、絵画の部活に入ったんだ」
恥ずかしそうに告白するルイだが、恥ずかしがることなんてない。
ミラは目を輝かせて微笑んだ。
「ルイは昔から絵が上手だものね。描いたら見せてね」
「うん」
ミラとは違い、ルイは小さい頃から伯爵家の次期当主になるべく英才教育を受けて育てられていた。
勉強ばかりの日々でまともに遊ぶことを許されなかったルイも、この学園に来て、のびのびと過ごしていることがミラには嬉しかった。
――――――
ある日のこと。
放課後、ミラが授業の復習を終え、寮に帰ろうと校舎を歩いていると、中庭にルイの姿を見つけた。
今から寮に帰るところなら一緒に帰ろうと思い、ミラは中庭へと足を向けた。
「ルイ」
「――ミラ?」
ルイに声をかけるミラだったが、彼は一人ではなかった。
木の影に隠れて分からなかったが、ルイは他の生徒と話をしている最中だったらしい。
「あ、ごめんなさい。お話中だったのね」
ミラはその人影に慌てて謝った。
「いや、大丈夫だ。ちょうど話も終わるところだったからな」
木の影になっていた姿が露わになって、ミラはその人物に目を見張った。
「えっと、ミラも会ったことがあるよね。アルフレッド殿下だよ」
ルイが紹介する。
「っ! 失礼しました。殿下」
慌てて腰を折って頭を下げると、頭上から小さな笑い声が聞こえた。
「いや、いい。そんなに畏まることはないさ」
「お、恐れ入ります……」
恐る恐る顔を上げると、口元に微かな笑みを作ったアルフレッド殿下と目が合った。
胸の辺りまで真っ直ぐに流れる金髪に、白い肌、端正な顔立ちとスラリと伸びた体格のアルフレッド殿下の姿は、まるで全身から眩いオーラを放っているかのように感じられた。
特徴的な宝石のような赤い目に思わず吸い込まれそうになる。
立っているだけで人を魅了し、気品佇む姿は、王子の肩書きに相応しい。
その美丈夫ぶりに魅入ってしまったことに気づき、ミラはパッと目を逸らした。
「ルイとは偶に会うことがあったが、君の姿は久しぶりに見るな」
そう、アルフレッド殿下とは初対面ではない。
彼はミラの姉、グレースの婚約者だった。
どういった経緯で、国の王子と姉のグレースが婚約をしたのか詳しくは知らなかったが、二人の婚約は親が決めた政略結婚によるものであった。
アルフレッド殿下とは、姉の婚約が決まって、殿下がローランド家に挨拶に訪れた時以来だ。
その後の社交パーティやお茶会などでルイとは何度か会っているようだが、ミラは社交界には出してもらえなかったので、本当に久しぶりの再開となる。
「相変わらず、グレースとは似ていないんだな」
アルフレッド殿下にじっと見つめられ、緊張で顔が熱くなりそうだった。
「……グレース様、あっ、姉とは母が違うので……」
堪らず目を伏せて、ミラは答える。
昔から、グレースと自分が似ていないことは、周りからよく言われてきた。
顔も髪色も似ているところはほとんどなく、本当に血が繋がっているのかとよく疑問がられてきた。
性格だって違う。
常に堂々と自分の意思を主張するグレースに比べて、ミラは内向的で自信もなく、いつもオドオドとしていた。
今だって、アルフレッド殿下に顔も上げられない自分が恥ずかしかった。
「ああ、そうだったか。……君はグレースとは違って随分と大人しいな」
「あ、はい。い、いえ、その」
しどろもどろになるミラを助けてくれたのはルイだった。
「コホン。……殿下。あまりジロジロとミラを見ないでください。ミラが困っています」
ルイはミラとアルフレッドの間に割り込むと、頬を膨らませて怒った。
「ははっ。ヤキモチか、ルイ?」
急に割って出てきたルイに、アルフレッドは唇の端をニヤリと上げて笑う。
「っ! そういうわけでは!」
「ふぅん? ……ああ。君の絵のモデルは彼女だったか」
「え?」
「殿下っ!」
顔を真っ赤にしたルイが大慌てで叫ぶ。
しかしアルフレッドはフッと笑って受け流すと、ルイの肩を軽く叩いた。
「邪魔者は退散することにするよ。それでは、ルイ。例の件、考えておいてくれ。ミラ嬢も失礼する」
「あ、はい」
颯爽と去っていくアルフレッドの後ろ姿をミラは唖然と見送った。
「……はぁ。まったく、あの人は」
ぶつくさと言いながら頭を掻くルイにミラは訊ねる。
「ルイ。絵のモデルって?」
「あー、うん。……はぁ、バレたら仕方ないか。出来上がったら驚かせようと思ったのに」
ルイは困ったように笑いながらも、ミラを美術室に案内してくれた。
初めて入る美術室は絵の具の油の匂いがした。
興味深そうにキョロキョロを教室を眺めるミラに、ルイは描き途中のキャンバスを見せてくれた。
「……これ」
「え。これ、私?」
「うん」
絵の中には、花畑の真ん中で笑顔を向けて佇むドレス姿の少女がいた。
風に揺れる金色のウエーブのかかった髪を片手で抑え、こちらに向かって明るい笑顔を向けている。
ルイの目には私はこんな風に写っているのかと顔が熱くなった。
「まだ途中だけど。どうかな……」
「ええ、とても上手だわ。本当、ルイは絵画の才能があるのね。ねぇ、このドレスは?」
「えっと、僕が適当に考えたドレスだよ。ミラにはこういった淡いピンクの服が似合うと思って……」
ミラには手持ちのドレスはあまりない。
持っているドレスのほとんどは、グレースのお下がりか、もしくは古い型のドレスばかりだった。
もし、こんな可愛いドレスを着れたら、どんなに素敵なことだろう。
絵の中だけでも、そんな可愛いドレスを着ていることがミラにはとても嬉しく感じた。
「素敵だわ」
ミラが素直に感想を述べるとルイは恥ずかしそうに頬を赤くした。
「ありがとう。……あ、そうだ。ミラ。せっかくだし、スケッチさせてよ」
「ええ?」
「少しだけでいいからさ。ね、いいでしょ?」
「う、うん」
ルイの熱意に負けてミラはモデルとなることを了承した。
でもモデルなんて初めてだし、どうすればいいかわからなくて困っていると、ルイは教室の隅から椅子を持ってきてくれた。
「ここに座って」
「座っているだけでいいの?」
「うん。あ、顔だけは真っ直ぐ前に向けて。……そう。そのまま動かないで」
ルイは新しいキャンバスを用意すると、シャッシャと素描用の木炭を走らせはじめる。
真剣な表情でじっと見つめられているせいか、なんだか顔が熱くなりそうだった。
緊張を解すために、ミラは話題を探す。
「ねぇ、さっきアルフレッド様と何のお話をされていたの?」
「ああ、殿下が所属している生徒会に入らないかっていう勧誘だよ」
ルイが手を動かしながら答える。
「すごいじゃない。生徒会って、そうそう入れるものではないでしょう? ルイは成績いいものね」
身内が名誉ある生徒会に誘われて、ミラまで嬉しくなって歓声を上げた。
生徒会に入ると自動的に貴族達との交流が増える。そのことから将来の繋がりを期待して生徒会に入りたいと望む声も多いと聞いていた。
「動かないで」
「あ、ゴメンなさい」
「……偶々、殿下と交友があったから誘われただけだよ。それに、僕は生徒会よりもこうやって絵を描いていたい」
「断るの?」
「ここは口うるさいお母様もいないし、在学中は自分のやりたいことをやりたいんだ」
「……ルイ」
ルイは昔から芸術に興味があり、中でも絵画を描くことが好きだった。
しかしお屋敷では、絵よりも勉強の方が大事だと、継母が厳しく、絵を描くことを禁止されていた姿をミラは見ている。
「そうね。生徒会に呼ばれることは名誉なことだけど、それよりもルイの好きなことをするといいわ」
ミラがそう言うと、ルイはパァっと顔を輝かせた。
「ありがとう、ミラ!」
嬉しそうに笑うルイを見て、やっぱりやりたいことをやっているルイが一番だとミラは微笑んだ。
――――――
ある日の放課後。
お昼までは天気も良く晴れていたのに、午後になり急に空が曇ってきた。
まだ降り出してはいないが、湿気で蒸し蒸しとし、今にも雨が降りそうだった。
湿度が高い日は髪がうねうねと広がるので苦手だ。
ミラは雨が降り出す前に早く寮へ帰ろうと、近道をするため、中庭を横断しようとした。
「あれは……、アルフレッド様?」
その途中、中庭の東屋で難しい顔をしたアルフレッドの姿を見つけた。
通り過ぎることもできたが、なんだかその顔があまりに深刻そうでミラは思わずそちらに足を向けた。
「……あの、アルフレッド殿下?」
「っ!」
「す、すみません。驚かせてしまって」
「……ああ、君はミラだったな」
急に声をかけられ、びくりと体を揺らしたアルフレッドは、相手がミラであることを確認すると取り繕うように姿勢を正した。
「はい。……あの、お邪魔かと思ったんですけど、なんだが随分と深刻そうな顔をされていたので」
言いながら、やはり分不相応な真似だったかなとミラは反省する。
しかし――
「……君はお人好しだな」
アルフレッドはそんなミラに柔らかな笑みを見せるのだった。
「す、すみません!」
「いや、謝ることはない」
アルフレッドと話していると、頭上から雨粒が落ちてきた。
「……やだ、降ってきちゃった」
ミラが空を仰ぐと、アルフレッドが「濡れないうちに中に入るといい」と言って、中に勧めてくれた。
「……でも」
躊躇うミラに、アルフレッドは小さい笑みを浮かべる。
「ついでに、少し話に付き合ってくれるか?」
そう言われて、ミラは東屋の中にお邪魔した。
中に入ると、すぐに雨音は大きくなり、大粒の雨が地面を濡らし始めた。
「降ってきたな。……でも、すぐに止むだろう」
アルフレッドが空を見上げ、遠くの雲の切れ間を見つけて、静かに呟く。
ここだけ外界から切断されたように、雨の音だけが響いていた。
ミラは少しだけ迷って、アルフレッドの斜め向かいになるように、ベンチに腰を下ろす。
「すみません。なんか、差し出がましい真似を……」
「いや、あながち君に関係ない話でもないし、いいさ」
「え?」
「君はグレースの妹だからな」
「……姉のことですか?」
ミラが訊くと、アルフレッドは曖昧に頷いた。
「まぁ、彼女にも関係のあることだ。……実はね、卒業後の進路について考えていたんだ」
「卒業後、ですか?」
アルフレッドもグレースもあと一年で卒業となる。
詳しくは聞かされていないが、卒業後に二人は結婚するのだろうという話を以前に耳にしたことがあった。
グレースとは仲が良くないが、それでも一緒に屋敷に住んでいる血の繋がった姉だ。
その彼女が嫁いでいくのは少しだけ寂しいとミラは感じていた。
「陛下から卒業後の行く末について打診されているんだ。このまま王都に残り、陛下の臣下として働くか。それとも王族の抱える領地の一つを譲り受け、領主として暮らすか。……どちらにせよ、陛下の家臣として生きることに変わりないが、その暮らしぶりは違う。もらえる領地と言っても、辺境の小さな土地だ。……グレースは、王都で暮らしたいと言うだろうな」
アルフレッドは数いる王子の中でも下の方に位置する王子だった。
陛下の側室である母親は、小国である隣国から嫁いできた姫で、その地位は低く、アルフレッドもまた大した権力を持っていなかった。
それ故に成人後の進路もあまり華のある道とは言えなかった。
それでもアルフレッドの言い方から、王都に残るより、領地をもらう方を選びたいことが窺われた。
「……何を悩んでいるのですか?」
アルフレッドが悩んでいるのは、姉のことではない気がして、ミラは訊ねる。
「母のことだ」
「……殿下のお母様」
「ああ。知っていると思うが、私の母は元は小国の姫だ。大した後ろ盾もなく、他の妃達に睨まれながら、普段は後宮で静かに暮らしている。……身を縮ませながら、日々を暮らす母上が不憫でな」
「……」
「……大人しいところは、君に似ているかもしれない」
「え?」
「いや、失礼。侮辱しているわけではないんだ。ただ、そうやってどこか寂しそうな目が母上と被ってな。気にしたのなら謝ろう」
「……いいえ。大丈夫です」
周りから疎まれ、味方もほどんどいなく、一人静かに暮らす日々。
立場は違うが、自分に重なるというのも分かる気がした。
「私が成人すれば、母を連れて新しい領地で暮らすこともできる。しかし、それが母上にとって幸せなのか、私には分からない。辺境の地だし、今までとは比べ物にならないくらい苦労をかけると思う。それに対し、今まで通り王宮で暮らせば、それなりの贅沢もできるし、まず生活に事欠かないだろう」
ミラはアルフレッドが話す内容に耳を傾ける。
確かに彼の言う通り、王宮での暮らしを選ぶのであれば、自由はなくとも、少なくとも暮らしに困ることはない。
だが、どの道が幸せなのか、ミラには分からなかった。
ミラは顔を上げ、自分の意見を述べた。
「……無礼なことかもしれませんが、殿下は殿下の決めた道を進めば良いかと思います」
「え?」
「私が殿下のお母様なら、きっとそう思います。大切な人が選んだ選択に応援はするけれど、文句を言うことはありません」
確かに、ミラとアルフレッド殿下の母親は立場こそ違うが似たような境遇なのかもしれなかった。
アルフレッド殿下の話を聞いて、ミラはルイの顔を思い出していた。
ミラにルイがいたように、殿下のお母様にはアルフレッド殿下が側にいた筈だ。
こうやって母親の為に真剣に悩んでいるくらいだ。
きっと二人の親子関係は深い信頼で結びついていることが分かった。
それがどんなに心の支えになっているか、ミラにも分かる。
ミラはルイが自分の思う道を進んでくれたら、それだけで嬉しい。
学園に来て、生き生きと趣味の絵に打ち込むルイの姿が大好きだった。
だから、殿下のお母様も、アルフレッド殿下が行きたいと思う道を進んでくれると嬉しいと思う筈だ。
「自分のことを心配するより、殿下のやりたいことをやってくれる方が何倍も嬉しい筈です」
「……君がそう言うのならば、そうかもしれないな」
「あ、でも、私の言葉はあくまでも私だったらという話なので、殿下のお母様がどう思っているかは分かりません。……やっぱり、直に話し合われてみたらどうでしょう? ……す、すみません。元も子もないことを……。わ、私ったら……」
「いや、そうでもない。……ありがとう、ミラ。話を聞いてもらえただけでも十分気が晴れたよ」
「そうですか?」
「ああ。この礼はいつか必ず」
「お礼なんてそんなっ!」
ミラがとんでもないと首を振ると、アルフレッドは眩しそうにミラを見つめた。
「――ああ、雨も止んだな」
「えっ?」
アルフレッドの言葉にミラも視線を東屋の外へと向ける。
殿下の言う通り、さっきまでの雨は止み、空から眩しい光が差し込んでいた。
木々の葉っぱを濡らす雨水に光が反射し、キラキラと輝いて見える。
ミラがその美しい光景に目を奪われていると、アルフレッドが立ち上がった。
「話を聞いてくれて助かった。――じゃあな」
視線を戻した時には既にアルフレッドは東屋から出て行っていた。
「……殿下」
ミラは一人その場に残り、その後ろ姿を見送った。
――――――
「ミラ。聞いたわよ」
「え?」
翌日、クラスメイトの友人から突然話しかけられた。
「昨日、アルフレッド様と二人きりで中庭の東屋にいたでしょう」
「ええ? な、なんで知っているの?」
「ああ、やっぱり本当なんだ。噂になっているわよ」
「う、噂!?」
詳しい話を聞けば、昨日、ミラとアルフレッド殿下が話をしている姿を誰かが見ていたらしい。
でも、まさかそれが噂になるなんて考えもしなかった。
「だ、誰から聞いたの?」
「えっと、誰ったかしら? けど、もう結構広まっているみたいよ?」
「そんな……」
思ったより大事になっているようで、ミラは血の気が引いた。
そうだ。アルフレッド殿下は有名人。
自分が考えているより、遥かに影響力が大きいお人だ。
姉という婚約者がいるのに、その妹が殿下と二人きりで東屋に居たなんて外聞が悪すぎる。
――もし、これがグレースお姉様に知られたら。
考えるたけで背筋が凍った。
しかし。
残念ながら、それは現実のものとなる。
――――――
その日の放課後の内に、ミラはグレースに呼び出されていた。
人気のない上級生の使っている教室で、ミラは一人、グレースと対峙していた。
「――ミラ」
ミラを呼び出したグレースは冷たい目でミラを見つめていた。
彼女の猛禽類のような迫力のある吊り上がった目で睨まれると、ミラは反射的に動けなくなった。
「お、お姉様」
「その呼び方しないでって言っているわよね」
「ご、ごめんなさい。グレース様」
慌てて呼び直す。
しかし、グレースは冷たい視線を向けたままだ。
喉の奥がヒリヒリとしてくる。
今にも泣きそうなミラに、グレースは半歩近づいた。
グレースとミラとの間の距離がぐっと近くなる。
「人の婚約者と何をしていたのかしら?」
「――っ!」
やっぱり耳に入っていた。
「ねぇ、アルフレッド様と何を話していたの?」
「そ、それは……」
ミラは言い淀む。
殿下のプライベートのことだ。
例え、婚約者の姉でも簡単に話していいものではない。
「なんとか言いなさいよ!」
グレースの手が高く振り上げられた。
「っ!」
ミラは反射的に目を瞑り、顔を横に逸らす。
――しかし。
「姉さんっ!」
グレースの手が振り下ろされるより先に、彼女の腕を掴む者がいた。
「――ルイ」
慌てて走ってきたのだろう。
ルイは両肩で息をしながら、額に汗を浮かべていた。
「姉さん。暴力は止めて」
「離しなさいよ。貴方には関係のないことよ」
腕を握ったままのルイに、噛み付くようにグレースは言った。
しかし、ルイはグレースの腕を離さない。
「――ルイ。貴方ね……」
「なんか誤解しているようだけど、その場には僕もいたんだ」
「ルイ?」
ルイの言葉にミラは息を呑む。
「ミラはアルフレッド様と二人きりで話していたわけじゃない。誤解だよ」
「……」
しばらくの間、グレースはルイの言葉を確かめるように、じっと彼を睨んだ。
ルイもグレースから視線を離さない。
そして、
「……いい加減、離して」
グレースは腕を振って、ルイの拘束を取り払う。
「――フン。今後は紛らわしい真似をしないことね」
そう静かに言い残し、グレースは教室から出て行った。
「……」
グレースが消えて、ヘナヘナとミラはその場に座り込む。
「ミラ、大丈夫?」
ルイが駆け寄って、片膝をついてミラの様子を見た。
まだ恐怖で体が震えていた。
ルイはミラの小刻みに震える手を取って、そっと自分の両手で覆った。
ルイの温かい体温がゆっくりと伝わってくるのを感じ、やっと息をすることができた。
「――ルイ。どうしてここに? ……どうしてあんな嘘を?」
ミラは涙で潤む目を堪えながら、じっとルイの瞳を覗いた。
「ミラが姉さんに呼び出されているのを見た子がいて……。探したよ。でも間に合って良かった」
「……ルイ」
「……嘘をついたのは、姉さんを説得させるにはあれくらい言わないと。……それに外聞が悪いだろ。ミラも気をつけなくちゃ」
「……そうね」
ミラが頷くと、ルイは肩を竦めて、優しい口調で諭した。
「ミラはあまり社交界に出てないから知らないと思うけれど、身内以外の男女で二人きりになるとすぐに噂になるんだ。だから、普通は誰が別の人を呼んで二人きりを避けるんだ」
「……そうだったのね」
「まぁ、必ずしも毎回ってわけにはいかないけれどね。でも、特に殿下のような有名人は常に誰かに見られているから気をつけないとね」
「ええ、よく分かったわ」
世間知らずな自分が恥ずかしく、姉を怒らせてしまったことにミラは反省する。
グレースがあれほど怒っていたのも無理はなかった。
どうしていつも自分はグレースを煩わせてしまうのか――
その度に怒らせて、いつも彼女に嫌われてしまう。
こんな自分が時々、すごく嫌になった。
ミラが落ち込んでいると、ルイが躊躇ったように口を開いた。
「ねぇ、ミラ。一つ確認していい?」
「何?」
「……あのさ、本当に殿下とは何もないんだよね」
「当たり前でしょう!」
ミラは思わず声を張り上げてしまう。
――ルイまで何を言い出すのだろうか。
「なら、良かった」
「?」
ホッとした様子で肩を撫で下ろすルイに、ミラが首を傾げると、ルイはなんだか複雑な表情を浮かべていた。
「知っている? 殿下だけじゃなくて、ミラもみんなから注目されているんだよ」
「え? 私が?」
突然の言葉に、ミラは目を瞬せる。
「やっぱり気づいていなかった」
「え?」
「ミラは自分が可愛いってことをもっと自覚した方がいいよ」
「な、なに、突然!?」
急に何を言い出すのだろう。
ミラはルイの言葉に耳まで真っ赤になった。
「本当だよ。みんな、ミラのことを見ている」
「そんなことないわ」
「あるよ。ミラが自覚していないだけ。……だから、余計に心配になる」
「え?」
顔を上げるとルイが困った顔で微笑んでいた。
「なんでもない。さっ、戻ろう」
「う、うん」
ルイの意味深な表情に胸の奥がドキドキと鳴っていた。
――まただ。
今まで一緒に過ごしてきたルイなのに、まるで知らない人を見ているようだった。
――――――
噂が広まってしまったことについて、一度アルフレッド殿下にも謝らないといけないと思っていた矢先、すぐにその機会はやってきた。
ミラが廊下を歩いていたところ、アルフレッドに声をかけられたのだ。
しかも、隣にはグレースも一緒だった。
先日のグレースの剣幕を思い出し、ミラは恐縮した。
しかし、そのことに気づていないアルフレッドは、ミラにこの間のお詫びにとお茶に誘ったのだった。
断ることもできずに、学園内にあるカフェテリアに出向き、テラス席でお茶を頂くことになった。
テラス席には最初何人か生徒の姿があったが、アルフレッド殿下が現れると、みんな気を利かせて席を移動していった。
そんなわけで、アルフレッドとグレース、そしてミラの三人がテラス席を独占する形となった。
お茶が運ばれてきても、グレースは口を開くことなく、澄ました顔でミラをじっと見ていた。
そんなグレースの視線に耐えきれなくて、ミラは視線を泳がしながら、カップに口をつける。
「ミラ。この間はすまなかった。ルイにも言われたよ。誤解から噂が広まってしまったとね」
わざわざグレースの前で強調するように、アルフレッドは言った。
ルイが先にアルフレッド殿下に話を通していたことに、ミラは少なからず驚いた。
「い、いいえ。私の方こそ、すみません。噂になるとは思わず、軽率な真似を……。本当にすみませんでした」
「ふっ。君はいつも謝ってばかりだな」
「すみません」
「ハハ。またルイと三人でお茶でも飲もう」
「は、はい」
ミラはグレースの様子を伺いながら、頷いた。
アルフレッドから予め話を聞いているのか、グレースの顔に変化はない。
とりあえず、この間のように激怒している様子ではないことにミラはホッと胸を撫で下ろした。
「そうだ。聞いていると思うが、ルイが生徒会に入ったんだ」
「え?」
――ルイが生徒会に?
それは初めて聞く話だった。
「どうして……?」
「私が勧めたのよ」
「お姉様が?」
口について出た「姉」という言葉にグレースの眉が上がる。
しかし、隣にアルフレッドがいる為か、言及はせずに話を続けた。
「……ローランド家にとって、他の貴族と繋がりを作っておくのは大切なことですもの。あの子は大切な跡継ぎ。その職務を全うするのは当然のことでしょう?」
「で、でもルイは絵を」
「あんななんの役にも立たないことをやって何の意味が?」
「……でも」
「口答えをしないで」
「グレース」
ミラを叱咤するグレースに、アルフレッドは眉を顰めて諌めた。
「……どうしてアルフレッド様がミラを庇いますの?」
「そういうわけでは」
「いいえ、庇われています。……ご自覚がないのかしら? アルフレッド様もこの女に騙されているのね」
「グレース! 実の妹に対して、なんて言葉を!」
「あ、アルフレッド様、いいのです!」
声を荒げるアルフレッドにミラは堪らず叫んだ。
「しかし……」
他でもないミラから止められ、アルフレッドは言い淀む。
そんな二人の様子をグレースは冷ややかな目で見つめていた。
「――いつもそうやって貴女は良い子ぶるのね」
「お、お姉様! わ、私はそんなつもりじゃ……」
「黙りなさい!」
「っ!」
鋭い目で睨まれ、ミラは硬直して動けなくなる。
「グレース。いい加減にしないか!」
「――フン」
テラスに他に人がいなくて良かったと思う。
そうでなければ、何事かと注目を浴びていたことだろう。
「ミラ? 大丈夫か?」
心配そうにミラを窺うアルフレッドの目が見れなかった。
ミラは顔を伏せたまま、立ち上がる。
「……す、すみません。私は失礼します」
「お、おい!」
後ろでアルフレッドが声を上げたが、ミラは振り返ることなく急いでその場を立ち去った。
――――――
――また、お姉様に嫌われた。
どうしていつも私はお姉様の気に障ることをしてしまうのだろう。
他意はない。
けれど、ミラの行動はいつもグレースの心を不快にさせる。
ミラは空き教室に駆け込むと、ドアを閉めて、その場に蹲った。
きっと、私と姉は分かり合えない。
そのことが苦しい。
血の繋がった姉妹なのに、どうしていつもこうなのだろう。
気に障ることをして、グレースを怒らせれば、それは何倍にもなってミラに返ってくる。
長年、身に染みつくほど繰り返された、その仕打ちも怖かった。
だが、それ以上に姉とも呼ばせてくれず、無視され、いないものと扱われ、家族としての繋がりを拒絶されるほうが辛い。
ミラは嗚咽を堪え、膝に顔を埋めた。
どのくらいそうやっていただろう。
気づいたら、教室の外が赤く暮れかけていた。
ミラは涙で濡れた目元を拭うと、ゆっくりと立ち上がる。
教室にカバンを置いたままだった。
取りに戻らないと。
そう思って、教室に向かい、ドアを開ける。
「――あ、ミラ」
ミラの机にルイが座っていた。
「ああ、良かった。まだカバンはあるのに、姿が見えないから心配して……って、どうしたの、その目っ!」
「何でも、ないの……」
「何でもないわけないだろう。そこに座って。今、ハンカチ濡らしてくるから」
泣き腫らしたミラの顔を見て、ルイが慌てて教室から出て行き、濡れたハンカチを手にすぐに戻ってきた。
「ほら、これで目を冷やして」
「……ありがとう。ルイ」
濡れたハンカチを瞼に当てると、熱を持った目元がヒンヤリと冷えていく。
同時に、ぼーっとしていた頭が少しずつ晴れていくのを感じた。
何度、こうやってルイに助けられてきただろう。
家でもよくこうやって隠れて泣き腫らすミラをルイは慰めてくれた。
――家でも、この学園でも、いつだってルイは助けてくれる。
優しいルイに胸の奥が温かくなる。
さっきとは違う意味で涙が出そうになり、ミラはぐっと堪えた。
それと同時に、さっきのアルフレッドの話を思い出していた。
ミラはハンカチを取って、顔を上げるとルイに向き直った。
「ねぇ、ルイ。……どうして生徒会に入ったの?」
「それ、どこから?」
「アルフレッド様と、……お姉様が」
「……そう」
ミラの態度から大方の経緯を知られてしまったことに気づき、ルイは苦笑した。
「ルイ。嫌なら断ってもいいのよ?」
「……ミラ」
「だって、ルイ。部活に入って絵を描くって、張り切っていたじゃない。 ――あんなに嬉しそうに笑っていたじゃない!」
興奮したら、また涙が溢れ出てきて、ミラは慌ててハンカチを目に当てた。
「……ミラ」
「私、ルイには好きなことをして欲しい……」
ハンカチに顔を埋めるようにして俯いていると、ルイがミラの髪を優しく撫でた。
「ありがとう、ミラ。その言葉だけで十分だよ」
「ルイ……」
「大丈夫。心配しないで。アルフレッド殿下もそんなに仕事を押し付けないって約束してくれたし、絵を描く時間くらいあるよ。それに姉さんの言う通り、僕は伯爵家の跡を継がなきゃいけないし、生徒会に入ることはメリットなんだ」
「でも」
「心配くれてありがとう。絵を描くことも好きだけど、ローランド家の跡取りになることも僕の夢だから……」
「……ルイ」
「だから、もうミラが心配しないでも大丈夫だよ」
ルイはミラを慰めるように微笑んだ。
――それがルイの選んだ道なら、何も言えない。
「……うん、分かった」
ミラは静かに頷いた。
――――――
「え、冬季休暇?」
「そう、ミラも帰るでしょ?」
冬が近づいてきたある日。クラスメイト達の話で、間もなくそんな時期が来ることに気がついた。
全寮制の学園とは言え、年の瀬は学園も休みとなる。
ごく一部の希望者を除いて基本的には寮に残ることは推奨されていない。
特に聞いていないが、ミラも帰らなければいけないのだろう。
だが、正直。
――帰りたくない。
胸の中に嫌な気分が広がり、ミラはぎゅっと手を握りしめた。
けれど、そうも言えない。
「ええ、そうね……」
曖昧に頷いた自分が上手く笑えていたかは分からなかった。
そして、季節はあっと言う間に巡る。
「――え? ルイ、一緒の馬車じゃないの?」
てっきり一緒に帰るものだと思っていたルイに直前になって言われて、ミラは衝撃を受けた。
「うん……。本当は一緒に帰りたかったんだけど、急に生徒会から仕事を頼まれて」
「……そう」
「一緒に帰れなくて、ごめんね」
「うん……」
グレースお姉様もアルフレッド殿下のところへ呼ばれているらしく、挨拶周りをしてから帰ると言っているので、帰りの馬車はミラ一人だった。
姉と二人で気づまりしながら同じ馬車に乗るのも嫌だが、それよりも一人で馬車に乗るのはもっと怖かった。
幼少期に母親を亡くした事故は、ミラに強いトラウマを残していた。
王都からの帰り道で山間部の崖から転落したことを思い出すと、今でも息ができなくなるような苦しみを覚えていた。
お屋敷から王都へ来る際はルイが一緒だったので、怖かったけれど、それでもなんとかなった。
今回もルイと一緒なら安心して帰ることができると思っていた。
それなのに――
「ねぇ、ルイ。私、ルイの仕事が終わるまで待つわ。そして一緒に帰りましょう?」
「うーん。でもいつ終わるか分からないし、もう馬車も手配してもらっているだろ? この時期はみんな馬車を使うから、もう一度手配し直すのは難しいし、荷物だってあるだろ? ミラは先に帰った方がいいよ」
「……でも」
「出来るだけ、早めに終わらせて追いつくようにするから」
「……うん」
ミラは諦めて、承諾した。
ルイのいない帰り道なんて、不安しかない。
ただでさえ家に帰るのは億劫で、嫌な記憶が思い返される。
でも、ルイと一緒ならばそれも苦しくないのに……。
そう考えて、ミラはいつの間にかルイに頼りきっている自分に気がついた。
――ダメだ。
いつまでもルイに頼りきってはいけない。
甘えてばかりで、まるで成長していない自分が恥ずかしかった。
一人でも大丈夫。きっと……。
――――――
ローランド家があるレトナーク領は王都から馬車で二日程の距離にある。
家に帰るにはいくつかの街を越え、途中、宿場町にて一泊し、更に山道を越えなければならなかった。
一日目は特に大きな問題もなく、久しぶりに長時間座りっぱなしで疲れた体を宿で休んだ。
翌日の天候は晴れで、ミラは安心して、馬車に乗り込んだ。
――あの時みたいに嵐の予兆もないし、きっと大丈夫。
気を抜けば、腹の奥底から不安がせせり上がってきそうになるのを無理矢理押さえ込み、ミラは自分に何度も大丈夫だと言い聞かせた。
起きていれば不安になるだけ、いっそ寝てやり過ごせばいいわ。
そう思って、目を瞑っていると、昨日の疲れもあってか、すぐに眠ることができた。
ミラが目を覚ましたのは、それからしばらくの事だった。
急にガタンっと大きな物音と共に馬車が大きく揺れて、ミラは驚きに目覚めた。
「――な、何?」
心臓がバクバクと鳴り、全身から血の気が引いていく。
恐る恐る窓の外を覗くと、景色が斜めになっていた。
「――っ!」
驚いていると馬車の外から声が聞こえ、ドアが開けられ、御者の男が顔を出した。
「――お嬢様、大丈夫ですか?」
「な、何があったの?」
震える声でミラが訊ねると御者も困ったように説明をする。
「実は後輪が破損して――」
ミラが外に出て確認すると、確かに御者の言う通り、馬車の後輪が壊れていた。
ミラは改めて周囲を見渡し、ここが平地で良かったと息を漏らした。
今はまだ山道に入る前だったが、これが山道だったら一歩間違えば、崖から転落していたかもしれない……。
――あの時みたいに。
ゾッと背筋が凍り、一瞬、息ができなくなった。
両腕を摩り、なんとか平常心を取り戻そうと試みるも、身震いは中々止まらなかった。
「とりあえず、こうしてても仕方ないし、私は町に戻って、もう一台馬車を呼んできます」
「ま、待って……」
御者の男は手早く馬車の車体から馬を外していく。
確かに助けは必要だが、彼が町に戻る間、ミラ一人になってしまう。
こんな何もない山の麓で一人で取り残されるのはゴメンだ。
それだったら、一緒に馬に乗せてもらい、町に戻った方がマシだ。どの道、ミラ一人が残ったところで、荷物番にもならないだろう。
そう考えて、提案しようとした時、後方から馬車が駆けてくる音が聞こえた。
「あれは……」
「――馬車の音だわ!」
なりふり構わず、ミラはその馬車に向かって駆け出すと、大きく両手を振った。
「と、止まってっ!」
突然目の前に走り込んできた令嬢の姿に、馬を操縦していた御者が手綱を引いた。
「おっと!」
馬車が止まると、すぐに馬車の車体から、一人の少年が顔を出す。
「急に止まって、一体何があった? ……え、ミラ?」
「ルイっ!」
馬車から顔を覗かせたルイの姿に、ミラは驚きつつもホッとし、その場にへたりこんだ。
――――――
「……そう。大変だったね」
「ルイが来てくれて良かったわ。どうすればいいか困っていたの」
荷物をルイの馬車に積め直し、馬車を乗り移ったミラは心の底から安堵の息を吐いた。
ルイが用意した馬車は少し狭く、二人分の荷物を積んだら、ぎゅうぎゅうとなってしまった。
狭い車内で二人が向かい合いながら座ると、馬車は再び屋敷に向けて出発した。
「でも、ルイも早かったのね。生徒会の用事は大丈夫だったの?」
「ああ、大した用事じゃなかったから、夕方終わってからすぐに発ったんだ。翌日発っても良かったんだけど……ミラが心配で」
ボソリと呟くように言うルイに、思わず目が潤んでしまう。
――ルイは私が一人で家に帰るのに、心配して追いついてくれたんだ。
恐らく休憩もそこそこに急いで馬車を走らせてくれたのだろう。
その心遣いに胸がいっぱいになった。
「ありがとう。ルイ」
「うん。でも、本当に追いついて良かった。下手をしたら、怪我をしていたかもしれない。いや、怪我どころじゃ済まなかったかも……」
「……」
「ああ、ごめん。嫌なことを思い出させちゃって」
「ううん。いいの。……私もそう考えていたから」
「ミラ……。怖かっただろう」
俯くミラを心配して、ルイがミラの隣へと移動する。
「手を握ってもいい?」
「うん」
ルイの手がそっとミラの手を包んでくれた。
「――ありがとう、ルイ」
ミラはルイの優しさに包まれながら、ルイの肩に頭を預けた。
――――――
その後の道中は何事もなく、夕方には無事にお屋敷に帰って来れた。
ルイと一緒に両親に帰宅した旨を伝え、ミラは久しぶり自分の部屋へと戻った。
学園の寮よりずっと広い筈なのに、久しぶりに帰る自室はなんだが酷く窮屈に感じた。
久しぶりの帰省だというのに例によってミラは一人、部屋で引き篭もるように静かに過ごしていた。
幸い、学園から持ってきた教科書を読んで授業の復習や予習をしていたので、そこまで退屈することもなかった。
その日も自室で勉強をしていると、外の方が騒がしくなる。
ミラとルイの帰省より二日遅れて、グレースも帰ってきたようだ。
出迎えるために玄関ホールに顔を出すと、ちょうど玄関の扉を潜ったグレースと目が合った。
「おかえりなさいませ。グレース様」
グレースは出迎えたミラの顔を見て、なんだか一瞬つまらなそうな顔をした。
「貴女、帰りの馬車で事故に遭ったんですって?」
「――どうしてそれを」
しかし、ミラの疑問には答えず、グレースはミラの脇を通り過ぎる。
「ルイが助けてくれて良かったわね」
すれ違い様に冷ややかな声でグレースが囁いた。
「――っ」
心臓がバクバクと鳴った。
どうしてお姉様がそれを知っているのだろうか?
まさか、お姉様が?
いや、そんな筈はない。
――でも、あの目。
軽蔑するような瞳で、明らかに残念そうに自分を見ていた。
――もし。もしも、お姉様が企てていたとしたら、どうしてそんなことを?
ミラは一つの原因を思いつく。
……アルフレッド様に親しくしたから?
でも、それは誤解だ。
別に特別な関係でもなんでもない。
たったそれだけのことでお姉様がそんなことをするはずがない……。
そう思いたかったのに、嫌な想いは拭えなかった。
部屋に戻り、ミラはキャビネットの中を探る。
引き出しの奥に隠すように大事にしまっていた思い出のハンカチを取り出した。
母の遺品は悉く継母のパトリシアに捨てられてしまったけれど、これだけはいつも肌身離さずに持っていたお陰で捨てられなかった。
「――お母様」
子供の頃のように母の膝の上で泣きたかった。
ミラはハンカチの刺繍を撫でながら、一人涙を零していた。
――――――
「え。今、何と?」
家に戻り数日が経ったある日のこと。
ミラは伯爵家当主である父の書斎に呼ばれていた。
「お前の婚約が決まった。相手は隣領に住むキャンベル卿だ。相手はお前よりちょっと年上だが、またとない良縁だぞ」
同じ屋敷に居ても滅多に顔を合わせることのない父親との久しぶりの会話がこれだった。
あまりに突然のことにミラの頭は追いついていかない。
――結婚? なぜ急にそんな話が?
「ちょっと、待ってください。お父様。急にそんなことを言われても」
ミラは父親に訴えるが、伯爵は全く耳を貸すことは無かった。
「ともかく、話は決まったんだ。向こうはすぐにでもお前を迎え入れたいと申している」
「待ってください! すぐにとはどういうことですか? が、学校だってありますのに!」
「残念だが、そちらは辞めてもらう」
「そんな……」
父親の残酷な言葉にミラは言葉を失った。
「年が明けたら、すぐに向こうへ行ってもらう。そのつもりで準備をするんだぞ」
――――――
あまりに突然ことで何も考えられなかった。
ミラはフラフラと庭園のベンチに座り込む。
どれくらいそうして座っていたのだろうか?
自分の名前を呼ぶ声でミラはぼんやりと意識を取り戻した。
「……」
「――ミラっ!」
顔を上げると、すぐ目の前にルイが立っていた。
「……ルイ」
ルイの顔を見て、ミラの瞳から涙が溢れ出す。
止まっていた時が流れ出すように、溢れた涙が頬へ伝っていく。
「ルイっ、わ、わたし……、お父様が……、どうすれば……」
言葉にしたいのに、何をどう言っていいか分からない。
口に出てくる言葉は意味をなさず、涙しながら喘ぐことしか出来なかった。
そんなミラをルイが堪らずに抱きしめた。
「こんな、馬鹿げた話があるかっ!」
ミラをキツく抱きしめながら、ルイが怒りに叫んだ。
初めて聞く、ルイの怒った声にミラの凍りついた心が溶けていく。
こんな時だと言うのに、自分のために怒ってくれるルイの気持ちが嬉しかった。
――だが、それが同時にどうしようもなく苦しい。
ギュッと抱きしめてくれるルイに縋り付くように、ミラはその背中に手を回した。
「ルイ……。ルイ、ルイ、ルイ」
この気持ちをどう伝えればいいか分からず、ルイの名をただただ呼んだ。
呼ぶ度、ミラを抱きしめる力が強くなる。
「……お父様に申し出する」
ミラを抱きしめたままルイが言った。
「ルイ?」
「だって、こんなことないだろう!?」
「……でも、もう決まってしまったことなのよ?」
「そんなこと知るか! 本人の承諾も無しに一方的になんてあり得ない! ――こんなことは許せないよ」
「……でも」
「ミラ。――もし反対されたら、二人で逃げよう」
「――っ!?」
「ミラ、僕は……」
ルイがミラの肩を両手で押し、顔を上げる。
何か覚悟を決めたルイの顔。
その瞳は美しく、ミラは息を呑んだ。
眩しいルイの顔を正視できなくて、ミラは視線を彷徨わせる。
しかし、その時、視界の端にこちらを見ている視線に気づいた。
屋敷の窓に二人の人影が立っていた。
――お継母様と、お姉様?
ゾッと血の気が引くと共に、こんなことになった要因がパズルのピースが当てはまるように一瞬にして理解する。
ミラは慌ててルイの体を引き剥がすと、泣きそうになるのを堪えながら必死に声を振り絞って言った。
「――ダメよ、ルイ。これはもう決まったことなの。……私なら、大丈夫。今までだってなんとかなってきたもの。きっと大丈夫よ。ねっ?」
「……ミラ、何を?」
戸惑いの声を上げるルイにミラは無理矢理笑みを作る。
「いいの。私、決めたから。――これでいいの」
きっと上手く笑えていない。
けれど、それで良かった。
「ありがとう、ルイ。気持ちは嬉しかった」
そう言って、ミラはルイから逃げるようにして、その場を立ち去った。
「ミラっ!」
後ろでルイが叫ぶ声が聞こえたが、それを振り切り、唇を噛みながら懸命に走った。
目の奥が痛いほど熱くなる。
こんなに苦しい感情がこの世に存在するなんて知らなかった。
――きっと、お姉様がお継母様に言ったんだわ。
ルイはこの伯爵家の次期跡取り。
でも、ルイは私に好意を持ってくれていた。
言われなくても分かる。
あんなにいつも優しく接してくれて、その心が届かないわけがなかった。
熱い眼差しで見つめられる度に胸の奥が締め付けられた。
でも、ルイが私に好意を持っていることを、お継母様は気に入らない筈。
だから、こんな急に婚姻の話が進められたのだ。
それこそもう学園には戻れないほど、早急に。
ルイには迷惑をかけられない。
もし、ルイがお父様やお継母様に刃向かって、本気で自分と逃げようなんて考えたら……。その先に待つのは何?
ルイを想うのなら、彼の未来の負担にはなりたくなかった。
ああ、アルフレッド殿下がお母様を思う気持ちがよく分かった。
自分の行動一つで相手の未来が動いてしまうことの怖さ。
幼い頃より、ローランド家の家督を継ぐ為に今まで勉強を頑張ってきたルイをずっと見てきた。
ルイのことが大切なら、私はここで身を引かなければいけない。
こんな気持ちは持ってはいけなかった。
いつのまにか育ってしまった恋心が苦しい。
こんなことになるのなら、いっそ気づかなかった方が良かったのに。
震える足でなんとかミラは自分の部屋へと戻った。
ドアを閉めると、涙をボロボロと流しながら、その場に泣き崩れる。
「――ルイ」
――――――
「……ミラお嬢様。お元気で」
悲しい顔で声をかけてくれたのは長年お世話になった使用人達だった。
「みんなも元気で」
口にしたい想いはたくさんあったが、どれも喉の奥に引っかかって、凡庸な別れ言葉しか出てこなかった。
最低限の荷物しか入っていないトランクが馬車に積まれ、いよいよお別れの時が来た。
「ミラ」
抑揚のない声がミラの名前を呼んだ。
「グレース様……」
どう反応したらいいか分からないでミラが顔を曇らせると、グレースが一歩近づいてミラの手を取った。
手袋越しに伝わるグレースの体温。
しかし、ミラには異様に冷たく感じた。
「寂しくなるわ」
口ではそう言うが、その顔には笑みが浮かんでいる。
みんなには背を向けているので、ミラ以外、彼女が笑っていることに気づく者はいない。
「グレース様もお元気で……」
震えそうになる声でミラはなんとかそれだけを吐き出した。
グレースの手が離れ、彼女は見送りの列の中に戻る。
父と継母は何も声をかけなかった。
そんな二人にミラも黙ったままお辞儀をする。
見送りの中にルイの姿はなかった。
「……ねぇ、ルイは?」
ミラは使用人の一人に尋ねた。
「それが、朝からお姿が見えなくて……」
「そう」
最後に一目見たかったけれど、これで良かったのかもしれない。
きっと見たら、忘れられなくなる――
ミラは馬車に乗り込み、六年間余りを過ごした屋敷を眺めた。
そして、ゆっくりと馬車は動き出し、婚約者のいる隣領へと向かった。
――――――
キャンベル卿のある屋敷までは平坦な道が続いていた。
普段あまり通ることのない道だったが、景色を眺める気力すらなく、ミラは窓のカーテンを閉めて、じっと座り込んでいた。
「――っ!」
屋敷へ向かっている道中で突然馬車が止まった。
急に止まったものだから、車体も大きく揺れ、ミラは壁にしがみつく。
先日の事故を思い出し、ミラは恐る恐る窓にかかっているカーテンを捲り、外を覗いた。
特段、馬車が傾いているというわけではない。
よく見ると、ギャレット卿の屋敷と思われる建物が遠くの方に見えた。
周りにはその一軒だけで、後は雑草の生えた草むらだけが広がっていた。
こんな所で何事かと思って耳を澄ませると、外から何やら男達の言い争っている声が聞こえてきた。
「……何かしら?」
不安になりながら、そっと窓に顔を近づけると、聞き慣れた声がミラの耳に届いた。
「――ミラっ!」
「……ルイ?」
息を呑み、ミラは慌てて入り口のドアに手をかける。
ドアを開けると、そこにルイの姿があった。
「ルイ!」
一度は忘れてしまおうと思った恋心が一気に胸の中に溢れ出す。
ミラが手を差し伸べるとルイの手がしっかりと掴み、馬車からミラを下ろす。そしてそのまま体を引き寄せられて、ルイの腕の中に抱きしめられた。
「――ルイっ! ルイ!」
「……ごめん、ミラ。ごめん」
ルイの手がミラの背中をキツく抱きしめた。
ミラは泣きそうになりながら、顔を上げ、ルイを見つめた。
「どうして……?」
「君を助けにきた」
ルイの真剣な眼差しがミラを射抜く。
「やっぱりこんなの我慢できないよ。――僕と逃げよう、ミラ」
「――っ」
それはこの上ない嬉しい言葉だった。
しかし、同時にルイの未来を奪う残酷な意味を持つ。
「……逃げるなんて、できないわ。貴方の将来はどうなるの? 伯爵家を継ぐのでしょう?」
「君を犠牲にしてまで継ぐことなんて、できない」
「……でも」
言い淀む二人の間に別の声が割って入ってくる。
「お二人さん、少しいいかな。このまま、ここで話をしている暇はないぞ」
ルイの他にまだ人がいたことに気づき、ミラは驚いて振り返った。
「あ、アルフレッド殿下!? ――どうして?」
「ルイから頼まれてな」
目を見開いて驚きの表情を見せるミラに、アルフレッドは苦笑しながら肩を竦めた。
よく見れば、アルフレッドは御者に剣を向けて、馬車を止めていた。
彼の傍にはルイとアルフレッドが乗ってきたのであろう馬が二頭。
二人は馬に乗って、わざわざ馬車に追ってきたのだろうか?
「……どうする? とりあえず場所を移そうか」
そうアルフレッドが提案した時だった。
ミラ達の前方の道から蹄の音が聞こえてきた。
「……おや、これはこれは。私の家の前で何事ですかな?」
馬に乗って登場したのは、ミラ達よりも一回り以上年上の貴族の格好をした男だった。
細身の身体という以外は特段特徴のない何処にでもいるような紳士風の男を見て、アルフレッドだけが顔を顰めた。
「――ギャレット卿」
名前を呼ばれた男は興味深そうに目の前の光景を眺め、目を細めた。
――――――
時間になってもなかなかやってこない花嫁を迎えに出た筈の主人が、何故か花嫁以外の人間を引き連れて戻ってきたので、ギャレット家の使用人達は慌てて客間の用意をした。
何しろ、その中にこの国の王子がいるのだ。
状況が掴めないながらも、使用人達は主人に命じられ、訳ありの花嫁と王子達を客間へと案内した。
「……なるほど。事情は分かりました」
この場で一番部外者であり、客観的に成り行きを見ていたアルフレッドが代表してギャレット卿に経緯を説明すると、ギャレット卿は取り乱すわけもなく淡々と頷いた。
「――ごめんなさい」
ミラは堪らず、謝罪を口にする。
ギャレット卿からしたら、嫁いできた花嫁が結婚は嫌だと騒ぎ立てているのだ。
たまったものではないだろう。
「――僕が言える立場ではないですが、この結婚、白紙にしてもらえないでしょうか?」
ミラの隣で、キツく両手を握ったルイがギャレット卿に頭を下げて言った。
「……そうですか。仕方ありませんね」
予想に反して、ギャレット卿はあっさりと了承に言葉を口にする。
「え?」
「……いいのですか?」
これにはお願いしたミラ達の方が呆気に取られた。
「元々、こちらも結婚など乗り気ではありませんでしたから」
ため息混じりにギャレットは言うと、肩を竦めてみせた。
「では、どうして?」
「借金の肩代わりですよ」
「――借金!?」
「おや、聞いていらっしゃらない? ローランド家は経営悪化で、数年前から私共に多額のお金を借りておられます」
「……そんな」
そんな話はミラもルイも初耳だった。
まさか、借金の形としてミラを差し出す真似をしていたとは思いもよらず、二人は言葉を失った。
「ギャレット家は金貸しでも有名な男爵家だからな。――しかし、そういうわけか」
一人冷静にアルフレッドが言う。
「別に私も今更結婚など興味もないし、する気もなかったのですが、お金が返せないのでどうしてもと貴女を差し出されたのです」
「……そんな」
ショックの余り目眩を覚え、ミラは額を手で抑える。
「ミラ、大丈夫?」
「……ええ」
そんなミラを気遣い、ルイは心配そうに見つめた。
そしてルイは顔を上げると、ギャレット卿に言った。
「――お金は必ず返します。だからミラを解放してください」
「返す当てはあるのですか?」
「それは……」
言い淀むルイ。
無理もない、彼はまだ領主でもなんでもなく、勉学中の少年でしかなかった。
「私が肩代わりをしよう」
言い淀むルイの代わりに助けを出したのは、アルフレッド殿下だった。
「アルフレッド殿下!?」
ミラとルイはアルフレッドに驚いた顔を向ける。
「……そんな。殿下に、そこまでしてもらう義理はありません」
「それが、そういうわけでもないんだ」
「え?」
アルフレッドは凛々しい眉を顰めると、深いため息を吐いた。
「ギャレット卿」
アルフレッドがギャレット卿を一瞥すると、すぐに状況を察したギャレット卿は席を立つ。
「一度席を外させてもらいます。お話がつきましたらお呼びつけください」
「ああ、すまないな」
ギャレット卿が部屋から出ていくと、アルフレッドは改めてミラとルイに向き直った。
「アルフレッド様?」
「ミラ。君にはあまり耳にしたくない話となるだろうが、知っておく義務がある」
「なんでしょう……」
「どうやら、今回のことの顛末にはグレースが関わっている」
「――お姉様が?」
グレースが関わっていると聞いて、ミラは息を呑んだ。
「先日の馬車の事故。ルイから頼まれて調べさせてもらった。その結果、グレースが関与していたことが明らかになった」
「……お姉様が」
「君も薄々気づいていたのだろう?」
アルフレッドの言葉にミラの瞳が大きく揺れる。
「…………でも、信じたくなかった」
苦しい声で漏らすミラに、ルイがそっと手を取った。
「……お姉様は、やっぱり私が憎かったのね」
認めたくなかった。
目を逸らし続けていたが、もう無理だった。
ミラの瞳から大粒の涙が溢れた。
「ミラ」
ルイの手がキツく、ミラの手を握る。
「あれでも彼女は私の婚約者。婚約者の不始末は私が責任を取る。ミラ、君にはすまないことをした」
「いえ、殿下は何も悪くありません」
「……いや、そうでもない」
「え?」
「グレースに、君のことを話したのが気に入らなかったのだろう」
「私の?」
アルフレッドは首を横に振り、小さく笑った。
「忘れてくれ。君にはもう既に想っている男がいると知らずに、つまらないことを言っただけだ」
「……殿下」
ミラが驚いて目を見開くと、それに気づいたルイがアルフレッドを睨んだ。
「アルフレッド殿下」
「ハハ。睨むな、ルイ。どうせ私は振られている」
「そうだろう?」と、アルフレッドから見つめられて、ミラはルイを横目に見て、顔を真っ赤にして頷いた。
「……ミラ」
感極まった様子でルイが嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、ますますミラは顔を赤くしていく。
「おっと、いちゃつくのは後にしてくれよ」
すぐさまアルフレッドが牽制し、二人は慌てて目を逸らした。
そんな二人を眺めて、アルフレッドは小さく息を吐く。そして、顔を上げると、今度は真剣な目をルイへと向けた。
「ルイ。伯爵家の当主となる覚悟はあるか?」
アルフレッドの赤い眼が厳しくルイを射抜く。
「――あります」
ルイは真面目な顔で頷いた。
「はっきり言って、今の伯爵家を立て直すのは厳しい道のりになるぞ」
「それでも――」
ルイの手がぎゅっとミラの手を握った。
「二人ならば乗り越えられると信じています」
ルイの言葉にミラも大きく頷く。
そんな二人の熱い意志にアルフレッドは眩しそうに目を細めた。
「そうか。なら、私が言うことはない。――頑張れよ」
「はい」
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その後、アルフレッドの告発により、グレースは実の妹の殺人未遂の罪に問われ、アルフレッドとの婚約は破棄され、修道院へ送られることとなる。
あちこちに多額の借金をしていたことが判明した伯爵夫妻は、いくつかの不正行為に手を染めており、その身分は剥奪、その身は僻地へと追放された。
そして家督は息子のルイへと引き継がれることとなった。
アルフレッドに肩代わりしてもらった借金や貧しい領地の運営にルイは奮闘することになる。
しかし、その隣には優しい妻であるミラの姿があった。
優しく賢い新しい伯爵夫妻は領民に愛され、領地を繁栄していくことになるが、それはもう少し先の話となる。
「――ミラ」
少し前を歩くルイが優しい声でミラを呼ぶ。
ミラが歩くたびに、淡いピンクのドレスが風に揺れた。
レトナーク領地にある丘で、ミラはルイに連れられ、ピクニックに来ていた。
忙しい業務の合間に作った僅かな息抜きに、二人は心を弾ませ、花畑を歩いていく。
今日ミラが着ているドレスはルイがデザインしたもので、かつてルイが見せてくれたあの絵にそっくりなドレスだった。
家督を継いだルイは毎日奮闘していた。
ミラもその手助けになるよう勉強をしている。
若い二人が、前伯爵が行った振る舞いによって失われた信用を取り戻すことは簡単なことではない。
けれど、二人ならそれが出来ると信じていた。
幸い、アルフレッド殿下や残ってくれた使用人達など、多くの人が力を貸してくれていた。
「待って、ルイ」
ミラは差し出されたルイの手を取る。
――もう決してこの手を離すことはない。
自分をいつも守ってくれた大切な手をミラはしっかりと握る。
ルイの晴れやかな笑顔につられるように、ミラは優しく微笑んだ。
最後までお読みいただきありがとうございました。
短編としては少し文字数がありますが、連載ではなく短編として出したかったので、一気に仕上げました。
前書きにも記載しましたが、
こちらの短編は、現在連載中の「悪役令嬢はお姉様と呼ばれたい!」の作中に登場する乙女ゲームのシナリオストーリー(ルイルート編)となります。
本編は、こちらの短編に登場する意地悪な姉グレースが主人公です。可愛い妹ミラを溺愛するコメディ要素のある奮闘記となっております。興味があったら、是非読んでいただけると嬉しいです。
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